第6話 2023年4月30日
予定していた静岡旅行は俺の体調不良で流れて残念だったが、それよりも遥かに大きな感情の波を感じている。
今、俺は30歳で、来週31歳になる。そんな年齢だが布団の中で大泣きした。古びた掃除機や陶器の笛なんかが出すようなかすれた音を喉奥から垂れ流しながら泣きじゃくっていた。感情を大きく揺さぶる記憶が唐突に蘇ったのだ。草木も眠る丑満時だからこういうことが起きても不思議ではない。
俺の誕生日が5月初頭であることとは多分関係なしに、昔から、4月の終わりから5月中旬くらいの初夏と呼ばれる季節が好きだった。誕生日そのものはどちらかといえば嫌いだった。俺は誕生するべきではなかったと思っていたし、今もそう思っている。それでも葉桜や欅の緑と、風の薫りが好きだった。
そして人生で一番幸せな瞬間を味わったのもこの季節で、蘇った記憶というのもこの瞬間に関することだ。
その記憶によると、俺が高校1年生のゴールデンウィークの頃、窓際の長椅子で脚を投げ出して何かの本を読んでいて、その途中で浅く微睡んでいたのだ。窓が少し開いていて、ゆるやかな風がカーテンを少し揺らして、気持ちの良い日当たりでまどろみ始めた俺の足の上に、飼い犬がトコトコと乗ってきた。彼は顎を俺の太ももに乗せ、俺もほとんど無意識に彼の頭と耳元、背中、顎などを撫でた。彼も無論なんの抵抗もせず撫でられるままでいて、俺は腿の上のやや高い彼の体温と重み、パピヨン特有の耳毛の手触りと、柔らかな気候に安心して満足していた。考えるべきこと、不安に思うべきことはあの瞬間には何もなかった。
俺の記憶の中の出来事は以上だ。
俺は多分、今後の人生でこれ以上の瞬間を味わうことはないと思う。味わいたくもない。この記憶を一番にしておきたい。
犬についてもう少し。俺はこの犬が大好きで、よくよく可愛がっていたものだった。兄弟で友だった。俺が中学2年のクリスマスイブに両親が買ってきた犬で、とても顔立ちが整っていて、かかりつけの獣医も「こんなに可愛い子は見たことがない」なんて言っていたものだった。もちろんその獣医なりのお世辞の可能性もあるが、多分違う。本当に可愛かったのだ。とても賢く、誇り高かった。
その犬は死んだ。俺が社会人2年目頃の冬だった。彼と過ごした多くの思い出があったはずだが、今となっては薄れている部分もある。なんとなく当時の暖かさを感じるだけで詳細を思い出せないところがある。
彼の名前を呼ぶと、いつだってちょっと頭をかしげてこちらの声を聞いていたものだった。だけどどんな風に振り返るか、どんな匂いだったか、少しずつ記憶が薄れている気がする。最良の思い出ですらこうなのだ。いいことも悪いことも、いつか俺の記憶が全て失われる。
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