第9話
異変が起きたのは真夜中のことだった。
ゆさゆさと体を揺さぶられて、岡崎は眠そうな目で上体を起こす。濡れた髪のまま布団に寝転んだあと、西園寺に叱られ髪を乾かしその後はなんでもない雑談をして少し早めに寝たはずだ。体感時間としてはまだ朝ではない。
現に長いカーテンが閉められているとはいえ、その隙間から朝日が差し込んでいる様子は無い。完全にまだ夜の最中であった。
何事ですか。お気楽な口調で、眠そうに問いかける岡崎の頭を西園寺が軽く叩いた。その衝撃で少しだけ眠気が飛んだ岡崎は、そこでやっと異常に気がついた。
音が、するのだ。軽く下駄を転がすような、軽やかな音が。かんからり、かんからり。それは少し離れたところから聞こえているように思う。
水込村では六時以降の外出が基本的に咎められている。それも野生動物がうろついているかもしれない真夜中に、下駄で出掛けるような人間などいやしないだろう。
ようやくことが現在進行形で起きていることに気が付いた岡崎は、自身を揺すって起こした相手、梶野へ問いかける。
「これ、いつから聞こえてましたか」
「分かりません、でもお手洗いに行ってから戻ってきたら音がしてて、それで怖くなって……」
「梶野さん、確か下駄の音の幻聴がするって言ってましたよね、依頼の時。それはこの音ですか」
「はい、間違いありません」
「待ちなさい庶民、わたくしはそんな話一つも聞いていなくってよ。わたくしが聞いたのは、この水込村で奇祭が行われるということのみで、幻聴のげの字も聞かされてなんかいないのだけれど。どうなってるのかしら、綾」
「それは私の伝達ミスです、すいません! でも今はそんなこと言ってる場合じゃないですよ! 変な音がしている以上、原因を突き止めるのが私達の仕事ですから」
「貴女ねえ……!」
「梶野さん、オカルト研究部に来た時からこの音は近くなってますか」
「少し……でもまだ遠くにいる……?」
「はい、まだそう接近はされていないようです。ですが、依頼時より近付いているとなると時間の問題でしょうね。私は少し外を見て見ます、その間梶野さんを頼みますよ先輩」
「綾! ちょっと!」
岡崎は梶野を西園寺に託し、大広間から玄関側へ出る扉を開けた。春先とはいえ、夜は冷え込む。リフォームされているとはいえ、作り自体は昔のままなのだろう。嫌に冷えた廊下をそっと足音を立てずに歩き、玄関まで到達する。
引き戸にかかった鍵をそっと開け、出来る限り音を立てないように引き戸を引き上げる。がらがらと微かな音を立てながらも開いた扉の先、広がっているのはただの庭と田畑のはず。
……だった。
何の変哲もなく広がっているはずの田畑の先に。それ、いや、それらは立っていた。
薄らぼんやり確認できるシルエットは人のようであるが、それにしては足の辺りに違和感があるのだ。
人間の関節ではありえない曲がり方をしたその足は、悠然と大地を踏み締め、そこにそれを存在として立たせている。それらの頭部は人の形をしておらず、何か別の、例えば牛であったり山羊であったりを模しているかのように見えた。
明らかに人ならざるもの。それが複数体、複数体では足りない程に山と田畑の境界線に並んでいる。それはまるで常世とあの世を隔てているかのようで薄気味が悪かった。
かんからりという音は、あれがこちらへ近付いている音だったのかもしれない。いつの間にか止んでいたかんからりという音の出処らしき影を確認して、岡崎は思考する。
あれらはこちらへ歩いてきていない。ただ一様に並んでこちらを眺めているだけのように見える。ならばかんからりという音を出していたのは果たしてあれらだろうか。
霊障として、音を立てるというのはポピュラーだ。ポルターガイストなんかとセットでよく見られるものではある。
だが。それが奇祭が行なわれる場所の外から生じているということに岡崎は疑問を持った。
奇祭に関わる霊障であるのなら、この水込村という限られた場所でしか起こりえないはずなのだ。
怪異というものにはテリトリーがある。テリトリー内であれば怪異は強力な影響力を持つが、それ以外ではめっきり力を失う。一般的にはそうだ。
トイレの花子さんであれ、口裂け女であれ。現れる場所は必ず決まっている。そこがそれらのテリトリーであるからこそ、そこに現れるのだ。逆を言ってしまえばそこ以外では常世に影響を及ぼせないが故に、それらは出現しない。
それを踏まえて考えると、このかんからりという音は、テリトリーが水込村から岡崎達の大学というだだっ広い範囲になってしまう。それは現実的に考えてあまり説得力がない。
「……もしかして、これいくつかの怪異の複合体だったりします? 音と、あれは別……? でもそうすると音の出現の理由がつかない……」
「綾! 早く戻ってきなさい! 彼女、貴女に何かあったのかって泣きそうになってるわ!」
「あ、はい! すぐ戻ります!」
外で思考にはまりこみそうになったところ、西園寺の声で意識が引き戻される。春の夜風に晒された体は先程まであんなに温かかったというのに、嘘のように冷えきっていた。
また先程同様音を出切りだけ殺して引き戸を閉め、大広間へと戻ると泣きそうな顔をして震える梶野の姿があった。酷く混乱し、恐怖しているその姿は守ってやらねばという庇護欲を掻き立てられる。
「先輩、外には何が……」
「何かがいました。人ではありません」
「……人では無い何か、ね。なら先程の音はそれのせいかしら?」
「いえ、私にはそうとは思えません。ただ、あれがなんなのか分からない以上、安全だとも言えません」
「一応聞いておくけど……何がいたのかしら」
「人のようで、どこか動物めいた特徴を持つ何かとしか。頭と足は人ではありませんでした。遠くに立っているので、それだけしか分かりません。けれどあれは」
ーー確実にこちら側のものです。先輩には見えなかったでしょう。
静かで、淡々とした声だった。だがしんと静まり返っている大広間には、声を殺しているはずのその声ですら大きく響き、反響しているようにさえ感じられた。
西園寺は震えている梶野の体をぎゅっと抱き締め、一度だけ深く頷いた。そしてそのまま続ける、わたくしの目のは何も見えなかったわ、と。
梶野がひ、と声を引き攣らせる。それを宥めながら、西園寺は岡崎にも同じようにするようアイコンタクトをとった。
岡崎は最初その意図が分からなかったようだが、西園寺がしているように梶野を抱きしめ優しい言葉をかけ続けた。
大丈夫ですからね、怖くありませんから。
そんな保障は無いのに、口から出たのはそんな在り来りな言葉だった。根本的な解決方法もないまま、夜は刻々と過ぎていった。
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