第三章 君の心に道化がある限り #8

 ステージにあがった時、僕が目にしたのはガラガラの客席だった。県大会とはいえ、朝から晩までアマチュア高校生の演奏が続くわけで、関係者か、出場者の家族か、よほど吹奏楽が好きな人じゃなきゃ、朝から押しかけたりはしない。

 母の姿を探すと、後ろの方の席に控えめに座っていた。僕はトランペットを強く握りしめる。まだ、母は父の死を受け入れられたわけじゃない。でも、きっと──届くはずだ。父の想いは黒野を通して、僕の音楽に宿っているのだから。

 僕は席につくと、ダミーの黒い画用紙を譜面台に置いた。楽譜も楽器と一緒に家に忘れてきたが、全部頭に入っているから問題ない。ツール・ド・フランスのゴール前みたいな譜面が、うっかり客席に見えても恥ずかしいので好都合だ。

 やがて、部員が全員、ステージに出揃い、最後にやってきた顧問の弘前先生が拍手を浴び、指揮台に上って、指揮棒を構える。僕はベルを客席に向ける。安藤も同じようにする。トロンボーン平林も、ユーフォニウム呉も、先輩も、後輩も、一斉に楽器を構える。

 演奏が始まる。まずは課題曲のマーチ。その後に、僕のソロが控える自由曲だ。

 この十二分間の演奏のためだけに、お互いのことを本当はよく知らないはずの僕たちは、たくさんの時間を費やしてきた。上手だとか下手だとか、熱意があるとかないとか、人間関係の好悪とか、そういうのに関係なしに。僕はそのことにちょっとした奇跡を感じる。華礼が見たかった青春ってこういうものなんだろう──本当に、今、この瞬間にしか味わえない、一生忘れることのできない何かなのだろうな、と感じた。

 時間は信じられないほど、あっという間に流れていく。課題曲はあっさりと終わり、間髪入れずに自由曲に入る。演奏時間が規定ギリギリなのだ。クラッシュシンバルがガンガン鳴る派手な導入から、やがて熱した金属を水に浸すように、静かなクラリネットを軸とした進行へ。

 トランペットが十八個の全休符を演奏している間、僕は客席をじっくりと見渡していた。このどこかに黒野がいる。僕の音を、苦しみを取り除いてくれる福音と思って、待ちわびている。

 やがて、最初の象徴的な場面へ。全パートが参加して奏でる煌びやかなメロディが、朝にまどろむホールへと広がる。華礼のトランペットは、ある意味でかなり正直な楽器で、上手くできる場所はどこまでも伸びやかに響くが、少しでも油断すると、その油断が音としてそのまま飛び出る。だから、演奏中はずっと気を張っていなくちゃいけない。

 やがて、運命の時がやってくる。

 僕はトランペットを構える。他の楽器のボリュームが落ちる。ちらりと右を見ると、固く口を結んでいる安藤と目が合った。君の方が緊張しててどうする。僕は内心笑いながら、息を吸って、マウスピースに唇をつける。

 ──自分の音が、息に乗って、ホールの一番後ろの客席の、更に後ろを突き抜けて、どこまでも通り抜けていくようなイメージを持って。

 今の僕には想像できる。ホールの壁の向こう側には、どこまでも暗い暗い下水道が広がっている。そこには、ランタンの光に抱かれて、僕の音を待つひとりの女の子がいる。その子に向けて、僕はタンポポの綿毛を飛ばすような息遣いで、語りかける。言葉なき、ただの音で──君に恋をしていると。囁くように、叫ぶように、ベンチの隣に座って言うように、食卓で向かい合って言うように。僕は何度でも言った。たくさん、たくさん言った。君に恋している。君が好きだよ。君が大好きだ。君のことを──愛したいよ。ずっと、ずっと、いつまでも。

 息はどこまでも続いた。どんなに長いフレーズの最中にあっても、全く苦しくなかった。

 僕にはわかるよ、黒野、これは君の呼吸だ。

 君の息遣いが、僕を導いてくれるお陰で──僕は苦しくないんだ。息ができるんだ。

 この音で、君の苦しさもなくなったかな。安らかになれたかな。

 僕は深く祈った。祈りながら、ラストAのロングトーンを吹いた。僕は肺に残ったありったけの息をトランペットに注ぎ込む。音色はどこまでも明るく、悲しく、淡く、伸びていった。倍音がビリビリと空気を打ち鳴らし、うねって、広がって、そして、線香花火が消えるように、ふっと、溶けるように消えていった。

 ──バイバイ。

 最後に聞こえたのは、そんなかすかな言葉だった。

 その時、小さな命が終わったことを、長音の尽きた余韻の中で僕は悟った。

 ──うん、バイバイ、黒野。

 ソロが終わっても、演奏は続く。まるで、大切な人が死んでも、世界は相も変わらず続いていくように。僕は残りの演奏も精一杯、自分ができることを全てやった。そうして、輝かしい吹奏楽サウンドをいっぱいに鳴らして、曲は終わった。


 ステージの上にいる時は、まだ我慢できていた。

 ただ、上手にはけて、スポットライトから外れた瞬間、僕は駄目になってしまった。

「ねえ、伊庭、あのソロ……」

 後ろから話しかけてきた安藤が声を失った。駆け寄ってきた平林や呉も、同じように、なんと声をかけたらいいか……、という顔をして立ちすくむ。

「あああああ……」

 僕は慟哭していた。溢れる涙を必死で押しとどめること以外、何もできなかった。

 そこにいても他の部員やスタッフの人の邪魔になるので、呉と平林に迷子の子どもみたいに手を引かれて、人気の少ないトイレの前まで連れて行かれた。

「頑張ったね、伊庭」安藤が優しく言った。

「無事に終わって、安心したんだな」平林が労うように言った。

「マジで良かったぜ、ソロ……ナイスエロだったぞ」呉が真面目な顔をして言った。

「……よ」

 僕は掠れに掠れた声で言った。

「うん、何?」

 安藤が問い返してくる。僕は喉につっかえたものを取り除くように咳き込んで、もう一度、はっきりと言った。

「僕、ちゃんと届けられたよ」

 安藤はふっと、優しく微笑んだ。

「そっか。良かった」

「うん……ありがとう……」

 僕はその後、しばらくの間、泣き続けた。

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