第三章 君の心に道化がある限り #6

 僕は線路沿いの道で、必死に自転車を漕いでいた。

 黒野は下水道にいない。何故なら、下水道は黒野が死に場所を探すための手段でしか無いからだ。下水道を死に場所にするなら、最初から排水口を覗いて回る必要は無かったはず。つまり、黒野は僕の傍に代わる死に場所を地上に見つけて、そこへ向かったことになる。

 ただ、黒野は自力で排水口を開けられない。クラウン氏に頼めば開くけど、この数時間走り回っても開いたフタは見当たらなかったし、「探せ!」と僕に激励したクラウン氏が閉めてしまうことも考えにくい。

 なら、最初から開いている場所から出たのだ。

 僕は黒野と初めて出会った場所に差し掛かる。柵の抜けている場所だ。僕はここで黒野に導かれて、線路に入ったのだった。「見つけた」と言われて──今ならわかる。黒野が僕を探してくれていたのだということを。あの偶然こそが、この道化の始まりだった。

 今、柵の隙間にはバッテン印にロープが通してあって、「立ち入り厳禁」という当たり前のことが書いてあった。

「死にたくないのに死にたいのさ……か」

 もちろん、その場所には黒野はいない。でも、きっとここを通ったはずだ。

 クラウン氏の言った天からの光──それは、下水道で唯一、フタのしまっていないマンホール穴のことを指す。

 僕は通りすがりに、近くの裏道の方へ目を向ける。そこには開きっぱなしのマンホールがあった。あそこは僕が下水道に初めて飛び込んだ穴だ。あの時の吹っ飛んで消えたフタは、未だに戻ってきていなくて、下水道に光を取り入れ続けている。

 黒野はあそこから地上に出た。そして、僕のいない、でも、僕に関係した安心できる場所へと向かったのだ。

 僕はそれからもう少し自転車を走らせて、目的地に辿り着いた。それは、僕たちが揃って電車に撥ねられ突っ込んだ陸橋だった。

 自転車を降りて壁面を見上げる。電車に吹っ飛ばされた僕が衝撃で穿った穴が残っていた。黒野にとっては、初めて会った僕と初めて触れ合った場所だ。僕の部屋にいられない以上、最後の時を過ごすなら、あそこにするんじゃないか──と僕は考えた。

 しかし、実際に来てみて、僕はその考えの甘さに気がついた。穴は確かにあった。でも、位置が高すぎる。どんな挙動もオーバーになるギャグの演出でなかったなら、あの時、あそこから落ちた僕は肋骨を全部折っていただろう。

 僕は奥歯を噛んだ。どうやってあそこまで行こう。ぐるっと回り込んで陸橋を上り、降りていくしかないか──と考えて、ふと思い至る。僕ですら大変だと思ったのに、黒野にあんなところへ上る元気があるのだろうか。

 僕は落ち着いて、辺りを見渡してみる。と、ちょうど陸橋のたもとに生えた雑草の一部が、誰かが通ったように折れているのを見つけた。その痕跡は這うように続いていき、線路に張られた柵の隙間を抜けていっていた。

「そっちか……」

 確かに僕が近寄ることはないだろう。でも、今の僕に恐れはなかった。僕には道化がついている。僕は柵を跳び越えて、線路に進入した。敷き詰めてある小石を踏みしめ、痕跡を追って、陸橋の下へと入っていく。

 線路と陸橋の間のスペースには、野良の黒猫が数匹集まっていた。僕が近寄っていくと黒猫たちはびっくりした顔で、あっちこっちに逃げていく。

 そして──彼らのいなくなった後には、見慣れた黒いセーラー服に身を包んだ黒野が、背を丸くして横たわっていた。

「黒野──」

 やっと見つけた。やっと。

 僕は歩み寄って膝を突いた。黒野は眠っているようだったが、苦悶の表情を浮かべて深く口呼吸をしている。僕は、その白い頬を優しく撫でた。

「黒野……ごめんな。こんなところに追いやっちゃって……」

 そう呼びかけると、細い肩がぴくりと震え、黒野は目を開いた。

「だ、誰……」

 その黒い瞳はもう何も捉えていない。思えば、黒野は最初から目があまりよくなかった気がする。僕に会っても最初は警戒して逃げていたし、びっくりするほど直近で僕の顔を見ていたこともあった。そんな視力も、今ではほとんど衰えてしまっているようだった。

「黒野、僕だよ」

 僕はぐっと顔を近づけて、優しく告げてやる。黒野は「うぅぅう……」と細い呻き声を漏らした。

「いづき……ちがう、いづきじゃない……あんたは、いづきじゃない……」

 クラウン流の間違えた名前でみゃあみゃあ言って、僕を押しのけようとする。僕はとても辛くなったが、辛抱強く声をかけた。

「合ってるよ、僕だよ」

「ちがう、ちがうもん……いづきは、あたしのこと、嫌いになった……だから、あたしのとこ、来ないもん……」

「嫌いになってないよ。なれないよ」

「あたしのせいで、いづきは悲しいもん……」

 その言葉は僕の胸を貫く。なんて優しい子なんだろう。僕は慈しみに満ちた気持ちで、黒野の頭から首筋までをゆっくりと撫でてあげた。母の温もりに比べ、黒野の身体は冷えて、硬くなりつつあった。

「違うんだ。あの時は、父の死に君が関わってるって知って、感情がぐちゃぐちゃになって、全部が悪く思えちゃって……ショックな気持ちをどうしても、抑えられなかった。ただ、あの時、僕が本当に言いたかったのは──君に対する、恨みなんかじゃない」

 そう言った瞬間、目の前で電車が通り過ぎた。巨大な物体の立てる轟音が、疲れた身体に容赦なく降り注ぐ。僕たちはお互いに身を寄せ合った。

 やがて、電車が去って、静けさが訪れる。黒野はまん丸の、光の薄くなった黒い瞳で僕を見上げている。

 僕はあの時、言えなかったことを言った。

「──君が、いなければ……僕は……もう、生きていけない。そんな弱音なんだ……」

「いづき……」

「お父さんは確かに、君を庇って死んだけど……それは、お父さんが優しすぎたからだし……もう、死んだという真実は変わらない。折り合いをつけなくちゃいけないんだ。それよりも、僕はいま、目の前に居る君を喪いたくない……もう、誰にもいなくなってほしくないんだ……」

 黒野は手をさまよわせ、僕の手を見つけると、ぎゅっと掴んだ。

「いづき、あたしのこと、嫌いじゃない……?」

「嫌いじゃない。嫌いになんて、なれるもんか」

「うん……よかった……いづき……」

 黒野は小さく頷くと、僕の胸に頭をぐりぐりと押し当ててきた。そのまま、脇腹の方へと抜けて、ゆっくりと仰向けになる。うん、そうだよな。君はそうでなくちゃな。僕は、剥き出しになったお腹を優しく撫でてあげた。黒野は目をつむると「くう……」と吐息混じりの声を漏らした。

 その姿を見た途端、僕の中へ怒濤の悲しさが襲ってきた。

「なあ、黒野……」

「ん……」

「君、本当に死んじゃうのかよ……」

「しぬの……わかんない……しぬって、どういうこと?」

「死ぬっていうのは……黒野が、僕と会えないところに、行っちゃうってことだよ……」

「や……それは、やだ……」

 黒野はぎゅっとしがみついて、すがるように訴えてくる。

「いづきがつらいとき……あたしを、撫でられなくなっちゃうよ……」

 何を言うと思ったら。僕は黒野が愛おしくてたまらなくなった。

「僕のこと……考えててくれるんだな、黒野……」

「うん……あたし、ずっと、いづきのこと考えてる……だから、やだ……いづき、会えなくなるの、やだ……ねえ、いづき……くるしいの、とって、とってよ……あたしのこと、くるしくなくして……」

 黒野は死ぬと言うこともわからず、自分の身体に何が起こっているのかもわからず、ただ苦しんでいる。

「……いづき……ン……て……」

「どうしたの、黒野……」

 黒野が小さな声で何かを伝えようとしている。僕は耳を近づけた。

 その瞬間、また、電車が過ぎた。轟音が波のように押し寄せ、切り裂かれた空気が風となって、僕たちの身体に吹き付ける。

 やがて、押しつけがましい静寂とともに聞こえてきたのは、黒野の喉から漏れる苦しげな懇願だった。

「いづき……トランペット……吹いて……」

「──トランペット」

「ききたい……あたし……まえ、いづきのトランペットのおとで……くるしくなくなった……だからまた……ききたい……きかせて、いづき……」

「わかってるよ、黒野。約束しただろ。そのために僕は来たんだ」

 僕がそう言うと、黒野の荒い呼吸が嘘のように落ち着いた。それから、大きく柔らかい息を吐くと、黒野は穏やかな表情になった。

「よかった……あたし……きけたら……くるしくない……」

 音は最後まで残る。クラウン氏の最後に遺した言葉が蘇ってきた。

 これから僕は、この子に残された時間いっぱいを、僕の音楽で満たすのだ。

「それじゃあ──特等席まで行こう」

 そう言って、僕は黒野を両腕に載せて持ち上げた。名実共なるお姫様抱っこだ。彼女の身体はまるで発泡スチロールのように軽かった。その軽さがそのまま、黒野の命の残りを表しているみたいで、とても重たく感じた。

 そして、僕は深呼吸して、手に持ったスマホと向き合う。時刻は──もう少しで九時になろうとしている。会場集合時刻だ。でも、まだだ。リハーサルにさえ間に合えばいいのだから、どうとでもなる。

 そう思った時、僕は信じられないことに気がついて凍り付いた。口に出すのも、考えることも恐ろしいミスだった。

 僕は手ぶらだった。楽器を家に置いてきてしまった。

 どうして僕はこうなんだ、と膝から崩れ落ちそうになった。母と黒野のことで頭がいっぱいで、一番大事なものを忘れてくるなんて。とても取りにいっている暇はない。というか、黒野を運びながら楽器を運ぶのは無理だ。忘れていようがなかろうが、どのみちだ。

 じりじりと汗が垂れる──僕は会場へ行かなければいけない。誰かに頼らないと無理だ。

「黒野」

「なあに……」

「つよく、ぎゅって、捕まっててね」

「うん……」

 黒野は言うとおりに、弱々しく僕の首につかまってくれる。弱々しい、けれども黒野の意志を感じる。僕は線路から出ると、それに沿った道を走り出した。自転車は悪いと思いつつ放置していく。

 僕はうまいこと腕を通して、手にしていたスマホから通話をかける。相手は、安藤だった。

 安藤は一コールで出た。

「伊庭? 今どこ?」

 食いつくような声だった。大分心配をかけただろう。僕は心の中で申し訳ないと思いつつ、言う。

「今そっちに向かってる! 家のことは、全部なんとかなった! いつ着くかはわからないけど、絶対に間に合う!」

「……それは、よかった。でもとにかく急いで来て。先輩たちが弘前先生と伊庭が来なかった時の次善策を話してる」

 リハーサルにちょっと顔を出す程度では、間に合ったことにはならないということだ。それでも、僕には間に合う自信があった。

「……万が一の時は、安藤がソロをやってくれ」

「冗談言ってる場合じゃないでしょ!」

「いや、冗談にする。それより……めちゃくちゃヤバイことがあって」

「いま以上に何かあるの?」

 安藤の悲鳴のような反応に、僕は恥を噛み潰しながら言った。

「楽器が手元にない……取りに行ってたら間に合わない……」

「──はぁ⁉ どうなったらそういう状況になるの?」

「いろいろあったんだよ……どうにかならないかな……」

 我ながら、めちゃくちゃ情けない声が出てしまった。安藤もこの告白は衝撃的だったようだが、少し間を置いて、明るい声が聞こえてくる。

「……そ、そんなのもう、きっと、なんとかなるよ。他の学校に頭下げれば、一本くらい貸してくれると思う! 私が探しとくから……だから、とにかく、絶対に、来てよ! 伊庭!」

「うん、本当に、ごめん。絶対に行く」

 僕を不安にさせないように、楽観的に振る舞ってくれたのだろう。僕は安藤に深い感謝を込めながら、通話を切った。

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