第二章 言葉に頼らないアドバンテージ #2
「そういえば、コンクールの演奏順って決まった?」
伊庭華礼は、スマホをいじりながら言った。今日はSNSでよく見るような伊達眼鏡をかけている。例によって、これから部活後のソロ練習だった。
「弘前センに聞いてないの」
コンクールの出順はくじで決まり、抽選の結果はとっくに部員に共有されている。
譜面台を立てながら訊き返すと、華礼は顔色をぱっと変えた。
「なんてことを! 顧問の先生から初歩的な情報なんて聞けるわけないじゃん!」
「いや、部員はともかく、華礼の立場なら聞けるでしょ……」
いつまで強豪母校の部員気分なんだ。肩書きはコーチなんだぞ。
「まあ、演奏順は決まったけど……知らない方がいいかも」
そう告げると、華礼は怪訝そうに僕を見返す。
「そんなことある?」
「覚悟がいるから」
「……いや、だからそんなことある?」
ピンと来ていないようだったので、僕は無慈悲にも告げてやることにした。
「僕たちは一番めの演奏」
「一番⁉」
「だから学校に朝六時集合」
「六時集合⁉」
早朝に集まるのは、音出しするのはもちろん、打楽器の運搬などがあるからだ。
華礼は自分の顔にかかったメガネに触れた。コーチとして雇われている以上、当日の調整まで顔を見せるつもりでいるらしい。しかし──。
「お、起きられる気がしない……!」
大学の自由な生活で生活リズムを破壊された華礼は呆然と呟く。今日だって部活に顔を見せたのはお昼過ぎだ。六時集合なんて不可能に思える。
華礼はひとしきり考えるように顔をうつむけた後、ちらっと僕を見た。
「リハだけ出るのじゃダメ?」
どんなコンクールでも、普通は本番の直前一時間、チューニングなどで音を鳴らす時間がある。僕はしれっと譜面のセッティングまで終えて、席に着きながら答えた。
「いいんじゃない?」
「いいのか! く……なんて緩い部活なの……!」
「いや……一応、好意で来てもらってるってことだから」
謝礼だってたかが知れてるし。すると、華礼はちょっと安心したように「それじゃあ……」と言いかけ、首をぶんぶん振る。
「なんて言えるわけないでしょ! はあ……みんな頑張るわけだし、私も腹をくくるか。そいじゃ、一回吹いてみて」
そして、相変わらずぬるりと指導に入る。
僕は言われたとおり、例のソロの箇所を吹いた。タイやスラーだらけのロングトーンが果てしなく長く感じる。つくづくサックス向けだろと思いながら、一連のメロディを吹き終えた。華礼は天井の隅っこを見つめながら言った。
「うーん……今は、何を考えて吹いた?」
「楽譜に書いてあることを……」
「楽譜ねえ……うげっ! キモッ!」
楽譜を見せると、華礼は悲鳴を上げた。失礼な。楽譜の限られたスペースを最大限利用するために、〇.二ミリボールペンで、今までの先生や華礼の指摘を全て書き記してあるのだ。
「ツール・ド・フランスのゴール地点みたいになってるじゃん!」
その印象は華礼曰く、そんな感じらしい。僕はなんか納得した。
「あー、五線譜がコースで、周りのメモが観客、みたいな……」
ツール・ド・フランスは、世界有数の自転車ロードレースである。通じなかったらどうするつもりだったんだ。いや、ことが通じるとしても、比喩として通じているのか?
「まあ……私が言ってきたことを、意識してくれてるなっていうのはわかった」
華礼はスマホの角でこめかみをぐりぐりしながら言う。
「でも、楽譜通りに音が鳴るようになったってだけで、まだ……表現にはなってないって感じかな」
「表現……かあ」
ユーフォニウム呉のお父さんが、地区大会での僕の演奏に対して『なんだか曲の解釈がなってない気がしたな』と言っていたことを思い出す。あれ以来ものすごく気にしてしまって、僕のソロラインは疲労困憊の自転車みたいにフラフラしている。
思わず溜め息を吐いてしまう僕に、華礼はふと思いついたように言った。
「知り合いの先生にアマチュアの合唱団の指揮やってる人がいるんだけど、プロじゃない、主婦とか会社員とかいう人たちが、これをするだけでびっくりするくらい上手くなる、って教えてくれたんだ。何だと思う?」
「えぇ……重量挙げ?」
本気でわからなかったので、咄嗟に思いついたことを言ってしまった。幸い「やるわけないでしょ!」と華礼は突っ込んでくれた。
「朗読だよ。誰か適当に指名して、歌詞を口に出して読んでもらうの。で、意味を考えてみる。それをするだけで、なんか知らないけど、音に深みが出て良い演奏になるんだって」
「本当に?」
「まあ、最後の味付けっていう感じだろうけどね。ただ、合唱と違って私らがやってるのは楽器で、言葉は使えない。これはハンデでもあるし、言葉に頼らないアドバンテージでもある。言葉じゃ伝わらないこともあるからね」
「言葉じゃ伝わらない……」
それこそポップスの歌詞みたいな話だ。僕は半信半疑だった。華礼は話を続ける。
「作曲者は自由にやれって言ってるけど、こうやって音を置いている以上、意図も理想もあるに決まってるの。なんでこんなにロングトーンが多いのか。どうして、なんかエロいのか。サックスじゃなくてトランペットなのか。そして、それを踏まえた上で、ツヅが何を感じて、この上に何を語りたいのか……っていうのが、重要になってくる、んじゃないかな」
それはこれまでの華礼のコーチの中で、一番抽象的な指導だった。僕はとてもじゃないが全てを楽譜に書き留めることはできず、「whyエロい?」とだけしか書けなかった。よりによってここか。僕は頭を抱えたくなった。
「というか、コンクールって技術を競うところなのに、僕が何を言いたいかとか意味あるの?」
ふと、素朴に思ったことをぶつけてみる。華礼は呆れたように首を反らした。
「だから、意味あるの。それで上手く聞こえるようになるんだから」
「でも……何を語るかなんて考えたこともない」
「ブラスバンドの一員としてなら、ピッチとタイミングを外さない限り、それでも良いかもね。でも、これはソロなんだから、考えられるようにしないと……退屈な演奏になっちゃう」
退屈な演奏、それだけは絶対に嫌だ。
僕は華礼に言われたことを念頭に、もう一度、ソロのフレーズを吹いてみる。すると、今まで何百回と吹いてきたはずのメロディが、突然、別物のように立ち現れてきた。僕はあくせくと音符を追うばかりで、何を語りたいか、なんて考える余裕はなかった。why エロい? という文字がバカみたいに目について鬱陶しかった。何故か黒野の笑顔が浮かんで、もっと心が乱れた。
やり終えた時には、華礼の顔は曇っていた。
「考えすぎたね。さっきの方がマシだった」
「……難しいよ」
「大変だと思うけど……できたら、きっといい音になるから」
深みにはまる僕を、華礼は優しく励ましてくれた。
身も蓋もないことを言えば、華礼が気持ちの問題を持ってきたということは、僕の技術力はここで頭打ちだということだろう。コンクールの日はそれくらい近づいている。
「お! お疲れい!」
練習室の鍵を戻しにいったら、ユーフォニウム呉と遭遇した。いつか安藤が顧問に退部を打診しに来ていた時と似ているが、呉も僕と同じくピアノの鍵を返しに来ていただけだ。
用を済ませ、連れたって廊下を歩いていると、呉が口を開いた。
「なあ、安藤ってここんとこ来てないけど、トランペットでなんかあったのか?」
「……うーん、パートというか、他の事情もあるらしい、というか」
いきなりの突っ込んだ質問だったので、ただのそれらしい答えをしてしまう。
「事情か……心配だな。何かできることがあったら俺に言えよ!」
呉はドン、と自分の胸を叩きながら言った。平林にはそれなりに話したのに、呉には曖昧な態度を取ってしまって僕は後ろめたい気分になった。
そのまま呉と一緒に下駄箱まで着くと、例によって華礼がスマホをいじって待っていた。同時に、スーッと、深く息を吸う音が真横から聞こえる。見ると、呉が目を見張っていた。そういえばこいつは、華礼のことを悪しからず思っていて、僕のソロ練習を妬んでいるのだった。
華礼は僕たちの接近に顔を上げると、呉のことをまじまじと見た。
「あ、君は確か……」
「ど、どうも! 呉一之です! ユーフォやってます!」
呉はコテコテな声音で自己紹介した。緊張した野球部員みたいだった。ポジションは多分、サード。
華礼が何か言う前に、呉は食い気味に続ける。
「あ、あの! 自分、音大目指してて!」
「あっ、そうなんだー!」
華礼の食いつきもいい。ポジティブな反応に呉が勢いづいた。
「だから、その、伊庭センパイに、ぜひ、お話聞きたいと思ってるんです! なので、その、お時間ある日にぜひ──」
「あー、ごめんねえ……彼氏がそういうの気にしちゃうタイプだからさ」
華礼が申し訳なさそうに言う。呉は口の中が爆発したように目をカッ開くと、煙を吐き出すように「そうすか……うす……」と言って、しょんぼりと肩を落とした。
「俺、お前になりたかったよ……」
呉はそう僕にだけ聞こえるように言い残して、とぼとぼと去って行った。その哀愁漂う背中を見送ってから、僕は華礼をじとっと見つめる。
「前、別れたって言ったなかった?」
「あー、まあ、そうなんだけどねえ。音楽より私に興味あるのが見えちゃったから」
呉を追っ払うための方便だったのだ。僕は下心剥き出しの呉にも、嘘を吐いて追っ払った華礼に対してもむっとする。
「何でだよ。チャラくて下心丸出しなのに良い奴なのに」
「それ、誰のフォローしてるの? まあ……今、日本で恋人作ってもねーっていう感じで」
「え、日本で、って?」
「げっ」
失言した、というように華礼は口を塞ぐ。僕はむっとした気持ちも忘れて、自分の耳を疑っていた。
「どういうこと? 華礼、海外に引っ越すの?」
「引っ越さないよ! 留学するだけで……あっ、言っちゃった」
「ええっ?」
呆然とする僕から、華礼は決まり悪そうに目を逸らす。
「いや、オーストリアにね、楽器修行しに行くの。ツヅがショック受けちゃうと思って、県大終わるまでは秘密にしておこうと思ったんだけど」
「もしかして、僕の部活にコーチとして来たのって……」
「やるなら今年がラストだなーって思ってさ。来年のこの時期は私、いないから」
そう言われた途端、じわじわと寂しさが押し寄せてきた。ぽっかりと胸に穴が空いて、ふわっと身体が浮くような感じがした。
「そっか……」
「ああっ、ほら、やっぱりショック受けちゃった!」
華礼が茶碗を割ってしまったように焦って言うので、僕は慌てて首を振った。
「ううん、そんなことないから。良い餞別になるようなソロ頑張るから」
「そうだね、期待してるよ。……ま、一年の間だけだからさ、そんなに寂しがらないでね」
「さ、寂しくなんて思ってないし」
ははは、と華礼は笑う。僕は見透かされているようでちょっと腹立たしかったし、結局、寂しさはそのまま腹の底に残っていたままだった。
その後、駐車場まで向かったところで、「あっ」と華礼は声をあげた。
「ごめん、今日お父さん迎えに来れないんだった。なんか最近、仕事が忙しいらしくてさ。タクシー代もらったからこれで送ったげるよ」
「あ、そうなんだ……ありがとう」
迎えに来たタクシーの運転手さんは、やたらとうんちくを喋る人だった。コミュ力のある華礼と喋っているのを、窓の景色を眺めながらぼうっと聞いていたけど、内容は全く覚えていなかった。
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