3
すぐ後に余裕を気取った上からの物言いかと思えば予想通りの事態に焦るお調子者のような声がまどかの左から右へ通り抜けていく。
「若気の至りも分ってやれよ、って! やっぱ俺デスカー!!」
ギュン、とその黒い咽喉の奥を素早い何かが左から右へ通り過ぎるのと同時に、ぶわりと強い風がまどかさえ攫うように吹きつけ、部屋の中から廊下側へと通り過ぎていく。
一旦パクリッと甘噛み程度に頭を覆われて齧り付かれたが、一瞬だけまどかの首を締め付ける様にぐるりと走った痛みがしゅわりと解けて消えた。
「無意味な好奇心で食事になるおつもりですか?」
感心したとでもいう様な声とともにポン、と肩に手を置かれた感触に、まどかはようやく金縛りが解けたように力が抜けてヘロヘロとその場にへたり込んでしまった。ぺたりと支える様についた手ががくがく震えている。
息をしているのか、生きているのか、まどかはぱちぱちと瞬きをした。
すうっ、と大きく息を吸い込めばああ呼吸ができているのだと呼吸も一瞬忘れかけていた分を取り戻す様に吸ったり吐いたりを繰り返した。
へたり込んだ目の前には、まるでばしゃりとスライムでも零したように黒い水たまりが広がっている。けれどまどかの頭は濡れた感じはしない。
まどかはそれに気付いて瞬きも忘れてそこから顔を動かすことも出来ずにいると、刺すような痛みがチリリと先ほど咥えられた辺りに走り首元にそっと手を触れた。ピリッと走った電気に思わず変な声が出た。
「これは……ありがたくない貰い物ですね」
まあ当然でしょうけれど、と。そんな声が上から落ちてきて、まどかは肩を叩かれたことを思いだした。
今朝見た青い傘を差した人がすぐ傍に立っていた。真っ黒なおかっぱの髪と、小豆色の羽織と青朽葉色の着物、身長はやはり友晴と同じくらい。あまりにも見上げたままでいるから彼はこてんと首を傾げた。
「対処法もご存じない……」
細い目がうっすらと開いてまどかを見た。目は金色ではなく黄土色、のようにも見えた。その瞳の奥に少しばかり好奇心を滲ませて、それ以外は声音でさえ関心がないと言わんばかりの冷やかな具合だ。まだぼんやりしているまどかの傍にそっとしゃがみ込んで、その人物が一言。
「少し触りますよ」
言うなり彼はまどかの首筋に触れた。痛みが走った丁度その上を、つつ、と冷たい指の腹がなぞっていく。まどかの口からはもう一度おかしな声が零れた。
「ひゃ!」
まどかは、さっきよりもっと変な声出た、と恥ずかしさに頬を染めながら「いきなり何ですか!」と訴えた。
冷たい指先にぞわぞわと身震いしながらまどかが声を出すと、彼は怪訝な顔をしてまどかを睨んだ。まるで怪しいことなんてひとつもしていない、とでもいう顔だ。まどかからすれば十分怪しい。
黒いプルプルした物体に頭を突っ込むことになるわ、窓から乗り込んできたおかしな人は初見のまどかの首をさわるわと、まどかにとって冷静に考えて現状を噛み砕こうにもあまりに日常からかけ離れる事象に頭がパンクしそうだ。
「みているだけではありませんか。あと、少しの間黙る事はできませんか?」
当然のように黙るよう言われてしまった。見てるだけではないから喚いとるんです、と芸人のツッコミのように喚きたかったが堪えた。
淡々と返して黙ってしまう男に、むっすりと拗ねながらも聞きたいことが次々とまどかの頭に浮かぶ。
しぶしぶ押し黙り、まどかもその男の顔を横目で見た。見ているだけ、というこの人物の言葉は少し嘘である。見ているだけの人は人の身体に触れない。鏡といった反射する何かも近くに無いせいで、痛みが走った首に何かあるのか何もないのかはまどかには確かめる事ができなかった。知らない内にどこかで作った擦り傷が持つ熱のようなものが、じんわりと感じられる気がした。
居心地の悪さにモヤモヤとしながら、彼がまどかの首回りをくるっと見回し何かしらの結論を出すのを緊張して待っていた。
けれどこの状態で待つ事を我慢できなくなったまどかは「あの、その」とどうにかこうにか彼の意識の隙間に入り込めはしないかと声を掛けるけれど「口から生まれた様な人と言われた事はありませんか?」と男はそれを軽く睨み窘めた。
その眼があまりにも鬱陶しいものを見るようで、そんな目を向けられた記憶が今までないまどかは竦んで結果として男に言われるがまま今度こそ本当に黙ってしまった。
口から生まれた、なんて一度も言われたことが無いです。
五分にも十分にも感じる時間をじっくり眺めた後、彼は小さく息を吐いた。
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