第5話 ♪閏秒とヤマユリの光る斎宮跡-思い出の赤毛ギャル-


――暦を司る神さまを時神ときがみとしてあがめる人たちがいる。その使者として時を旅する者たちは暦人こよみびとやカレンダーガールと呼ばれている。その時間移動には太陽と月の光、そしてそれらを祀る場所に開く「時の扉」が使われる。いにしえより続く、限られた人たちだけが、その役目のために隠密行動で時を超える。そして彼らの原動力は、いつの時代も人の世のやさしさ――


五十鈴川駅いすずがわえき


 伊勢市、宇治山田うじやまだと停車する近鉄特急は、おおよそ五十鈴川駅いすずがわえきにも停車することが多い。ここ五十鈴川駅は、両駅に比べれば駅前の華やかさ、賑やかさは少ない。しかし田園風景とショッピングモールが存在する近郊都市のイメージを持つ。どちらかと言えば地元住民の生活感も見え隠れしている駅だ。


 ここの駅の目と鼻の先には、神宮(※伊勢神宮の正式名称)の別宮に当たる月読宮つきよみのみやがある。堀に囲まれて、うっそうと茂る森もこの神社の持つご神域の清涼感に繋がっている。


「さあ、お参りも済ませたし、駅に戻りましょう」

「そうだな」


 夏見と栄華は手をつないで仲良く境内の砂利の敷かれた参道を、駅の方面へと歩き出した。おしどり夫婦といえるような微笑ましい光景だ。

 夏見は黒のジャケットと揃いのズボン、紫のネクタイ姿、栄華は黒いワンピースに薄いオレンジ色のベルトをしている。神宮の正式参拝の後なので、お参りモードで訪れた神宮の別宮である。


「月読さまは、その名の通り月の満ち欠けから一ヶ月を数える神様。つまり暦と直結する神様だ。天照大神は太陽神として、一日二十四時間を数える神様。暦人の多くは、この一日を作る天照大神とひと月を数える月読命という姉弟神によって庇護されている時神さまから、命を受けると言われている。古来から春の田植え、秋の稲刈りなどの季節を計る農業の神様として崇拝された地域もあるという三貴神さんきしんのうちの二柱の神様だ」


 栄華は頷きながら、

「三貴神はあと素戔嗚命すさのおのみことさまね。その暦に関する二柱を祀る町山田の日月町周辺が、古くからの重要な地域というわけか」と納得する。

「かも知れないね」と頷く夏見。


 境内から振り返って、一礼をすると鳥居をくぐる二人。神社を背に御幸道路みゆきどうろに出たところで、夏見は見覚えのある白い車を見つける。小道に寄せて、ハザードを点滅させた車が、電車のガード脇の小道に停車している。


 夏見は助手席のガラスを、コンコンと叩く。


「夏夫君」


 助手席に乗っているのは、不二夏夫ふじなつお、二十代後半の稲作研究者だ。休日と言うことで、Tシャツにジーンズのラフな格好だ。車はペガサスホワイトのトヨタ二〇〇〇GTである。婚約者の阿久晴海あぐはるみの愛車だ。彼は夏見に気が付くとすぐにドアを開けて車を降りる。


「夏見さん、ご無沙汰しております」

 すぐに連れの栄華にも気づき、

「栄華さんもご一緒なんですね。こんにちは」と向きを変えて栄華にもお辞儀をする。格好を見れば、二人が参拝の帰りだとわかる夏夫。


「今日はどうしたの?」

 夏見の言葉に、

「ハルちゃんの用事で、オルガニストの瀬尾律姫子せおりつひめこさんのおうちに寄った帰りなんです」と返す。


 空の運転席を見て、夏見は、

「……で、そのご本人の晴海ちゃんは?」と訊く。

「すぐそこに友人宅があるそうで、そこに顔を出してから、松坂のハルちゃんの実家に戻ることにしたんです。僕は単なる待ち続けるだけの暇な時間を過ごしています」

 諦めたような苦笑いをする夏夫。


「相変わらず、尻に敷かれているな」

 夏見はズレた偏光グラスを人差し指で直す。光が眩しいのだ。残暑も和らぐ季節、しかし日差しの方はまだ元気だ。




未来からの客人


 ところは変わって……。とは言え、ほぼ同じ場所である月読宮の国道側の参道口。ご神域を出てすぐの小道に隣接する林。ぽっかりと空いた木陰にあるタイムホール、ここは二十四時間営業(?)の出口専用の金色の御簾である。金色の御簾や虹色の御簾というのは、暦人たちが使う用語で、神社にある「タイムホール」を意味している。


「よっこいしょ、っと」

 五穀ごこくいつきはミニスカートを恥じらうように、タイムホールから軽くジャンプした。幼い顔立ちは生まれつきのようで、年齢はもう少し上のようだ。漆黒のフレアミニに、少し大きめなジャギーの入った半袖の後ろ開きの黒いブラウス、エナメルの艶が光る先の尖った黒靴で窓枠から出てくるようにタイムホールから軽く降りて着地した。髪にはレースの黒いヘアバンド、胸元には選ばれた暦人だけがつけることの出来る緑色に光る勾玉のペンダントヘッドが輝いている。


 彼女はけだるそうに肩を軽くトントンと叩くと、「到着! もう二十三歳だもんね、託宣と恋、両方ともゲットしなきゃ」と小さく呟く。誰も居るわけでもないのに一人で会話しているのが違和感を感じる。


 慣れた仕草で鳥居の向こうにある手水舎まで進むと、柄杓を持ち、手と口を清める。そのまま月読宮独特のお参り作法である順路から見て、二、一、三、四の順でお宮の四つある本殿のお参りを済ませる。


「分かってるって! 任務を忘れるはず無いでしょう。任せてくださいって!」


 連れなど居ないはずの彼女は再び誰かと会話している風な言葉を発する。彼女は自分が入った参道とは違う御幸道路側の参道を歩き始める。近鉄の五十鈴川駅に通じる道だ。砂利の音がザクザクと心地よい参道だ。まもなく掘り割りに仕切られた御幸通りの歩道に出る。


 ちょうど向かいのところに彼女は数人のグループを見つけた。ハザードを光らせて止まっているクラッシックのスポーツカーを囲む人たちだ。夏見たちである。押しボタン信号が変わり、彼女は駅側へと横断歩道を渡る。


「すみません」と声をかけたのは彼女、いつきの方だ。

 その声に振り向き、夏見、栄華、夏夫が一斉に彼女を見た。

 まるで可憐な一輪のシャクヤクのようなその美貌に驚く夏夫。天使か魔物かという二択しかないほどの美人である。


「はい」

 返事したのは夏見だ。


「楽器工房23に行きたいんですけど、この近くだって聞いてきました」


 夏夫は聞いたこともない会社の名前に気むずかしい顔だ。少し首をひねる。


 栄華は、

「持彦くんのおじいさん、通称フィドルじいさん、って方のところじゃないかしら?」と夏見に言う。


 栄華のその言葉に反応して、

「そう、もっちゃん……、あ、フィドルじいさんの工房です」と頷く。彼女は一瞬、持彦の愛称を出しそうになる。彼の知り合いと言うことだろう。


「持彦君とこならバイパス沿いだ」と夏見。


「教えていただければ、自分で行ってみます」と笑顔のいつき。


 夏見はあごに手をやり、彼女の質問は不自然な成り行きに思った。

『駅の方からやって来たのなら、この質問は成り立つけど、彼女は月読宮や内宮側から歩いて来たなあ』と内心合点がいかない。


 彼のこの疑問は胸元の緑色の勾玉ですぐに理解出来た。暦関連の公僕であることは間違いない。

「あなた、時の蔵人くろうどないし、時の検非違使けびいし庁の別当役ですね」


 彼女は驚くように、ペンダントヘッドをチラリと見てから、「はい」と答えた。そして、

「暦人ですか?」と訊ね返す。

「桜ヶ丘御師の夏見粟斗なつみあわとと言います。そして妻の栄華。阿射賀あざか御厨御師の甥にあたる不二夏夫ふじなつお君です」と紹介する夏見。


「私は時の蔵人別当くろうどべっとう五穀ごこくいつきと申します。二十六世紀から時神さまの使いでやって参りました」


正体が分かれば話は早い。

「そうですか。では我々が神代しんだい家までご案内します」と夏見は暦人御師としての正式な役割を果たすことにした。


「良いんですか?」

「暦人御師の一番の仕事は、時間旅行してきた方の案内人をすることです。当然の務めです」と笑顔を向ける。

「まあ、まじめなおじさま」

 いつきは、はにかんだように笑うと、「それではよろしくお願いします」とお辞儀をした。彼女のその姿勢、夏見たちには、その立ち振る舞いに重責を担う時の蔵人役人の風格のようなものが感じ取れた。


「夏夫君は、君の彼女、あの短気なカレンダーガールが、怒りそうだから、ここに居た方が良い。お客さんは責任もってオレたちがお送りするよ」

 夏見の言葉に、

「ありがとうございます。助かる」と笑いながら、ドアを開けて、再びトヨタ二〇〇〇GTの助手席に座った。


「では五十鈴川駅の駅前でタクシーが拾えるので、そっちにどうぞ」

 夏見は丁寧に、彼女を近鉄線ガードの向こうにある駅前ロータリーへと誘導した。栄華も軽く夏夫に手を振った後で、二人の後ろからついていった。



楽器工房23


「こんにちは!」

 夏見の声が工房に響く。木造家屋の匂いとニスや砥粉の匂いが重なって、懐かしい香りのする家だ。

「はい」

 白髪に茶色いエプロン姿の初老の人物が工房の奥から返事する。


「桜ヶ丘御師の夏見粟斗と言います。お客さんをお連れしました」

 夏見の声は届いたかがわからなかったが、「はーい」と奥の方から返事があったので待つことにした。


 老人は松ヤニの付いた手をおしぼりで拭うと小走りに玄関先にやって来た。

「こんにちは、フィドルじいさん!」

 蔵人別当の彼女は、顔なじみらしく、老人に挨拶する。

「おお、いつきちゃん。大きくなって」


 その老人は、オヤッと言う顔で横にいた夏見と栄華を見る。

「ん。こちらは?」


 いつきは、

「道が分からなくって、ここまで連れてきてくれた暦人の人たち」と説明を入れる。


「こんにちは。桜ヶ丘御師の夏見と妻の栄華です。おそらくですが、お初にお目にかかります。持彦くんとは仲良くさせて頂いています」とお辞儀をする夏見。


「おお、それはそれは。あなた方のことは孫の持彦や大那くんからいろいろと伺っています。いつも孫たちを助けてくれているようで、ありがとうございます。いずれ、ご挨拶せねばと思ってたところでした」と話はすでに通っているようだった。そしてその挨拶の仕方から、そこそこの常識人であることも窺えた。


「おじいちゃん、今日は遊びじゃなくて、お仕事できたのよ」といつき。

「お仕事? ここに? 楽器弾くの?」と首を傾げるフィドルじいさん。

「そうじゃなくて、蔵人別当としての仕事」


「ああ、そういえばおまえさん、時の検非違使けびいしの弟子入りしたって言っていたな。お役人じゃないか!」

 合点がいったようで頷く老人。


「近々この時代で『うるう秒オチ』が発生するって、漏刻博士ろうこくのはかせが知らせてきたのよ。それを阻止しないと、原因不明の事故や事件が多発するわ」といつき。


「『閏秒オチ』か……」と夏見。

「それってなに?」

 夏見の袖を引いて訊ねる栄華。


「本当は、ちょっと複雑な話なんだけど、ものすごく簡単に言えば、時間の流れと宇宙の自転公転の間で、噛み合わなくなったねじれ現象かな?」

「全然簡単じゃないわ」と角口つのくちの栄華。

「じゃあ、切り口を変えよう。閏年や閏日って、何のためにあるか分かる?」


「割り切れない公転時間の補正でしょう」

 腕組みして堂々と答える栄華。


「あたり、正解。例えば、正確には自転周期は約二十三時間五十六分だし、公転周期は約三六五・二五日で、通常は四捨五入して教わることが多いから、知らない人もいるけど、二十四時間でも、三六五日でもないんだ。でも暦を小数点表記するわけにもいかない。だから微妙に実際の地球の運動とは、数字上ズレが生じる。当たり前だよね。暦はそんな宇宙の法則に近い数字を我々人間が作り出したものだから」


「うん」


「その小さなズレは何年もすると、毎年の分が徐々にたまっていき、やがて大きなズレになる。それを補正するのが閏月や閏日の役割だ。現行の暦法では四年に一度の二月の閏日設置で補っている」

「はい」

 栄華は頷いて夏見の説明に耳を傾ける。


「でもほんのたまに計算外の動きをすることもある。宇宙も規則正しくデジタルのようには、切りよく動いてくれないんだ。すると一秒や一分単位でズレが生じる。そんなときに補正をするのが、暦人たちが言う『暦法計算れきほうけいさん』だ。この小さなズレを放っておくと異次元トラブルが発生するんだ。それを押さえるのも暦人の仕事って訳さ」


「すごい、そんなことまでやるのね」

「オレたちが知っている出来事では、山村愛珠やまむらあいすさんたちが行った時空穴の埋め立てだ」

「あの例の時空病、『刻越こくえつの病』の原因になったっていう落し穴みたいなタイムホールね」

 時守の里の本草御厨ほんぞうみくりやで取ってきたラベンダーティで解決したときを思い出す栄華。


「そう、そしてそれの小さいやつが、またこの時代で起きようとしているって事がこの話の内容だよ」

 夏見はかみ砕いて栄華にゆっくりと話す。

「そこまで本質的にご存じなんですね」と伝達人の当人であるいつきも夏見の知識に驚いている。


 夏見は軽く笑うと、

「じゃあ、ついでに対処法の話、これは里長のオレからの進言だ。今もちょっと話に出たけど、時守の里で取れる鉱石物や、同じ時守の里にある薬膳院の御厨で栽培されている植物も関係してくるんだ」と加えた。


 すると「里長だけあって、時守の里の役割までお見通しですね」といつき。どうやら夏見のことは、例の勾玉から情報をもらった様だ。そしてそのまま夏見の話を黙って聞く。


「まず鉱物の話から。今の科学では、原子の振動が一秒という定義をされていてね。それに最も近いのが水晶クオーツを使った方法なんだ」と夏見。

「うん」

「その水晶クオーツも時守の里の裏山で産出される、とき水晶と呼ばれるものが、暦人の仕事には適している」

「ふーん。……で、その水晶の役割とは?」


 栄華の質問に続ける夏見。

「一般的な水晶は圧電体と言って、電気を通すとパルス波のように一定のリズムを刻んでくれる運動特性があるんだ。それを一秒に調整して時計の秒針動力やカメラのシャッター、シンセサイザーや電子ピアノのアタックタイムや鍵盤のレスポンスなどに利用されてきたんだ。半導体と同じくらい重要な電子部品だったってわけ。ゼンマイと歯車の仕掛けから水晶に変わった時代に、極端に、時計における一秒の正確さが高まった」


「科学に貢献した道具? 物質? だったんだ」

 栄華はスチームパンクの世界観を勝手に想像する。的外れも良いところだ。


「ところがそんな素晴らしい現代科学でも解明できないことはある。何らかの原因で誰かが閏秒等の補正を試みると、その瞬間にある場所だけでおかしな現象が起きる。これはどうしても押さえることが出来なかった。時間の流れに関する何らかの捻れや歪みだね。これは閏月の補正でも起きたと暦人たちの間では昔から伝わっている。つまり閏に対しての何らかの補正が行われるときに、時空になにかの歪みが生じて、機械の誤作動や時空穴の起因による落石落盤などが起こりやすくなると言うことらしい。暦人の間では、既出した『閏オチ』と言っているんだ」


「じゃあ、山村愛珠さんが、明治の初めまで移動して、危険な時空穴を塞がなくてはならなかったのも……」


「ご名答、あれも『閏オチ』の一種だ。三年に一度の太陽太陰暦が施行されていた大昔、設置されていた閏月の話さ。一ヶ月も調整期間があったので、その間は気が気でなかっただろうね。今回の一秒とは大違いで、ずっと緊張して時の流れを守っていたと思うよ」


「それを防いで、守るのも暦人の仕事なのね」

 ため息がちに、過去の暦人たちの苦労をねぎらう栄華。


「そう。まあ、現代では閏年の二月の一日いちにち限りだけと閏秒程度の小さな調整なので、起こる現象も、微々たるものだ。一ヶ月も続くあの時代とでは比べものにならないと思うが、甘く見ない方が良い。誤作動する機械によっては大事故に繋がらないとも言い切れない。だから時の検非違使たちは、未来から過去にさかのぼって、新聞に出ている事故などの調査を丹念に行っているのさ。運命で起きた事故は仕方ないけど、時間のズレで起きたものは、時神の威信にかけてスムーズな時間の流れに戻し、事故や事件を無くしてリセットする。そしてそれを伝達する仕事で、今回ここに教えにやって来たのが彼女って訳だ」


 夏見の説明を聞いて、いつきは凄く驚いた。

「二十一世紀にもあなたのような時の流れを熟知している暦人はいるんですね」

「師匠の受け売りです」

「師匠?」といつき。


 疑問に応えるべく、「角川文吾かどかわぶんごっていいます」と夏見。

「文吾さん!」

「文ちゃん!」

 フィドルじいさんといつきの言葉は重なった。


「あれっ? お二人とも知り合いってことか……。じゃあ、驚きついでに、この横にいる私の妻は、その文吾さんの身内で、旧姓が角川、角川栄華っていいます」

「おお! もと飯倉殿」とフィドルじいさん。そして、「……ということは、ピアニストですね」と加えた。

「ご存じなんですね。光栄です」と顔を赤らめる栄華。

「君の大伯父も、君も有名人だ」と笑う夏見。


 老人は思い出したように、笑顔で立ち上がると、

「そうだ、お茶も出さんで、立ち話も何ですから、奥に応接室がありますのでそっちにどうぞ。閏秒の対処方法、夏見さんたちのご協力、お願いできると嬉しいんだがね」と言いながら皆を招いた。これで今回の彼女が未来から来た理由と役割はフィドル爺さんには伝わったようだ。そして対処法を考えることが必要になる。


 そこでいつきだけが、「ねえ、もっちゃんは今日はいないの?」と室内を見回している。

「ああ、持彦なら、今日はもう帰ったよ。六ヶ所村の自宅にね」と笑った。

 彼女は少し残念そうに俯くと、「そっか」とだけ弱々しい声で返事した。そして「いないんだってさ」と勾玉にそっと話しかけていた。まるで人工頭脳の機械に話かけるように。



みずほ参上


「では今回の閏秒の瞬間は明日の午後十二時五十九分になります。つまり前零時間前、午後十二時五十九分が二度あると考えてください」

 いつきの話に、

「なんかややこしい」と栄華。


 フッと笑うといつきは続ける。

「時巫女を通して、時神さまからお許しを受けているので、今回はここにいる三人に、どこで何が起きるのかお伝えします。皆さんから土の御厨と内宮前の小宅家にはお伝えいただけますか? 彼らはいつも協力してくれます。今回は山村さん、熱田殿は高齢なのでお知らせしておりません」


 彼女の言う山村さんとは文字通りもと熱田御師である山村愛朱やまむらあいすだ。


「それがいいね」と夏見。

「ちょうど、こうしてお目にかかれて、『袖振り合うも多生のご縁』ですから、熱田殿の代わりに桜ヶ丘殿にお入りいただきましょう」と頷いた。


「無事に時計だけを調整して、そのほかに影響が出ないようにするには、時間が伝わらないための、切り離された絶縁空間を作らないといけません。故意に時間の影響受けないエリアを作り上げます。未来で下調べしてきた明後日の新聞には自然現象として、大きな事故が発生します。その場所も特定出来ています。その事故が起きないように時間の影響を受けない絶縁地域を作り上げます」


「そんなこと出来るか?」と夏見。

「出来ます」

 不敵な笑みを浮かべるいつき。


 いつきが言い放ったとき、工房の入り口から二人の女性が入ってきた。

「アタイらは仲間はずれかい? 時の蔵人別当さん」

「それはいけませんねえ」

 三井みずほと勘解由小路歌恋かげゆこうじかれんだ。

「あなたは三井家の……。どうしてここが?」


「夏夫から連絡が来たよ。あんたが道訊いたときに二〇〇〇GTに乗っていた男だ。それで歌恋の箒でひとっ飛びさ。時魔女の箒って言うのはどうも乗り心地が悪い」とスカートのお尻を押さえるみずほ。いつものカフェのおねえさん姿は健在だ。


「その格好で箒に乗ったの?」と驚きの栄華。

「ちょっとセクシーだったかもね」と頭をかく、みずほ。


「大丈夫、誰も見たくないから……」と夏見が、言いかけたところで、パコンと置いてあった新聞で夏見の頭を軽く小突く。

「見たくないのね! お・じ・さ・ん」

 至近距離で夏見を睨み付けるみずほ。


「みんな見たくて大人気!」

 状況判断で身の危険を察知すると、変わり身の早さで無表情のままコロッと意見を変える夏見。言葉と表情の一致が伴わないまま、渋々訂正した。


「三井家には前回の件で大変なご迷惑をかけたので、今回は遠慮したのですよ」といつき。

「ですよね」といつきは確認を勾玉に入れる。反応して勾玉が軽く点滅する。


 みずほもいつきに負けない不敵な笑いを浮かべると、

「そうだね。父親の不幸を考えれば、配慮はありがたい。けどね、アタイはアタイ、父親とはまた別だ。榛谷はんがや御厨の御師としての務めは果たすよ」と肝が据わったように、一言一言が重い声で返す。みずほは、普段、文句ばかりだが、暦人の仕事に対しては、誰よりも忠実な人物だ。


「また大惨事が起こらないとも限らないので、時魔女の私が多少の呪術でカバーできるかも知れません」と歌恋。

 言っても諦めず、言うことなど訊かなそうなみずほ。諦めたような、それでいて嬉しそうな表情を見せるいつき。


「仕方ありませんね。榛谷殿は言い出したらきかない、って、神戸鎌田殿に聞いています。ではご一緒願います」

「そう来なくちゃね」と言ってから

「で、今回はその噂の神戸鎌田殿はどうしたんだ?」とみずほ。

「別行動です」

「別行動?」

「まあ、その辺は追々と」


 いつきは一枚のコピー用紙を机上に置いた。所々黒塗りされて、記事の内容が見えなくなっているが、新聞のコピーだ。

明月宮あけつきのみや史跡公園の謎の陥没』

 地方紙とは言え、大見出しで社会面トップの記事だ。しかもこれから起こるであろう自然災害とでも言うべき、事故の内容である。予言新聞とも言えるだろう。


「かつて斎宮のあった場所、この原っぱ。遺跡としては重要だ」

「緑地部分の掘割、大きな穴が開いている、ってことね」

 栄華が紙面の内容に触れる。


「しかも穴の中には落ちたはずの行方不明者の姿がなかった。穴自体も消えて、その部分の草が無くなっていたという。複数の目撃者の証言では、穴に落ちた人物が数人いたということが記されている」と新聞記事を読みながらみずほが言った。


「完全に時空穴だな。『迷い人』製造ホールになっている」と夏見。のぞき込むように撮影された、現地の写真も付いている。穴こそ写ってないが、紙面で丸く刈られたような草の跡も確認できる。


「たまに不思議に思うのは、虹色の御簾みすは月の光と太陽光での乱反射などが原因で、タイムホールを作るのに、今回の時空穴とはどう違うの?」と栄華。

「確かに、タイムホールとこの時空穴は一緒のものじゃないのか?」

 みずほも不思議そうに栄華に同調した。


 いつきは優しく首を横に振る。この原理はすでに二十六世紀では、机上座学での解明もされているようだ。

「いいえ。全く別物です。だって、頭をもっと柔らかくして考えてください。皆さんは託宣を受けて、別の時代に飛ばされて、託宣や問題を解決して、通常は帰路でタイムホールを使いますよね。飛ばされる往路、つまり行きの時間越えは、時神さまのご意志で飛ぶか、時の玉手箱や時空郵政の荷札などを使って出かけるはず。少なくとも私の知る限り、この二十一世紀ではその筈です。つまり虹色の御簾は、特殊なケース以外はほぼ帰路専用の一方通行です。皆さんの魂と肉体を元の時間に戻すために、自然の摂理に従って、あるべき場所に返す力が働いて移動します。明治初期の街道脇に出来た危険な時空穴は両方のタイプがあったようで、山村さんたちは通常の『虹色の御簾』もどきの対処法は出来ていたようです。光を遮ったりして、『虹色の御簾』が出来ないように物理面から工夫されていました」


 いつきの説明に、一同「なるほど」と納得する。

「ところが三井さんのお父様と朱藤あかふじさん、そう福一郎さんが発見したのは、それとは別、今回のようなブラックホール型時空穴でした。おそらく運悪く、閏月の捻れ時間に当たったのでしょう。その時間帯だけで何カ所か出来た複数の時空穴に陥没が起きたのでしょう。長時間あれば何カ所も出来てしまいます。きっと一日に何度も時代を飛び越えて作業しています。おまけに救命と穴埋めの両方を行う過酷な状況を三井さんと朱藤さんは直面しています。今回は閏秒の修正ですから、一秒のズレではそんなに多くの穴は出来ません。時神さまの霊力の強い場所に出来ることが多いです。明月宮もなにか過去にあって、強制的に誰かを移動させた経緯があり、そのつじつま合わせで、戻るための用途ではない、逆走する時空穴が作られ、陥没が起きた可能性があります」


「理屈と過程は理解できた。……で、どうやってその陥没を止めるんだい、別当殿」


 夏見の言葉に、

「時空サークル、いわば結界みたいなもので公園全体を包みます。そこだけ時間停止状態にします。四隅にアミュレットを配置すると、時空結界は作れます」と返す。


「それで小宅大那の作る『時の絶縁ガラス』が必要というわけだ」

「はい」

「どういうこと?」と栄華。

「簡単に言えば、大きな魔法サークル、魔方陣のようなもので公園を丸ごと結界のように囲んでしまい、時間の力がその場所に入り込まないように防ぐものです」

 いつきの言葉に、「本当、時間の力は魔法や呪術の一つみたいね」と納得の栄華。


「魔法と運命と時間は、実際紙一重に動いています。これらの要素が揃わないで、どれか一つでも欠けてしまえば、人間にとっての不幸な事故や事件は起きません。言い換えれば、この場合、起きないと言うことは、イコール防げると言うことです」


「私たちのようなちっぽけな人間でも、そんな大きな事に立ち向かえるのかしら?」と再度疑問符を投げかける栄華。


 一呼吸入れてから、いつきは、

「きっと熱田殿あつたどの榛谷殿はんがやどのたちもそう思いながらも、偉業を成し遂げたはずです。しかも今回の件は、幸い彼らの時のように、時代を何度も往復しませんから、『刻越の病』などとは無関係、皆さんの健康状態も安全です。どうぞお力をお貸しください」と平に頭を下げる。


 するとみずほは歌恋に口元でニヤリと笑みをこぼす。そして目線をいつきに変えてから言う。

「そんなお願いされなくたって、アタイらはやるよ! だって暦人だからな」と誇らしげにいつきに胸を張った。その言葉に、その場の一同も皆一斉に頷いた。

 ただその中で歌恋一人だけが、腑に落ちない表情で、なにやら考え事をしていた。



伊勢内宮前・小宅土産物店


「おいおい、春華ちゃん。久しぶりに連絡も無しに、急に来たと思えば、なんだい? その無茶ぶりのお願いは……」

 土産店併設のガラス工房の主、小宅大那は腕組みをして、眉をしかめ、仁王立ちをしたまま微動だにしない。まるでフライドチキンのお店の前にいる人形のおじさんのようだ。出し抜けに唐突なお願いをされたほうは困ることもある。


「時間止めの空間を作るアミュレットがほしいって……」

「ですから時間の流れから絶縁状態を作るアミュレットです。それを並べて円陣を作り、結界を張ります」

 和装の美人は、無理を言っていることは分かっており、頼みの綱は大那しかいないと懇願のまなざしである。大抵の男性は、この美人の瞳に見つめられて、断ることは出来ない。


「どういうものを作れば良いか、それが分からない」と途方に暮れる大那。彼の言い分も至極当然である。漠然と注文されても困るというのが彼の心境だろう。


 暫しの沈黙の中、店先での会話が途切れたままだ。

 そんな中、二人は通りをゆっくりとこちらに向かって歩いてくる複数の人影を見つけた。見れば、串灘くしなだの時巫女、松阪阿射賀御厨御師まつさかあざかみくりやおんし小宅印画こだくあきえ、通称アキエ。そしてフィドルじいさんの孫、神代持彦しんだいもちひこだった。


「わお、何かみんな揃ってやってくる」


 大那の言葉に、春華もゴクリと固唾を飲んだ。


「やっぱり大那さんは、困っていた。えっとこれは、漏刻ろうこくに使っていた大和三山の湧水です」と小ボトルを遠慮がちに渡す時巫女。相変わらず江戸女のお伊勢参りの旅姿、白装束である。春華の雑なお願いの内容を見越していたのだろう。材料持参の登場だ。



「はい、時計に使う水晶クオーツの粒」とビニル製の小袋を差し出すアキエ。やはり材料を持参のようだ。時計工房だけにこの手の鉱物には困らないほどある。


「それで僕のは、停止した時の狭間で光る特別なヤマユリです。このヤマユリは時守の里で栽培されている独特な品種です。時間が止まった状態になると花や花粉、葉、宿根が金色に輝きます」と持彦。魔法とも、奇跡とも言える代物だ。


「やあ、みなさん、いらっしゃい。原料だけ渡されても、さっぱりだ。とりあえず順番に教えてもらえる? 作り方を」と肩をすくめる大那。作る技術や道具はもっていても方法がわからない。例えて言うなら、食材と調理器具はあるがレシピがないので作れないという道理に近い。


 説明役を買って出たのはアキエだ。

「まずユリ根を擦り下ろしてす。漏刻の湧水を使って煮る。すると澱粉糊でんぷんのりになるの。そう、葛湯くずゆを作る要領で、粘り気のある透明なのり。それと一緒に水晶を君の作ったいつものガラスボトルの小瓶に入れなさい。後は月読さまのご機嫌を窺いながら、月光にさらす。中で透明なゲル状の液体とガラスがゆっくりと動くアミュレットになるわ。それが時を止めるアミュレットなの。ようやく完成」と伝える。


 アキエの説明の後、大那は春華に、「おねえさん、分かった? ねえさんの願いをみなさんが叶えてくれるって」と諭す。

 口を軽く尖らせながら春華は、

「作り方は分かったけど、効能と使い方は?」と冷静に問う春華。


「漏刻で時を刻んでいた水で作ったゆり根の粘着糊は水晶クオーツの動きをくっついて止めるのね。上手く時間が止まると、時止めのヤマユリなので、時間停止状態に反応して金色に光りますから、瓶全体も金色に光り輝きます。それで結界の中の時間は止まっているか否か、が私たちにも判断できるのよ。たった一秒を止めるだけのためにね」


 勿体ぶった説明に春華が納得できているのかは、大那には解らなかった。ただ解るのはこれだけの暦人たちが集まって秘策を講じているのだから、効果は覿面であろうということだ。



楽器工房の応接室


「ちょっと、歌恋さん! 最近、私の扱いが雑じゃないですか」


 かなりの御冠おかんむりの様子。そう言って、ガラガラと扉を開けて入ってきたのは、土の御師見習いの朱藤富久あかふじふくだ。


「あらあ、富久さん。今日は夏見さんとランデブーはしないんですか?」


 返す歌恋はお得意ののんびりとした、すっとぼけが炸裂。昨今、少々、夏見絡みのいけずネタが多いのが気掛かりだ。なにか個人的な恨みでもあるのか、と思うほどに突っかかっている。


「そんな作り話はどうでもいいから、私を箒に勝手に乗せて、自分のところに無理矢理、呼びつけるのやめてもらえますっ!」

 今日の彼女のファッションは、魔女のような帽子に、藍染めのTシャツ。下はクシュクシュの表面を持つ三尺帯の布地で作ったロングスカート。グラデーションのように紅白模様が斑になっている。


「実はね、富久さんにお願いがあってお呼びしました」と歌恋。


「だったら普通に電話とかメールで呼び出してもらえます。毎回毎回、こんな誘拐まがいで、空飛ぶ箒を使って私を連れ去るようなまねをしないで……」

 富久にしてはもっともな、意見である。正論といえる。


 無言で微笑むと、そんな反論に動じない歌恋。彼女は珍しく富久の肩を押して、外に誘う。普段はあまり内緒話をするタイプではない歌恋が珍しい行動に出た。

「ちょっと富久さんと表でお話しして来ますから、後でまた合流します」

 皆は不思議そうに二人を見たが、目線で追うだけだった。それ以上に今回の任務が気がかりなのだ。


 戸を閉めて、路地裏の電柱脇で二人は向き合う。

「何ですか? みんなの前で話せないような事なんですか」

 富久の疑問に、


「そうじゃないの。今回はすごく大変で大事おおごとなの。だからもしもの時の予防線を張りたくて。それで、あなたにしか頼めない、お願いがあるの」といつになく真面目だ。歌恋のこんな顔はあまり見ない。

「お願い?」

 人差し指を顎に当て、不可思議な顔の富久。


「実は時守の里の薬膳院の御厨で栽培しているヤマユリを数本持ってきてほしいのよ。私はやることが多くて、時間に余裕がないのね。あの空間には行くことが出来そうにないわ。……かと言って、あの空間に入れる人間は限られているし、夏見さんに頼むのも個人的にちょっと……」

 歯切れの悪い言葉の濁し方をする歌恋。真剣なモードの時はこんなふうになるんだ、と違和感で対応する富久。


 そんないつになく、躊躇ムードの歌恋の願いに、

「まあ、いいですけど、ヤマユリは普通のヤマユリなんですか?」

「それがね、ちょっと違うの。特殊なヤマユリね。あの薬草園では、金色に咲いているけど、こっちの世界に持ってくると普通のヤマユリに変わるの。それを根っこの宿根しゅくねごと持ってきてほしいのよ」


「宿根?」

 聞き慣れない単語に小首をかしげる富久。


「ユリの根っこに埋まっている球根みたいな白い玉ね、あれをすり下ろして、して聖水と混ぜて使うのよ」


 歌恋の説明からすると、どうやら魔法の具材となるもののようだ。


「ふーん」

「今日の夜には必要なのよ。六時までに私のキッチンワゴンに届けてほしいの」

 とても珍しい懇願のまなざしをする歌恋。


 大きくため息をつくと、

「分かりました。行ってきます」と富久。

「ありがとう。持ってきたら、チョコバナナクレープと交換してあげるわ」

 一瞬、おちょくられていると感じた富久だが、食べ物の話はすどおり

「私はお菓子につられる子供と一緒ですか?」


「いらないの?」


「いりますよ」

 クスクスと笑う歌恋を背に、富久は時守の里への入り口がある二見方面に向かい始めた。それを見届けるとおっとり歌恋が、勇ましい顔つきに変わる。

「さて、こっちはこっちでやることがあるのよね」




横浜の山手


 歌恋は箒を飛ばして、一瞬で横浜へと赴く。山手の崖の上には閑静な住宅地が並ぶ。その一角にはシスター摩理朱の洋風の自宅がある。茶色の煉瓦造り、ゴシック調の玄関とアプローチが趣のあるエキゾチックな風景を描くような家だ。


「こんにちは」

 インターフォンのモニターに向かって笑顔を向ける歌恋。左手には今さっき乗ってきた箒を立てて握っている。


「あら歌恋ちゃん」

 その言葉と一緒に、重たそうな木の扉がガチャリと開いた。顔を出したシスター摩理朱は、珍しく私服だ。家にいるときの普段着である。……と言っても肩紐の真っ黒なサマードレスである。黒がお好きなのは変わらない。


「ご相談に来ました」

 歌恋の用件を既に予想していた様で、摩理朱は「カレンダーのことかしら?」と落ち着いた返しをする。

「はい、カレンダーのことで」

 意味深な口ぶりに、真面目な顔が更にこわばる摩理朱。

「どうぞお入りなさい」


 招き入れ、背中をかばうように歌恋を家の中へと押し込む摩理朱。


「玄関先でかまいません。すぐにお暇します。単刀直入にお聞きしたいのですが、『時の歪み』から土地や町を守るための結界術の方法があれば、お尋ねしたく思います」

 あごに手をやり、気むずかしい顔の摩理朱。あまり関わり合いになりたくないという表情にも見える。


 そして「暦人の仕事の範疇で、カレンダーガールが行う仕事ではないわね」と一蹴する摩理朱。

「そこは重々承知です。保険のようなもので、彼らの結界が間に合わなかったときのための奥の手にしたいのです。杞憂の念であれば、それに越したことはないので」

「ふーん」


 そう言った後で、

「閏秒調整の時期が近いけど、それかしら?」と摩理朱。

 歌恋は慎重にゆっくりと頷く。声に出すことは慎んだ。


「なるほど、それが答えか。また山村さんや三井さん、朱藤福一郎さんのような悲劇を繰り返さないためね」

 無言でも摩理朱にはすべてが伝わっている。一を聞いて十を知るタイプだ。

「仕方ないわね。ちょっと待っていなさい」


 そう言って、摩理朱は一旦、歌恋を玄関に待たせたまま奥の部屋へと姿を消した。

 暫くして歌恋の元に戻ってきた摩理朱は、両手で抱きかかえるようにして持ってきた、オルゴールのような箱と一緒だった。


「これアミュレットの小瓶と同じ役目をする、魔法の小箱。これに材料をお入れなさい。呪文をかければ、中の材料は秘密の散薬さんやく、そう粉薬こなぐすりになるわ。念じ方は知っているはず。あなたに貸してあげる」と笑顔で差し出した。


「ありがとうございます。シスター摩理朱」

 深々と真摯にお辞儀をする歌恋。


 摩理朱は心中で『ちょっと歌恋ちゃん、素が出てるわよ。ゆるふわを忘れているって』と独り言ちていた。




楽器工房に来た愛珠


 工房で歌恋と富久が抜けてからも慎重な話し合いは続いていた。すると再び来客である。


「ごめんください」と工房の玄関先から聞こえる声。

「はい」

 フィドルじいさんは、玄関先をのぞき込むように、応接室から応える。

 遠方に見えるは見慣れた顔だった。


「あれ?」

 慌てて玄関先に赴く彼は、

「珍しいね」と発した。山村愛珠やまむらあいすである。

「どうせ蔵人別当がここで会議しているのでしょう? 暦の異変を感じればすぐに分かるわ。家に海束見栄かいそくみえちゃんから連絡があったのよ」と笑う。


 フィドルじいさんは「バレているんなら仕方ない」という顔。肩をトントンと軽く叩きながら、彼は応接室に戻る。来慣れている家であるため、山村も勝手に入り彼に付いていく。

「いつきちゃん。山村愛珠さん、来ちゃったよ」

 フィドルじいさんのその言葉は『もう秘密にしておくのは諦めな』という意味を込めていた。




時守の里


 霞がかかる湖の岸辺にぽつんと飛び出た時の鐘の楼閣。そこが下界と時守の里の連絡口である。まるで昔話の世界をイメージさせるような茅葺き屋根の母屋が富久の前には立っている。彼女は歌恋に頼まれたとおり、時守の里の薬膳院の御厨へと向かっている。


 今回はその母屋などのある建物群を素通りして、奥にある薬草園へと向かう。垣根の仕切りがされた暦人たちが管理する特別な薬草園だ。


 すると富久はその門扉の奥に見慣れた顔を見つける。

「もっちゃん!」

「富久ちゃん!」


 互いに『こんな場所になんの用事だろうか?』という顔で見つめ合った。


 二人は挨拶を省略してすぐに会話を始める。

「なんでここにいるの?」

「それはこっちの台詞。今日は会合もないし、畑の間引きや手入れの当番は僕だよ。そっちは?」


 持彦の言葉に、

「歌恋さんに頼まれたのよ」と答える。

「時魔女の?」

「うん」

「ここにクレープやガレットの材料なんてあったけ?」

「なにをとぼけたこと言っているのよ」

「ヤマユリよ。黄金のヤマユリ」

 富久のその言葉に、少々持彦の眉が曇った。


「富久ちゃん。ひょっとして閏改正のことに首突っ込んでる?」

「ええ、まあ」

「だめだよ。なんにも分からないひよっこが、そんな大きな事に首を突っ込んじゃ」

 持彦はいつになく心配顔だ。自分でさえ半分怖いという気持ちは拭えない大きな案件だ。


「なに、心配しているの?」

 富久の言葉に、

「当たり前でしょ。未来のお嫁さんは大切なんだから」とさらりと言う。

 富久は当然いつものごとく赤面したまま、その場に立ち尽くす。もじもじしっぱなしだ。こういうことを言われたら、恋愛ごとに免疫のない彼女に次の言葉は出ない。ただただ、照れまくっているのだ。


『まただ。歯の浮くような台詞をさらりと言うし……』


 二十歳を超えてまだ数年という若い二人の若葉マークの付いた恋愛は、初々しい。そして清々しいくらいに、どうでも良い部分だけが常に重要視される。このくらいの年齢の時によく言われる、「恋は盲目」というヤツだ。


「黄金のヤマユリなら、ほらすぐそこ。金色に輝いているでしょう。時間の止まった空間でだけ、こうやって金色に輝くんだ」と持彦。照れたついでのごまかしにユリの生息場所を伝える。


「この時守の里の存在意義は、時間補正、歴史補正の合議をする場所であり、そのための霊威を手助けする材料を調達する場所なのね」

「今さら気付いたの? 遅いよ。僕も今さっき、大那さんのところにこのヤマユリを持って行って、渡してきたところさ」


「おそらく目的は一緒みたいね」と富久。

「閏秒で生じる時空穴の処理……」


 少し気だるそうに持彦は言う。


「うん」

「朱藤のおじさんや山村さんが三十年以上前にやったことだよね。あん時はきっと、この薬草園と明治時代の初め頃を何往復もしたんだろうなぁ」


「一回りして、私たちの世代が、その大役を担うことになるなんて……」

「だいたいが東海道の道中とそれより西に住む暦人の役目みたいだね」

「うん。箱根以西と東海道沿いの暦人の宿命ね」


「もしかすると、お伊勢さまが時神さまと一緒に、僕たちを必要としているのかも知れない」

「私ごときが、そんな頼れる存在だとは思えないけど」と言って、富久は早速百合の根の周りを傷つけないように、手持ちスコップで慎重に掘り始めた。


「富久ちゃん、これ」

持彦は、作業に戻る前に、富久に小瓶を握らせた。それは掌にすっぽり収まるサイズの液体が入ったものだった。

「もし仮になんだけど、万が一なにかの拍子に時空穴に落ちてしまったら、落下直後に急いで飲むんだよ。僕からの護符がわりね」と持彦。老婆心に近いものである。


 アイテムを渡すことが出来た持彦は、「じゃあね」と右手をあげた。持彦は一足先に、外界へと去っていった。


「うん、ありがとう」


富久はお礼を言うと小瓶をポケットに入れて、再びスコップを手にした。




斎宮さいぐう


「これは思ったよりも広いな。公園というよりも野原のっぱらだ」

 夏見の言葉に皆も頷く。

 見渡す限り緑の草原。一面は風が吹くと、緑の絨毯の波がそれを追いかける。


「このあたりが昔、斎王さいおうの御殿があった場所なのね」

 栄華は観光用のガイドマップを広げて見ている。碁盤の目に区切られた通路に、高床式の建造物が建てられており、この施設がいかに重要であったかも分かる。


「シャーマニズムから王朝文化へと発展した時代に、朝廷とともに伊勢神宮を守る頂点にいた女性の歴史が刻まれた場所だ」

御杖代みつえしろのお役目だった倭姫やまとひめ斎王さいおうなのよね?」


 栄華の言葉に、

「そう言われているね。初代と言われることもあるし、豊鍬入姫命とよすきいりびめのみことではないか、と言われることもある、オレは詳しくないのでよくわからないけどね。後でハム太郎にでも訊いて」と夏見。


「あの斎王祭りで見る十二単の美しさってば、ないわよね」と栄華はかつて見たお祭りの装束を思い出していた。

「たしか舞楽装束ぶがくしょうぞくも拝見できて、平安の絵巻物を見ているような行列だったね」


 そして一息つくと、

「このだだっ広い草原のどこに結界を張って、どの場所をアミュレットで囲えば良いというのか?」と彼は小首を傾げた。公園見取り図の看板を見つけた夏見は、それに近づく。みずほもそれに続く。


「おおよそ二百メートル一辺の四角形。目の前の大草原が、ちょうどほほ正方形の形をしているな。四隅にアミュレットを置けば良いって事か?」とみずほ。


「どうなの?」

 みずほの言葉に追従するように、夏見に問いかける栄華。

「おそらくそれで良いと思うけど……。詳しいことは春華さんに訊いた方が良い。西の地域のルールはよくわからん」とおどけ顔で言い訳する夏見。

「ま、ご謙遜ね」と残念そうな顔で笑う栄華。


 夕暮れがパープルとオレンジにあたりを染め上げる美しい世界。ヒグラシの遠鳴きが終わり行く夏、秋の気配を感じさせている。あたりを見回すと野放図にされた草木、大自然そのものだ。


「早速だがアイテムを置いておこう。時間になったら、アタイは時止めの実行するから、止まった時間の間に時空穴の処置をしてくれ。そこにある持って来た空間どめの土嚢で間に合うはずだ。この結界術は山村のおばあちゃんが昔、やった方法のひとつらしい」

 そう言ってみずほはアイテムを手にして、てくてくと歩き始めた。閏秒の手前で時間を止めることが事故を未然に防ぐことになる。時止めは重要な処置である。


 夏見はふと思い出したことがあった。それは師匠の文吾から聞いていた『お神酒どめ』と言う方法だった。だが、うろ覚えなことで皆を危険な目に合わせることは出来ないので、言葉にはしなかった。文吾の顔と言葉を思い出しながらも、無言を貫き口を噤んだ。

『困った時は時空穴に桂花の御神酒を放り込め! それで時空穴は安定することが多い』

 そのことを思い出して苦笑いをする夏見。そして「文吾さん。やっぱ弱虫なオレにはそんな大胆な事は出来ないよ」と独りごちた。


 みずほの言葉に、少し遅れてから、

「了解。じゃあ、お日様の明かりのあるうちに、アミュレットを置いておこうぜ」と夏見。



「ではお渡しします」

 頷いた春華が持っていたハマグリ巾着から、小瓶を四本出した。

「浜松で見たのと同じ小瓶だ。大那君に頼んだんだ」


 瓶を見た夏見の言葉に、

「ええ、今さっき作ってもらったばかりなの。中には大和三山の古代の時を刻んだ漏刻ろうこくに使ったと伝わる名水、そして時を電圧で刻む特別な魔法の霊威を封じ込めた水晶クオーツ、その中に金色のヤマユリのエキスも入っているわ。そのエキスが発光体になって、時間停止を教える役目をするの」と答える。

「串灘の時巫女と、アキエさん、持彦君が揃えてくれたのよ」と春華は加えた。


「よくぞ集めたもんだ」


 夏見は軽く笑うとそのうちの小瓶二つを預かって、近鉄の線路を背にして海側へとのんびり歩き始めた。この中にはこの時代の暦人たちが出来る限りの叡智を結集して作った防御アイテムが濃縮されている。時折金色に光る様相を呈しているが、まだ本当の光り方をしてはいない。緩やかにその使命を待っているようにも見える瓶たちだ。


「これを四隅に置けば良いのね。じゃあ、私も松阪側の隅に置いてきます」

 一つを預かった栄華も近鉄線に並ぶ道を松阪方面にゆっくり歩き出した。


「残りは私がすぐそこの角に置けば良いのね」


 春華は残った一つを和服に草履姿ですぐ脇の交差点近くの茂みに置いた。斎宮模型と案内板のあるすぐ脇の場所だ。


 四人は再び斎宮の模型の前に集まると、「終わった」と声を重ねる。

「後は時を待つだけね」

 やれることはやったという感じだ。


 安堵からか、「食事を取りに行こうか」という夏見の言葉に軽く頷いた。

「そこで再確認と打ち合わせだ」と付け足す。


「長居できる場所あるか?」

 みずほの言葉に首をかしげる夏見。


「それがなあ。このあたりは自衛隊の駐屯地の二十三号線沿いに行くか、松阪まで行かないとチェーンのレストランみたいなのはないんだよなあ」と夏見。


「じゃあ、松阪までやってくれ、牛肉食べたい、それで今日の、世紀の大役を乗り切ろう!」

 みずほの言葉に、

 愛想笑いをする夏見、栄華、そしてみずほ本人の四人は栄華の車に戻る。いつものチンクエチェントだ。


 春華は自分の車で来たので、

「私、後を付いていきますね」とピカピカのユーノス・ロードスターで後ろを走り始めた。




キッチンワゴン


 伊勢市のビジネスホテル内のパーキングに止めてある歌恋のキッチンワゴンは大忙しである。横を近鉄の特急電車がゆっくりと走り抜ける駅近くの駐車場。ワゴンの中で忙しく歌恋たちが動くのは、もちろんクレープを作るためではない。カレンダーガール式のアミュレットを作るためである。


「私、カレンダーガールじゃないのにこんな事手伝っていいの?」

 富久の言葉に

「あらあ、嫌なの?」とストレートに聞き返す歌恋。


「別に嫌じゃないけど、暦人とカレンダーガールって、やり方が違うって、晴海先輩に前に聞いたことがあるから」と富久。

「まあ、富久ちゃんってば、晴海ちゃんの後輩なのね。ご愁傷さま」と笑う歌恋。


「なんで?」と富久。


「だって晴海ちゃんの相手するのって大変でしょう? シスター摩理朱がいつも愚痴をこぼしているから、わがままで自分勝手らしいわ」と手を動かしながらも世間話を楽しむ余裕はある。結構、晴海の武勇伝は多くのカレンダーガール同士にも伝わっているようだ。まあ晴海と接してみれば誰もがそう思うというのもあるのだが……。彼女を扱えるのは、時空世界広しと言えど、夏夫くらいなものである。


「それは良いけど、私、今、何しているの?」と富久。すり鉢の中で回転している乾物かんぶつを指差す彼女。


「サルノコシカケというキノコの乾物をじっくり粉末にしてもらっているの」

「これって、キノコだったの?」

「ええ」

「私てっきり、鰹節かと思っていた」

「まあ、素敵。それでお出汁が取れたらおいしいわね」

 相変わらず得体の知れない会話が発生している。


「でも、違うんでしょう」

「ええ」

 そんなどうでも良い会話をしながらも、ゴリゴリとすり鉢で個体をすり潰す富久。

「そうだ」

「ん?」

「でも何で、あっちの結界が失敗するかも知れないって、思ったのか教えて」


 富久の言葉に歌恋は一息入れてから、ゆっくりと話始めた。

「失敗じゃなくて、保険よ。念のため。この仕事に別の受け皿を用意しておくのは、当たり前なのよ」


「分かったから、具体的にはなんでそう思ったの?」

 富久は今後の暦人の仕事の参考になると思い尋ねる。



「今回、なんで時巫女が来ないのでしょう?」

 歌恋のヒントめいた言葉に富久も不思議に思う。


「あれ? そういえば……」

「おかしいわよねえ」と知った風な口調の歌恋だ。


「うん」

「時の流れの修正作業なら時巫女が率先してやるはず。……なのに誰一人現場に現れないって、変じゃないかしら?」

「うん」

 あまりの正論に『うん』しか出てこない富久。


「それが理由よ。たったそれだけのことだけど、違和感は否めないわ。何か裏があるとしたら、万が一のために保険をかける。それが時を守るものとしての使命、ってところかしら?」

 歌恋の言葉には重みがあった。百戦錬磨の経験値はやはりみずほに負けないくらいもっているようだ。富久は改めて己の未熟さと歌恋の時の法則を習熟している経験値に感慨深さを心中で比較していた。



「時巫女が消極的ということが理由なんだ」

 富久はもう少し踏み込んで知ってみたかった。歌恋の考えている思考の塊を理解したかったのだ。


「うーん、消極的と言うより、手出しが出来ないのよ。手助けを禁じられている可能性がある。だって時間を止めることぐらい、時巫女にはお手の物だわ。なのに出て来ない。これだけで十分裏がありそうじゃないかしら?」

「うん」

 歌恋の推測に納得する富久。


「まだ訊きたい?」と歌恋。

「勉強になるから、お願いします」

「じゃあ、特別よ。今回は富久ちゃんを雑に扱ってしまったお詫びも兼ねてスペシャルな待遇で」と笑った後、「結構ややこしいお話になるけど、いいかしら?」と歌恋は手を動かしながら言う。


「ありがとうございます。もちろん!」


「閏改正ってね。地球の自転や公転で一日と一年の狭間で作った人間の産物なの。自然物の地球や宇宙が、電車やバスの時刻表のようにダイヤグラムで動いているはずないでしょう。それは同時に割り切れる数字のルールで動いているはずも無いということ。その動きに近い数字を上手く割り出して人間がそれにかぶせたに過ぎないわ」


 よく言う夏見の口ぐせと同じことを歌恋の口からも聴く。その通底した理屈と同じ事、歌恋の頭の中にも入っているようだ。あるいは暦人たち全体の嗜みにも思える。

「そうね」と富久。


「これが太陰太陽暦の月の周期だと新月から新月までの三十日に満たない一ヶ月の換算なので、ものすごい誤差が出ちゃうわね。何年かしたら、同じ季節なのに五時でも暗い日と明るい日が出来るほど、ひどい誤差になる。それで太陽暦を明治初期以後は選択しているわ。これなら誤差は四年に一度の二月の修正だけで済むからね」


「そっか。それで、三年に一度くらいだったか、江戸時代までは一年が十三ヶ月の閏月が出来ていたんだわ。その一ヶ月を当てることで誤差を解消していた訳ね」


「そうよ。お利口さん。細かく言うと最も緻密に計算されたバージョンは、十九年に七回の閏月が必要だったって言われているの。その一ヶ月、私たちのような暦の世界で生きる人たちは、修正のために起きる異変を抑え込む、アメージングが仕事の見せ場だったみたい。でも誤差が小さくなった現在は、たいした事故は起きないのよ。閏による時の谷間も一ヶ月あれば時間の力は膨大なものになり、多くの人員をさいての作業となるけど、一秒の修正なんて人間でも出来ると安心しているのかもね。だから極力、時巫女の霊力は使わずに自然に帰す方法で修正をさせたいのね。いわば地球の時間の流れについて、魔法という科学的な調合薬ではなくて、人海戦術という生薬で食事からの健康を促すようなものだと考えている。地球の時間法則を人体に例えるならね。だからその方が地球の自然体にとっても良いものになるわ」


「それって、一理ありそうです。だから時巫女の魔法は使わないってことか」

「そうよ」

 納得の富久に返事をする歌恋。


「でも時魔女の魔法は大丈夫なの?」

「時魔女は、魔女なんて言われているけど、ご存じの通りカレンダーガールが勉強してなるものだから、絶対生物の時巫女と違って、もともと人間なの。私、みずほちゃんと幼なじみだしね」

「うん」


「つまり例えるなら、絶対生物の時巫女の魔法は化学物質だけど、人間である時魔女の使う魔法は生薬ってわけよ。人工物と自然物の違いくらいその魔法には隔たりがある。それはシスター摩理朱にもさっき確認してきて、よくご存知ね、って褒められたわ」

 ちょっと得意げな歌恋が笑う。


「そして私ね、それとは別に今回の案件に協力しているのは、もう一つ目的があるの」と切り出す歌恋。

「なに?」と富久。


「夏見さんを助けたいの。夏見さんのお役に立ちたいのよ」

「夏見さんを?」と言ってから富久は、「なんで?」と付け足した。

 まん丸目玉で、一本指をくわえて、左に渦巻く富久の頭の中。小首を傾げて、謎とハテナが脳裏を走りまくっている。他人のことなど歯牙にもかけない歌恋が、夏見を助けるというのは少々解せない。


 少し物怖じしたように躊躇うも、深呼吸すると歌恋は、

「ものすごく好きだから……」と打ち明けた。

 そう言って頬を赤く染める歌恋。ここで恋する乙女、歌恋の本性が出る。


「ええっ! だってあの人結婚しているし」と富久。結構な、ブチまけ系の歌恋のカミングアウトに驚きを隠せない反応している。

「分かっている。だから、心の奥での話よ。でも私が出会った時は、独身だったもの」

「もともと知り合いなの? あのたい焼きを食べたときには、そうは見えなかったけど。夏見さんも初めて会ったって言っていたし。それにそれに……しかも年の差半端ないけど?」

 思い切り腑に落ちないことのオンパレードで、富久は歌恋の思考回路を疑っている。


 ただここで二人が偉いのは、結構重くて深い話をしているのに、相変わらず口だけではなくしっかりと手も動かしているところだ。

「私ね、あのみずほちゃんのお店での再会の時は、勘解由小路歌恋としてだったから初対面ということになっちゃったのよ」

 語るも深い暦人あるあるの時空ネタが飛び出す。


「どゆこと?」と富久。


「私ねえ、もう一つの姿を持っていて、杯咲和はいさわっていう通り名で中学から大学生頃まで、ギャルっぽいカレンダーガールをやっていたのよ。まあ時置人時代の渋谷での通り名ね。今でもその名前はたまに使っているわ。その杯咲和ってカレンダーガールの頃は髪を赤髪のショートカットにして、ホットパンツにTシャツ、サングラスにサンダルで闊歩してたのよ。確か私が十代の真ん中頃、夏見さんたちが十代後半の時代に、急な託宣解読に巻き込まれて、私がトリップしてその時に出会ったの。だから夏見さんたちは佐和が二十五歳差だって知らないのよ、せいぜい五や十も離れてないと思っているわ」


「ええっ? 何か凄いカミングアウト。再確認事項ありすぎ。どっから突っつこうかな? 初恋が夏見さんで、ティーンエイジの頃はギャルっぽい子だったって事でしょう?」

「うん」

「だって同じ時代の人と遭遇したらまずい」

 富久の正論に「同じ人物だったらまずいけど、別の人物になっていたらパラドクスは起きないわよ」と打ち消しを入れる。


「そっか。でもあとね、なんで、どこをどうすると、ギャル風体がこんな洗練されたゆるふわおねえさんになっちゃったの?」

「当時、歳上の人の彼女になりたいって言ったら、みずほちゃんに怒られたのよ。女性らしくないと年上の彼氏は作れないって。あんた、それじゃ意中の人に振り向いてもらえないよ、って。勿論、相手が夏見さんとはみずほちゃんには、言ってないけどね。それで時魔女になるための留学を機に、このスタイルに変えたの。もちろんしゃべりも、雰囲気もよ」


「うわあ、凄い。愛の力ですね。だからたまに夏見さんに意地悪するんだ。好きの裏返しね」

 そう言いながらも、その意地悪のエグさには目を見張る物があることを富久は知っていた。夏見は結構なほどの大迷惑をしている。


「うん、そうね。でもね。こっちに戻ってきたら彼、既に結婚しちゃってたから、せめてもの意地悪なお返しってのもある。だって、本当のゆるふわで、優しい奥さんなんだもん」

 はらりと髪を弾きながら言う歌恋。

「栄華さんよね」

「うん。にわか仕込みのおしとやかじゃなくて、本当におしとやかなのよ、彼女。ちょっと天然なところが憎めない」

「ははは……、完全に私怨しえんの意地悪だったのね、夏見さん可愛そう」と苦笑する富久。


「そのサワって語っていた頃の私を知っているのが、山崎さんと夏見さんと八雲さんなの。四人で夜釣りをしながら、テントで雑魚寝してたのよ。だから今日は、このアミュレットが出来たら、姿形は杯佐和になって現れて、髪が伸びるまで彼らの前には現れないわ。彼らを助けたのは、佐和で歌恋じゃないのよ」

「格好良い、『ひみつのアッコちゃん』みたいね」

「うふふ」


 歌恋はそう言うとウインクをして、

「さあ、出来たわ。これをこのシスター摩理朱からもらった小箱に入れるわよ。粉末なので花咲じいさんのように散布するのよ。もし彼らの結界が甘くて時が止まらなかったときには」と歌恋。


 歌恋は箱に時止めアミュレットを入れると、静かにエプロンを脱いだ。そしてキッチンカーの厨房奥にあるトランクルームから、ギャルっぽいタンクトップのシャツを取り出し着替える。下もセミロングのハイセンスなスカートをやめ、健康そうな太ももを強調した短パンに履き替えた。そしてそのまま大きなハサミを取り出すと、広げた新聞紙の上に、縛ったままの髪ごとばっさりと切り落とす。


 さらに手鏡を使って、上手につけまつげとアイラインを整える。スプレー缶の染色塗料で髪色も赤毛にする。ラメのキラキラを目尻に塗り込んでそこに紫の頬紅を当てる。あれよあれよという間に、みるみるうちに富久の前で立派なギャルが出来上がった。


「ええ?」と富久。かなりそれっぽい、姿格好だ。

 手際の良い彼女の所作に、いつもののんびりおっとりの姿はない。行動力のある、ちゃきちゃきの女性である。いわば性質の面ではみずほに近いものがある。


「さあ、行くわよ。隣の車に乗り換えてね。キッチンワゴンで行ったら、彼らにばれちゃうから」


 そう言って、顎で隣の車を指す。アミュレットの入った小箱を小脇に抱え、キッチンワゴンの隣に止まっているスカイラインGTRのドアを開ける。かなり走り込んでいる車だ。タイヤなどは地面に吸い付くような操舵性を駆使した溝で作られている。


「これって、歌恋さんの車なの?」

「もちろん愛車よ!」

 歌恋の口調が明らかにいつもと違って早口に変わっている。


「うわ、2000GT乗り回す晴海先輩以上の走り屋の車。鉄仮面RSに匹敵する名車GTRだわ。確か32型って言うのよね。初めて見た、いや乗ったわ」とシートに身を埋める富久。


『バオーン』とリッターエンジンの爆音がうなる。車の時計は十一時を回っている。


「いい、富久ちゃん、歌恋と佐和が同一人物ってことを死んでも言っちゃだめよ」と真面目な顔できつく言う。

「バラしたら一生口きいてあげない」

「はい」と言った後で、「って言うよりパラドクスが起きそうじゃないですか?」と苦い顔の富久。

「そっちは時間が経過しているから、多分もう大丈夫とは思うけど、まあ、言わないことに越したことはないわ」と頷く歌恋。……いや咲和。


 サイドブレーキを解放すると、助手席の富久にはすごいG圧が降ってきた。加速力の凄い車と言うことだ。爆音以上に、地面を這うように、吸い付いて走るステアリングの安定感に驚かされる。キッチンワゴンを運転している同一人物の歌恋の運転とは思えない。

「やっちゃえ! 日産って感じねえ」と富久は笑った。




兆しが出始める斎宮公園


 十一時半を回った頃に夏見、栄華、みずほ、春華は斎宮跡に戻って来ていた。

 春華が設置したアミュレットの小瓶が微かに黄金色に光り始めている。

「兆しが来ているわね、閏秒が間近ね」と春華。


「夏見くん」

 聞き覚えのある声に振り向くと、そこには八雲の姿があった。

「おお、ハム太郎!」

 彼は軽く拳を握ると、口元に当て、「コホン」と咳払いをしてから、

「僕はそんなネズミの出てくる漫画のような名前じゃない。半太郎だ」といつも通りの言葉を返す。


「来てくれたのか?」と夏見。

「当たり前だろう。こんな一大事、亜空間書庫にも影響が出たら困る」と笑顔で夏見の肩を叩く八雲。


「そうだな」


 そう言い始めたときだった。満月が高い位置に移ってきた。月明かりで、そこそこ足下は見える。

 遠くで光るのは街灯なのだろうか? 四隅に置かれたアミュレットの光が見えない。


「おい、おかしくないか?」

 夏見の言葉に八雲も、

「変だ」と頷く。


 春華も栄華もおとぼけ顔で、「何が?」と返す。


 答えたのはみずほだ。正確な分析という点で彼女の意見が一番役に立つ。


「エリアの選定が間違っている。黄金色の部分の光が弱い。このヤマユリはこんな光り方じゃないはずだ。もっと神々しく反応してないとおかしい」


 みずほの言葉に頷いてから、八雲は持っていたスマホで地図を開いた。

「誰の指示かは知らないけど、現代の史跡の指定範囲にこだわりすぎたな……」と八雲。


「どういうことだ?」

 夏見の言葉に、

「古代から中世の斎宮の敷地はエンマ川から祓川までの間、四百メートルだ。もっと大きい範囲だ。つまりおまえさんたちは、今の整備区画のみを斎宮跡と勘違いしていた。でも時の流れは、現代の人間の作った史跡範囲ではなく、本来の斎宮の末端施設までを含んで存在していた当時の瑞垣内の範囲を望んでいる。それで光り具合に乱れが生じているんだ」

「……ってことは?」と夏見。

「急いでアミュレットの移動だ。四隅は四百メートル四方だ」


 八雲の言葉に、「もう間に合わない、あと十分しかないわ」と半べその春華。春華の中には山村や富久の父親と一緒に立ち向かった古い記憶が蘇る。過酷なあの時代の嫌な記憶だ。


「やるしかないだろう」と言い残し、春華の置いたアミュレットを回収、取り出して、鉄道線の側道をエンマ川に向かって走り出すみずほ。全速力だ。

 見れば、先の視界の方に七色に渦巻きながら、何かが始まっている。時間が止まらない。いや止められていない。


 みずほの去った模型前の広場に一台のスカイラインが現れた。

「プップー」とクラクション。

「ナッツ! ヤックン! 久しぶり」


 運転席の窓からは見覚えのある懐かしい顔が二人の目に映った。二人の位置からは助手席の富久は見えてない。しかも富久は屈んでダッシュボードの高さに自分の身の丈を合わせている。


「佐和ちゃん!」

 夏見と八雲の声が揃う。

「おじさんになったなあ」と笑う佐和。


「どうしてここに?」

「訳は後で良い。話は聞かせてもらった。まずは時間を止めよう。大丈夫、アーシが持ってきたアミュレット播いて回るから、その場で時間が止まるまで待機してな。止まったら穴の埋め立てを二人で頼むよ」

「大丈夫か?」と八雲。

「任しときなよ、間違いなく時間止めてやるから。祓川とエンマ川の四隅だよな!」

「うん」

 再び二人の声は揃う。

 その声とともにGTRは白煙を上げて、加速全開で走り去った。


「間に合ってくれよ!」と佐和。もう彼女におっとり歌恋の姿はない。


 闇の中にスピードメーターと回転メーターの蛍光色だけが浮かび上がる闇夜のコクピット席。彼女は慎重に境界を見極めていた。


 彼女は四隅のうち、みずほが行かない三カ所に先回りして、時魔女の顆粒アミュレット、秘薬を時計回りに播いた。

 最後の一カ所を彼女が巻き終えると、その囲まれた空間だけがモノクロームの世界に変わった。ちょうど四百メートル四方だけの時間が止まっている。成功したのだ。

「ふう、間に合った」と富久。

 佐和も苦笑いである。


 そして野原のど真ん中に、七色に光る時空穴が止まった状態で口を開けていた。その光景を八雲が発見する。


「夏見君、あれだね。例のやつは」

「ああ」

「早いとこ、消してしまおう」と煙たい顔の八雲。


「どうやって?」


 夏見の言葉に「清めるのさ」とスマートに答える。

「お神酒どめ。桂花の御神酒か?」

「うん。持ってきたよ」と八雲。

「そういうことか。仕事が早いねえ、大先生。いいねえ」

 夏見は気心の知れた旧友の肩をポンと叩く。


 一方、無事に任務を果たせた佐和は、安心して暫くハンドルに額をつけたまま、前屈みでもたれている。大きく息を吸うと彼女は、体勢を持ち直す。

「富久ちゃんはここで降りて、みずほちゃんに残りの三カ所は佐和って言うカレンダーガールがアミュレットを使って空間を閉じたって伝えてくれる?」と言ってドアロックを解除する歌恋、……いや佐和。


「歌恋……、さ、佐和さんは?」


「アーシは、髪が伸びるまで、佐和で過ごして、伸びた頃にまた歌恋に戻って、皆の前に現れるさ」と窓越しの苦笑いを見せる。そして「難儀な商売だよね、暦人ってさあ」と言い残してアクセルを踏み込む。急発進のGTRのバックランプは、四回の点滅で、「さ・よ・な・ら」を合図すると夜の闇に消えていった。

「ドリカムの歌か、っての」

 とりあえず富久はぼやいてみる。


 静寂が二人の別れを惜しむような雰囲気を作るなか、富久は急に思い出した。

「あ、ヤマユリ取って来たらクレープくれるって、もらってないよお」と本気で涙ぐむ富久。


「みずほおねえさん」

 富久は少し線路側へと歩くと、額の汗を拭うみずほを見つけた。

「ああ、富久ちゃん」


「残り三カ所は、佐和さんっていうカレンダーガールの人がアミュレット置いてくれたので大丈夫だそうです」

「えっ? 本当? じゃあ、結界の中は時間停止になっているの?」


「はい。今頃、夏見さんと八雲さんが危険な時空穴の処理をしていると思います」

 みずほはその場にへなへなと座り込んだ。


「良かった」

 富久にはそれが本当のみずほの心の声だと思った。責任感と他人思いの彼女は、富久にとって、まさに暦人の鑑のような人物に映っている。


 富久がほっとしたその時だった。アスファルトの裂け目、境界線を表す、標識の外側で、亀裂ができはじめる。それはあっという間に富久を飲み込んで、一瞬でふさがってしまう。予想に反して時空穴は一ヶ所だけではなかった。


「えっ?」と富久が思った時にはもう身体は落ちていた。


「あれ? 富久ちゃん?」

 キョロキョロと辺りを見回すみずほ。いくら暗闇とはいえ、今しがた会話をしていた大きな人間を、視界から見失うことなどない。

「えっ? 富久ちゃん?」

 慌てて草むらをかき分けるみずほ。


「富久ちゃん!」

 大きな声で何度も何度も呼び返すみずほ。あまりに大きな声を繰り返しているので、夏見たちがみずほの方へとやって来た。


「どうしたみずほ?」

「富久ちゃんがいなくなった」

「富久ちゃんいたのか?」

 夏見は不思議そうな顔だ。


「誰かの人の車に乗ってきたって……」

「後陣で登場するつもりだったのかな?」

「夏見、まずいかも」と八雲。


不安そうな栄華と春華。

『迷い人』

 誰もがそう思った。


 何も知らずに、そこに口笛を吹いてちょうど駆けつけた持彦。

「持彦君、まずいことになった」

 八雲の説明に、深刻な顔の夏見。

「富久ちゃんが時空穴に……」

 不安げな栄華は俯いている。


 すると持彦は意外にも笑った。

「大丈夫ですよ。富久なら、心配いりません。あっちの時間で一、二時間、こっちならほんの一、二分で戻ってきますよ」と明るい声を出す。

 その内容で八雲が気づいたようだ。

「『戻り桂花酒けいかしゅ』を持たせたんだね」と安堵の笑顔になる一同。

「いつぞや私がお大師さまのそばで飲んだやつだ」と安堵する栄華。


「何それ?」

 存在すら知らない春華に、栄華は、

「八雲先生が古文書から作り方を覚えたやつで、通常の『桂花の御神酒』ではなくて、『戻り桂花酒』は飲んだら二時間ほどで本来の自分の時代に強制送還されるタイプのものなのよ」

 栄華の説明が終わると、モノトーンだった闇の世界に少しだけ色が戻る。もう夜なので、それほどカラフルではない景色だが、確かに視界に入るすべてのものに色が戻った。そしてその数秒後、ストン、と富久が戻ってきた。


「富久ちゃん!」

「富久!」

 皆が一斉に声をかける。もちろん安堵の声だ。


「あーびっくりした。もっちゃん、ありがとう。命拾いしたわ」と出し抜けにお辞儀をする富久。当人は周りの心配を他所にケロッとしている。


「どういたしまして。君を守るのが僕の役目だから」と持彦はすまし顔だ。彼なりの決めポーズなのだろう。ちょっと格好つけたかったようである。彼がスマートに仕事をこなすなど希なのだが。


 そして、

「もっちゃん、私、一九七〇年代で散歩しちゃった」と伝える富久。


「ははは、一九七〇年代に行っていたんだ」

「うん。テレビで仮面ライダーやっていたからすぐわかったよ」

「のんきだな。よその家を覗き見?」と持彦。

「違うよ。あの時代の人、みんなクーラーとかエアコンとか無いから、網戸だけで窓を開け放して、夕飯食べてるから、表の道を歩いていても、その家が何のテレビ番組見ているか、ダダ漏れなんだよ」と笑う富久。


「確かに、あの当時はそうだったな」と八雲。

「じゃあ、全員無事に役目を果たしたので、フィドルじいさんのところに戻るか」

 夏見の言葉に皆が頷く。




幼なじみと時置人

「ただいま!」

 持彦以下全員が声を揃える。

 持彦の祖父、フィドルじいさんは隣の家にお使いに出ているようで、いつきと山村愛珠が笑顔で迎える。

「その顔だと上手くいったようだね」

 山村が言う。


「まあ、準備不足もあって、手助けもしてもらったから七〇点ってところかな?」と夏見。

「なんだ粟斗にしては謙虚だな」と山村は不思議そうだ。


 夏見は頭をかきながら、

「本当にダメダメな仕事だった。実はまた久々に佐和ちゃんに助けられた」と軽い羞恥心をごまかす。

「佐和って、杯佐和のことか?」

 懐かしそうに思い出し笑いをする山村。どうやら知人のようだ。


「ああ、何故か今日のこと知っていた」


 夏見の言葉を聞きながら、山村は何かを知っている風だったが、それ以上彼女は何も言わなかった。


 一方の持彦は、

「なんで、いつきがいるの?」と二十六世紀からの使者に驚く。


 その持彦の言葉を受けて、

「今回は二つの用事で二十一世紀に来たのよ。ひとつはこの閏秒の件。これを伝えるための伝令役を仰せつかったのよ。もう一つは、もっちゃんを二十六世紀に連れて帰る件よ」と笑顔だ。


「何で僕が二十六世紀に帰るの?」


 持彦は不思議な顔をしている。だがそれより気が気でないのは富久だ。こんな美人が持彦を迎えに来たというのだから、心中穏やかではない。予てから自分の容姿にはコンプレックスしかない富久には、自分に勝ち目のないライバルと判断した。いつもおおらかなお天気娘の表情が曇る。その不安からか、持彦の半袖の袖元を軽くつかんで引っ張る。


「幼なじみが迎えに来たんだもの、自分の時代に戻るのは当然じゃないかしら?」


 平然とのたまういつきの言葉に、

「いつき、なんか勘違いしてる。僕のネイティブな時代はこの二十一世紀だよ。二十六世紀は時置人として、見識を深めるための家庭内留学経験だった」と答える持彦。


「あなたが二十一世紀の人間? 幼稚園も、小学校も、中学と一緒の私が知る限り、それはあり得ないわ」と食い下がるいつき。


 少し済まなそうに、

「幼なじみというのなら、私ももっちゃんとは幼なじみなの」と持彦の背に隠れながら、かなり控えめに言葉を発した。

「誰、この子?」


 いつきの言葉に、

「僕の彼女。将来、この子と一緒になるためにがんばって仕事を覚えているんだ」と持彦。


「えっ?」

 面食らったように、いつきは動揺する。思いもしない人物の登場に不意打ちをくらった気分だ。それはこちらも同じだった。富久の身体を頭からつま先まで流し見た。そして、

「違う時代の人との婚姻はまずいわよ。時神さまのお許しでもあれば別だけど」と返す。


 すると奥の方から声がした。

「いや、持彦は正真正銘、この時代の私の孫だよ」と明るい声で歩いてくるフィドルじいさん。しかもいつきの胸元の勾玉に聞こえるように声を出す。

「調べてみて、管理センターさん」

 フィドルじいさんの声に軽く反応して、緑色に光る勾玉。これは時間局の通信機器。時空郵政のバッヂと同じ機能を持っていることを、彼は知っているのだ。


 数秒して、未来からの返信があったようだ。まるで一人で話しているかのように見えるいつきは、

「ええ、そうなの?」と残念そうな顔で項垂れた。


「本当なのね……。悲しすぎて信じたくない」と持彦に力なく答える。


「どういうこと?」

「ごめん。私、もっちゃんが好きだったから、迎えに来て、一緒に二十六世紀で結婚したかったの。でも私の方が、違う時代の人になってしまったみたい。片思いのまま帰るのね」

 さっきまでの威勢の良さは、もういつきには見られない。寂しい横顔が窓ガラスに映る。


「誰にでも分け隔て無く優しくて、傷つけない優しい心の持ち主だったもっちゃんは、私の理想だったの」と呟く。諦めなどつくはずもなく、うなだれるいつき。

彼女が張り切って、今回の任務に携わっていた理由は、この事実によって無残にも打ち砕かれた。


 ポンと肩を叩いたのは意外にもみずほだ。しかもハンカチなど差し出す優しさ付きだ。

「分かるよ、その気持ち。女だって片思いはつらいよな」


「別におんな寅さんを演じたいわけではないわ」


「二十六世紀の人間も山田洋次を知っているわけ?」


「名作は何年たっても残るわよ。二十六世紀の人間を甘く見ないでちょうだい」

 涙を拭いながら、負け惜しみのいつき。


「悲しくなったら、いつでも保土ケ谷の『ワンダーランド』に来な。ロハでコーヒー飲ませやるから」と微笑む。

「ロハってなに?」といつき。


「昔の、二十世紀のおじさんたちが使う言葉で、『只』という字を縦に読むとカタカナのロハになることから無料という意味になるらしい」

「そっか、覚えて置くわ」

 みずほの思いが伝わったらしく、彼女には、安心して話すいつきだ。彼女がみずほの元に、借りたハンカチを返しに行く日はそう遠くないと夏見たちは思った。



南伊勢・六ヶ所村

 ビジネススーツが似合うようになった朱藤富久は自転車で、リアス式海岸の斜面を颯爽と降りていく。ミカン畑の木々の間を縫うように。


 ひとつだけ変わっていないのは、凄い形相で、必死になって自転車をこいでいることだ。鼻の穴は開いて、髪を振り乱し、残念な乙女とでも描写できる様相だ。

そしてその速さ、まるで古いアメリカのカトゥーンフィルムに出て来る速達鳥、「ミンミン」と鳴きながら走る『ロードランナー』のように、バスターミナルに向かってまっしぐらである。


「あれ、見てみ。朱藤さんとこの孫娘やに」

「ほんまや」


 相変わらずミカン農家の三木元夫妻は、屈んでいた腰を伸ばして、いつもの見物モードに入った。

「よく毎日毎日、飽きずにぎりぎりの時間にケッタこいで通勤しとるな。もすこし、はよ、出られんのかね、あの子は」と笑う。

「ほんまになあ」


 三木元夫妻のいらない心配をよそに、富久は一分一秒が命取りになるバスの発車時間との闘いに挑んでいる。暦人として流れる『時間を守っている』のに、バスの発車時刻の『時間は守れない』ようだ。


 知人宅に自転車を置いて、ドアの閉まりかけたバスに向かって懇願する。

「待って!」

 彼女の遠吠えむなしく、運転士さんは彼女の存在に気づくことなくバスを走らせていった。定刻通りの出発である。


「あーあ」

 取り残された哀愁の中、富久は項垂れた。


 とぼとぼと自転車の方に戻る富久に、背後から『ピッピ-』とクラクションが鳴る。

 すぐに振り返ると『楽器工房23』と車の側面に書かれたワゴン車が富久に並ぶように走る。

「今日伊勢市まで直行で配達だから、乗せていこうか?」と持彦。


「もっじゃーん。のぜでー」

 涙と鼻水の顔は相変わらずである。


 持彦はさりげなくハンカチを渡す。

「はい、これ」

「あじがどう。だずがっだ」


 持彦はこんなだらしない顔の富久が大好きだ。ある意味、マニアックな恋愛嗜好である。軽く笑うと、

「言ったでしょう、富久を一生守るよって」とさりげなく呟いた。富久の危なっかしい性格に、持彦の恋のベクトルは自然に反応して、そっちを向いている。持彦はどうやら自分から苦労を買って出る性分のようだ。


「人生の楽しみ」、それがヤマユリの花言葉である。確かにこの二人、ある意味では若いながらも、人生を謳歌しているように思える。一輪だけ、先日使いそびれたヤマユリがダッシュボードの上に置かれている。まるで二人の楽しくも細やかな恋に微笑んでいるようだ。

 そして富久がシートベルトを締めたことを確認すると、アクセルを軽くステップ-オン。伊勢市に向けて、持彦はハンドルを切った。


                     了 

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