2:天才の不機嫌
「私がこないだキミに話した気象学理論のマナの件なんだが……」
カルドの声があまり耳に入ってこない。美しいカルドの顔も。あの無邪気な笑顔さえ、今の俺には認識が難しい。
「聞いているのか?ヨハン」
いつもの天真爛漫な笑顔ではなく、怪訝そうな表情で此方に問いかけてくるカルドに、俺はふらつく頭を抱え必死に頷いた。ただ、いつものように「うんうん」と二、三度頷く事は難しい。頭が痛い。体が熱い。意識が遠い。
「そうか。ならいいが。それで……あ、また良いアイディアを思いついた!気象学理論の事は後回しだ!ノームを用いた地政学について、画期的なアイディアだ!キミなら絶対にこの素晴らしさに気付けるだろう!聞いてくれ、ヨハン!」
いつもは喜びを持って耳に出来る筈のカルドの興奮した声が、疼く頭を突き刺す。しかし、カルドが「聞いてくれ、ヨハン」と言ってくれているのだ。頷かなければ。
早く。いつものように。
「ヨハン?」
頷く。いや、項垂れたと言った方が正しいかもしれない。
俺の反応の悪さに、少しずつ音調の低くなるカルドの声。もう、俺は申し訳なさでいっぱいだった。
はぁっ、はぁっ。
呼吸が、苦しい。
そう、俺は体調を崩してしまっていた。
数日前から、妙に喉がイガつくと思っていたのだが、それを放置していたのがいけなかった。今朝、目が覚めた時には全てが後の祭りだった。食欲もなく、起き上がるのすらままならない。体は焼けるように熱かった。
何をやっているんだ。
今日もカルドがやってくるというのに。
そんな事を思いながら、俺は時計を見て、カルドが来る時間である事を確認した。無理やり体を起こし玄関まで這うように歩く。
「ヨハン。カルドだ。開けてくれ」
その声に、いつもならすぐに体が反応するのに、今日の俺は一拍遅れた。戸を開けた瞬間、カルドは一拍遅れた俺に、少しだけ眉を顰めていた。
あぁ、ごめんよ。カルド。君は自分のペースを崩される事を、とても嫌がるのに。
「ヨハン、今日も良い日だな。なぁ、聞いてくれよ」
しかし、優しいカルドはすぐに気を取り直して、いつものように話し始めた。けれど、あまりに熱が高いせいだろう。やはり、いつものような調子で頷く事ができない。
せっかくカルドが来てくれたのに。そう思いながら、必死に頷く。そうこうしているうちに、カルドの帰宅時間となった。
「おっと、もうこんな時間か。今日は帰るよ」
いつもなら「ヨハン、今日も素晴らしい時間だった。ありがとう」という言葉が入る筈なのに。やはり、今日はカルドにとって“素晴らしい時間”ではなかったのだろう。なんて事だ。明日から、カルドが来てくれなくなるかもしれない。
はぁっ、はぁっ。
俺はボーッとする思考の中、どんどん嫌な方向へと頭の中が流れていくのを止められなかった。いつものプカプカと浮かぶ気持ちの良い浮遊感などまるでない。灼熱の荒波に呑まれるような感覚だ。
俺は少しばかり泣きそうな気持を抱えながら、最後くらいはと、コートを羽織る美しいカルドに向かって帽子を差し出した。
それが、その日の俺の最も大きな失態となった。
「不愉快だ」
そんな不機嫌極まるカルドの言葉に、俺はハッとした。いつもは“右手”に対して差し出す帽子を、頭のイカレた俺は、カルドの“左手”に向かって差し出してしまった。それに気付いた時には、もう天才の不機嫌は頂点まで達していた。
「キミにはガッカリだ。紅茶の味もおかしかった。戸を開けるタイミングも、話の相槌も最低だ。いつもとまるで違う。ここに来て、こんなに不愉快な気持ちになるなんて思わなかった。まったく時間の無駄だ。帰らせてもらう」
何と言う事だ。カルドを怒らせてしまった。いつもなら、無邪気な笑顔で「あぁ、また明日。ヨハン。良い夜を」と言ってくれるのに。
カルドは憤慨した様子で乱暴に戸に手をかけた。そして、悲しいかな。これはいつもの通りだ。何の余韻もなく、風のように颯爽と出ていく。もちろんカルドは振り返らない。
俺はそんなカルドの背中に、重い腕を必死に上げ手を振った。
何だか名残惜しくて、締まりかけの扉を押して外まで出た。真冬の冷たい風が俺の体を包み込む。そんな中、俺は見えなくなるまでカルドの背中を見つめる。
はぁ。はぁ。
体中焼けるように熱いのに、酷く寒い。ガタガタと痙攣するように体が震える。意識が朦朧としてきた。立っていられない。俺は玄関先で膝を折ると、そのまま地面に体を横たえた。
カルド。キミは明日も、俺の所へ来てくれるだろうか。
〇
俺は、生まれた頃から声帯が機能していなかった。
今の医学ではどうにも出来ないと言われたらしい。
故に、俺の世界には「喋る」という概念がハナから存在していなかった。
しかし、それは俺の世界では当たり前だったが、他の者にとってはそうではないらしい。人と人とのコミュニケーションの大半は「声」という便利なツールを使い、その刹那において自身の中に宿った心を相手へと「言葉」を用いて伝えるのだ。
そうして「話す」事で、他者と「会話」が生まれ、そこから様々な感情や関係性が生まれる。
声を持たない俺は、そんな当たり前の人の営みの中で、酷く異端だった。声を持たない俺との付き合いは、声を持つ者からすれば“面倒”の一言に尽きる。故に距離を置かれる。その為、幼い頃から俺はいつも一人だった。
そんな時、俺に話しかける者が現れた。
『あぁ、いいところに居るじゃないか。いま、とても良いアイディアが浮かんだんだ。少し聞いてくれないか?』
幼いカルドだ。
この頃から既に、カルドの天才的な頭脳と、その老成したような話し方は完成していた。
隣の学窓だったカルドと俺は、それまで関わる事など一切なかった。面識もない。ただ、一方的に「変り者の天才カルド」という名前だけは聞いた事がある程度だった。
戸惑う俺を余所に、カルドはツラツラと何やら訳の分からない難しい事を話し続けた。それを、俺は戸惑いながら黙って聞いた。
しかし、ここで勘違いしないで欲しい点が一つだけある。
戸惑ったのは、カルドの話す内容が難解だったからではない。
この俺に自ら話しかけて、カルドが一向に退屈した様子を見せないからだ。そんなの、俺にとっては初めての経験だった。
言葉に対して、言葉で返せぬ俺との会話は盛り上がらない。だから、話しかけられても、皆早々に俺の元からは去っていく。しかし、カルドはそうではなかった。
『……と言う事になるのだが。この矛盾についての私の見解を、キミは理解できるだろうか』
うんうん。
楽しそうに語り続けるカルドの姿に、俺はワケも分からぬ話ながら自然と頷いていた。それに対し、カルドは更に表情を明るくして話し続ける。それは俺にとって、家族以外との生まれて初めての“会話”だった。
『素晴らしい!だったら、それをもう少し先に進めて考えると……いや、待て!良いアイディアが浮かんだ!そのまま聞いてくれ!』
うんうん。
俺の心は歓喜に沸いた。
こんな凡庸以下の俺と会話を共にしてくれる相手が居るなんて。しかも、カルドは幼少期から美しく、その頃はまるで天使のようだった。
実際にその時の俺はカルドを「天使」だと信じて疑わなかった。
カルドにとっては、たまたま良いアイディアが浮かんだ時に、たまたま傍に居た俺に話しかけた。ただ、それだけなのだろう。
しかし、その“たまたま”が俺を救ってくれた。
カルドと過ごすひと時が、俺の人としての尊厳を守ってくれた。それから二十年近くの時を、俺はカルドに寄生しながら過ごした。
俺は、カルドの傍に居なければ“人間”にすらなれない。カルドのルーティンに寄生し、拠り所にさせて貰っている立場なのに。
なのに、俺はカルドのルーティンを穢してしまった。
もう、カルドは二度と俺の家には来てくれないかもしれない。
それが、俺には堪らなく恐ろしかった。
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