第33話 ある少女の回想
あの日、フリッツに真実を告げられた時のことを、ニーナはよく覚えている。
「ニーナ、いいか、ドナがお前に飲ませているのは薬なんかじゃない。あれはお前の体の具合を悪くするための毒だ」
「えっ!?」
ドナがいない時、突然アパートを訪れたフリッツ。
最初その話を聞いた時は、作り話じゃないかと本気で思った。
「ドナはなんて恐ろしい……。実の娘にどうしてこんなひどいことができるんだ。俺ならばそんなことはしない。我が子が元気でいてくれることが、親に知って何よりの幸せのはずなのに……」
「………」
けれど話を聞けば聞くほど、フリッツの言っていることに信憑性が増した。
フリッツが昔、ニーナと同じくらいの年頃の娘を亡くしたことを知っている。
そのフリッツが、冗談でこんなことを言いだすはずがない。
「とにかくドナからもらった薬は全部飲んだふりをして捨てるんだ。いいな? ドナにはこんなことはもうやめるように俺から話す。ドナが逆上したら何をするかわからないから、とりあえずお前は何も知らないふりをしていろ」
「わ、わかったよ、おじさん……」
ニーナは大人しくフリッツの言うことに従い、ドナから手渡される薬を裏で捨てることにした。
するとどうだろう。
立つことさえ困難だった両足に、徐々に力が戻ってきたのだ。
「そうだ、ニーナ。うまいぞ。その調子ならすぐに走れるようになる」
「ありがとう、フリッツおじさん」
フリッツは度々ドナの留守を狙い、ニーナの歩行のリハビリに付き合ってくれた。
ニーナは嬉しかった。
母がくれる薬さえ飲まなければ、自分はまたこうして元気に歩き回れるようになる。普通の子供と同じ生活が送れるようになるのだ。
けれどその淡い期待は、他でもない母の手によって無残に打ち砕かれることになった。
「いい? ニーナ、もうフリッツと会ってはダメ。彼が訪ねてきても鍵は開けないように」
「ど、どうして? お母さん……」
ある日、仕事から帰ってきたドナは、一方的にニーナに通告した。
この頃、すでにニーナにとってフリッツは心の支えでもあったため、大人しく言うことを聞く気にはなれなかった。
「あいつとはもう別れたの。あいつはまたお酒を飲み始めて、私達を裏切ったのよ!」
「ち、違うよ。おじさんはずっと禁酒したままだよ。手が震えているのは何かの病気のせいだって……」
ニーナは必死にフリッツを庇った。
父親代わりの彼にもう二度と会えないのは、絶対嫌だと思った。
けれどフリッツを庇えば庇うほどドナは逆上していき、強い声でニーナを叱りつける。
「ニーナ、あんたは実の母親である私より、他人であるフリッツの肩を持つの!? 体が不自由なあんたの世話を、一体誰が見てやっていると思うの!?」
「……」
ダッテ、ソレハオ母サンガ、私ニ毒ヲ飲マセルカラ……
ニーナはそう言いかけて、けれど慌てて口を噤む。
ニーナが事実を知っていることが分かれば、ドナは次にどんな手に出てくるかわからない。
ニーナはこの時初めて実の母に恐怖を感じ、また同時に憎しみを持ったのだ。
「ニーナ、そういえば最近薬の飲み残しが多いわね。ちゃんと飲みなさい!」
「お、お母さん、やめて!」
そしてドナは鬼のような形相で、娘に薬を飲むことを強要した。いくら抵抗しようとも、時には力ずくで薬包の粉末を口に流し込まれることもあった。
思えばこの頃からドナは、自分の虐待がフリッツにバレ、世間に暴露されることを恐れていたのだろう。あれが心の病だったのだと言われれれば、確かにそうだったのかもしれないと、今ならば納得できる。
(お母さん、やめて……お願い、もうやめて! あたし、もう毒なんて飲みたくないっ!)
けれどニーナが苦しいと訴えれば訴えるほど、ドナの狂気は増していった。
この歪な親子の秘密を知っているのは――別れた恋人であるフリッツのみ。
やがてドナは、フリッツをどうにかししなければ……という妄執に取り憑かれていった。
「とにかく何とかしてあいつの口をふさがないと……。もしも全てをバラされたら、私はおしまいだわ……」
パーム区で一年に一度のお祭りが開かれる前夜。
自宅で酒に酔ったドナは、暗い瞳で物騒な独り言をぶつぶつと呟いていた。
ニーナはベッドの中で寝たふりをしながら、ただならぬ雰囲気を漂わす母の背中を薄目で見つめる。
――コン、コン。
時計の針が0時を回り、アパートの住民全てが寝静まった時刻。
ドナとニーナが暮らす部屋に、ある一人の人物が訪ねてきた。
「例の物、用意できたよ」
「……ありがとう」
その男は真っ黒なローブをかぶっていて、ニーナが眠るベッドからは顔がよく見えなかった。けれどまるで喉を焼いたかのようなしゃがれた声が特徴的で、ドナはその男から一つの薬包を受け取る。
「これで確実に殺せる?」
「ああ、これだけの分量を飲ませればイチコロだ。ただし少し苦みがあるから、味を誤魔化してから飲ませてくれ」
「……わかったわ。これ、代金」
「毎度あり」
男は金を受け取ると、すぐに
ニーナはそんな母の様子を見て、ベッドの中で震えた。
(お母さん、何をする気……?)
この時、ニーナはひどく嫌な予感を覚えた。
酒に酔うドナの視線が、明らかに正気を失っていたから。
(まさか今受け取ったのは毒? 私が飲んでいるのとは比べものにならないほどの……)
そこまで考えて、ニーナはドナがフリッツを殺そうとしているのではないかと思い至った。
実の娘である自分ばかりでなく、フリッツおじさんにまで危害を加えようとするなんて……!
その時ニーナは、今まで感じたことのないほど憎悪の念に駆られた。
ありとあらゆる負の感情が渦を巻き、眼の奥でちかちかと激しい火花が引火する。
お母さんは私から何もかも奪っていってしまう。
健康な体も。
大好きなフリッツおじさんも。
でもそんなことはさせない。
絶対させるもんか。
あたしはもう鳥籠に囚われるだけの小鳥じゃない。
自分の足で歩いて、自分の羽根で飛び立てるんだ!
その時、ニーナの中で散り散りになっていた感情が”憎しみ” という触媒を介して一つに結晶化した。
この世に生まれてより15年。
自分を生み、育て、守り、愛してくれたはずの母は、もうニーナにとっては家族ではない。
絶対に排除しなければならない、敵となったのだ。
もちろん実の母親を害することに、ニーナが全く躊躇しなかったのかと言えば、そんなことはない。
皆が一年に一度の祭で浮かれる中、ニーナは深めのフードが付いた服を着て、一人アパートを出た。夕暮れが近づいて町全体の明度が下がっていたからか、表通りをすたすたと歩く少女がニーナだとは、誰も気づかない。
そして多くの人々が行きかう運河のほとりで、ニーナはおもむろに立ち止まった。
アパートから持ち出したのは、昨日ドナが謎の男から受け取った薬包だ。
これがもし。
これが万が一、普通の何でもない薬だとしたなら、大人しくこのままアパートに帰ろう。
ニーナはそうであることを祈りつつ、運河に薬を撒いた。
そして五分後。運河には大量の魚の死骸が浮かぶ。
ニーナは両目の縁に、大粒の涙をためた。
――やはり、やるしかない。
この魚の死骸は、明日の自分とフリッツの姿なのだ。
ニーナはポケットに忍ばせたナイフの柄を、ぎゅっと握りしめる。
今まで心の奥深くに潜んでいた残忍なもう一人の自分が目を覚まし、精密に並べられたドミノの列の最初の一駒を押す。そして後はカタカタと雪崩のように、全ての事象が連鎖して進行していくのだ。
皮肉なことに『目的を達成するためなら手段は選ばない』という一点において、ドナとニーナは瓜二つの親子だった。
「綺麗……」
祭も終わりが近づき、ドナは踊る仔兎亭の裏路地で花火を見上げていた。
辺りに人影はなく、やるなら今しかない。
一時間前から路地の片隅で待ち伏せしていたニーナは、両眼をギラギラさせながらドナに向かって走りだした。
両手に握られたのは、家から持ち出した料理用のナイフ。
ドナがその存在に気づいた時にはもう、鋭い刃がドナの腹部を深く抉っていた。
「ニ、ニーナ、なんであんた、ここに……」
「……っ!」
最初ドナはニーナの姿を見て驚愕していた。
なぜ歩けないはずの娘が、こんな所にいるのか……と。
次に、自分の腹部から激しい痛みを感じ、ようやく自分が刺されたことに気づく。
ドナは狂乱する。
なぜ。
なぜ。
なぜ。
愛しい一人娘に刺された母はなぜこうなったのか、その理由が本気でわからない。
「ニーナ、なにすんのよ、あんたっ!」
「………っ!」
腹部を刺されながらもドナは逆上し、目の前のニーナに逆に襲い掛かった。その手に握られたナイフを奪い取るためである。
けれど虚弱だとばかり思っていた娘は、母に負けず劣らずの力で押し返す。
後はもう、お互いに必死だった。
マリアージュが予想したとおり、互いに互いを何とかしようと被害者と加害者の間で修羅場が繰り広げられる。
ニーナは手に持ったナイフを奪われまいと、それを何度も何度も目の前のドナの体に突き立てた。
死んで。
死んで。
早く、死んで。
とにかくただひたすら、我武者羅に、ナイフを振り下ろし続ける。
そして大量の返り血を浴びていたニーナを、背後からある人物が止めた。
「ニーナ、やめろ! もうドナは死んでる!」
「……っ!!」
それは――誰あろうフリッツだった。
祭の後、もう一度ドナと話し合おうと店に立ち寄ったフリッツは、計らずもドナ殺害現場の目撃者となったのだ。
「フリッツ……おじさん……」
「ニーナ、おまえ、なんてこと……。ああ、ドナ……」
「……」
フリッツはニーナの手首から手を放し、がっくりと大きく項垂れた。
一方のニーナも、フリッツの登場でようやく落ち着きを取り戻す。そしてふと足元に視線を落とせば、そこには物言わぬ
「ニーナ、これをかぶって逃げろ。大丈夫だ、ここは俺が何とかする」
さらにここでフリッツが素早く機転を利かせる。自分の上着をニーナの頭からかぶせ、少しでも返り血が見えないよう隠した。さらに血だらけの両手を、ハンカチで拭い取ってやったのだ。
「大丈夫だ。万が一にもおまえを犯人だと疑う奴はいない」
「う、うん………」
「アパートに帰ったらすぐに返り血を洗い流せ。ナイフは運河かどこかに捨てるんだ、いいな?」
「わかった……」
先ほどまで一人の人間をめった刺しにしていたとは思えないほど、ニーナの態度は従順で素直だった。
ここまでしなければならなかった彼女の心情を思うと、フリッツは胸が引き絞られるような錯覚に陥る。
「さ、行くんだ、早く!」
「あ、その前に、ちょっと待って」
現場を誰かに見られてはいけないとフリッツは急かすが、ニーナは一度
愛する娘に刺殺されたドナは、驚愕の表情のまま固まっている。
ニーナはその両目をそっと閉じさせて、母の安らかな眠りを祈った。
「ごめんね、お母さん。痛かったでしょ? でも……」
――こうするしかなかったの。
お母さんなら、わかってくれるよね?
愛する娘のわがままならば、たとえどんな親だろうと結局は理解し、許してくれるだろう。
そんな子供独特の純粋さと残酷さを滲ませて、ニーナは泣き笑いの顔になった。
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