売れない神クリエイターたちはネットで一回バズってみたい
犬山テツヤ
第一話【プロローグ】
玄関の鍵は最初から開いていた。靴箱の上に白い封筒が並び、名前と部屋番号が手書きで記されていた。私は自分の封筒を手に取り、二階の端の部屋へ向かった。廊下の壁はまだ新しく、ペンキの匂いがわずかに残っている。階段の途中で誰かの笑い声が響き私は足を止めた。薄い壁越しに、機材を運ぶ鈍い衝撃音が続いていた。
リビングに戻ると、四人がすでに集まっていた。カメラケースを床に置いているのが映画を撮るという青年で、名札には「早瀬」とあった。肩にかけたストラップが擦れて、黒いTシャツに白い粉が付着している。丸椅子に座ってノートPCの液タブを触っている女性はイラストレーターの「深町」。ペン先が画面を滑る音が、静かに空気を切り分けていく。隣には漫画家の「相原」がスケッチブックを抱えて座り、鉛筆を親指で転がしていた。髪を一つにまとめた「九条」はアニメーターで、持ち込んだ小さなライトボックスをテーブルに設置して、紙の端を丁寧に揃えている。
私は名札を「瀬戸」と書いてテーブルに置いた。顔を上げた深町と目が合い、短く会釈を交わした。緊張はしていたが、深呼吸をすると胸のあたりが少し軽くなった。共同生活の匂いが、すでに薄く漂い始めている。冷蔵庫の低い唸り、窓の外で鳴く鳥の声、誰かのスマホの通知音。ばらばらのリズムが同じ部屋に重なり、まだ調律されていない合奏のように聞こえた。
玄関のチャイムが鳴り、全員が顔を向けた。入ってきたのは黒いパンツスーツに白いシャツを合わせた女性だった。想像よりも年若く見えたが、歩き方には迷いがなかった。人気ライトノベル作家の一条櫻。監督、と封筒に印字された肩書きが、彼女の立場を簡潔に説明している。彼女は部屋を一瞥し、空いている椅子に腰を下ろした。背筋が伸び、手元のタブレットに素早く何かを書き込んだ。
「ようこそ。今日からしばらく、ここで一緒に暮らして、作って、争ってもらいます」と一条は言った。声は低すぎず高すぎず、よく通った。私たちは彼女の言葉に合わせて姿勢を正した。「ルールは簡単です。週に一度、課題を出します。提出物はジャンル自由。ただし一つだけ、誰かの作業工程に最低一度は関わってください。小説に絵を、絵に音を、音に物語を。異なる回路を繋げることが、この家の目的です」
早瀬が手を挙げた。「関わるって、どの程度を想定していますか。クレジットに名前が載るくらいの参加でいいですか」
「載せるなら、その意味が要ります」と一条は即答した。「“なんとなく相談した”ではなく、完成物の質に影響したと自分で言える程度まで踏み込んでください」
九条が小さく頷いた。ライトボックスの光が彼女の指先を透かし、骨の細さを際立たせる。相原は膝の上で鉛筆を回すのをやめ、深町はタブレットのスタイラスを置いた。私は自分のノートを開き、走り書きでルールを書き留めた。文字にすると、部屋の空気が少し輪郭を持ったように感じられた。
「第一週の課題は『一歩』です」と一条が続けた。「長さは問いません。最初の一歩でも、踏み出せなかった一歩でも、後ろへ踏んで助走にした一歩でも構いません。自分の得意な方法で描いてください。提出期限は日曜の二十二時。月曜の朝に講評と順位を出します」
単語が胸の奥で反響した。一歩という言葉は短いが、内側に余白を抱えていた。始まりの足先、戻るための踵、ためらいの指の力。私はペンを握り直し、小さく息を吐いた。
「生活のルールも確認します」と一条はタブレットをスワイプして別のページを表示した。「掃除は当番制。キッチンは二十三時まで。音は二十二時以降はヘッドホンを使ってください。機材の持ち出しは管理表に記入します。冷蔵庫の私物は名前と日付。夜更かしは自己責任ですが、翌日の提出に影響が出ると減点します」
早瀬が冗談半分に肩をすくめた。「地獄の合宿ですね」
「楽園でも地獄でも、呼び方は作品次第です」と一条は微笑んだ。その笑みは短く、すぐに仕事の表情に戻った。「最後に。ここで起きた喧嘩はここで解決してください。SNSに流さないでください。賞レースは視線を集めますが、視線に飲まれると作品は壊れます」
私は頷いた。言われなくてもわかるはずのことだが、口にしてもらうと少し心強くなる。隣で深町が「了解しました」と柔らかい声で答え、相原が「がんばります」と続いた。九条はライトボックスの電源を落とし、「一歩なら、歩幅の研究からやります」と小さく宣言した。早瀬はカメラケースを閉じ、「まずは足音を録ります。踏む音って、性格が出るので」と言った。
一条はテーブルの中央に置かれた小さな砂時計を指さした。「キックオフとして、今から三十分で“仮の一歩”を作ってください。落書きでも、サムネでも、ログラインでも構いません。三十分後に輪になって、出したものを見せ合いましょう。ここから始めます」
砂が流れ始めた。私はノートの最初のページに日付を書き、題名の候補を三つ並べた。手が動くと、頭の中のざわめきが少し整ってきた。誰かの鉛筆が走る音が聞こえ、別の誰かのキーボードが短く鳴った。キッチンでは電気ケトルが湯気を上げ、薄い香りのコーヒーが部屋の空気に混じった。
「瀬戸さんは小説ですよね」と深町が声をかけてきた。
彼女のタブレットには靴のラフが広がっていた。踵と爪先の角度に、ためらいが描かれている。「文字から始める“一歩”って、どんな形ですか」
「たぶん、最初の一文です」と私は答えた。
「踏み出すときにしか書けない一文。戻る前に書く一文」
深町は少しだけ口元を上げて、「いいですね」と言った。相原がスケッチブックをめくり、九条が紙を重ね直し、早瀬がマイクをテーブルに置いた。砂時計の下の皿に、細かい砂が静かに積もっていく。私たちは同じ部屋にいながら、それぞれの最初の一歩を探し始めた。ここで暮らし、ここで作って、ここでぶつかる。三十分後の輪が、最初の衝突になるかもしれない。けれど、衝突は前進の音にもなるはずだと、私は思った。
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