第43話 すっかり失念していました
(どうも様子がおかしい……)
行雲は無表情の裏で戸惑っていた。
いつも元気なあの蒼葉が今朝、家を出た時からぼんやりしており、声をかけても目を逸らされてしまう。
体調不良かと思ったが、駅舎で多めに買った弁当を列車が出発して間もなく平げていたので健康面に問題はなさそうだ。
空腹がおさまれば元に戻るかと思いきや、どこかよそよそしく、終いには隣で寝落ちてしまった。
行雲が口下手なのはいつものことだが、行雲の返事がなくとも一人で楽しそうにお喋りしている蒼葉が静かなのは珍しい。
(さては、惣田のやつが寄越した新婚旅行の手引き書というのが出鱈目だったな)
惣田に旅先を相談したのだが、相手を間違えた。
お節介な彼は場所を提案するに留まらず、「お前は女の扱い方がまるでなってない」と手引き書と称した書簡を送ってきた。
あまりに厳しい忠告が並んでいたため、とりあえず相手の服装を褒めるというのを実践してみたがまるで効果がない。
それどころか機嫌を損ねているではないか。
よく考えたらあの男も良い歳をした独身者だ。
行雲は小さく息を吐き、窓の外に目をやる。
過ぎ去っていく木々の間から青い水平線が覗いている。もう間もなく目的地に着くだろう。
(一旦惣田の戯言は忘れよう)
行雲は涎を垂らして眠る蒼葉の肩を揺らし、降りる準備をするように伝えた。
◇◆◇
つい先ほど帝都を出たばかりのはずだったが、蒼葉がお弁当を三つ食べて居眠りをしている間に目的地に着いていた。
(おおー、人が多い!)
帝都からの列車が整備されて以来人気の観光地らしく、駅舎はたくさんの人で賑わっている。
駅から旅館までは人力車に乗せてもらい、蒼葉は仄かに感じる潮風と、海辺の街の風景を楽しんだ。
(後で干物を買いにこよう)
中でも蒼葉が気になったのはやはり美味しいものだ。
駅近くの商店街にたくさんの海産物が売られているのを見つけた蒼葉は、密かに目標を立てる。
「予約した百鬼だ」
「まぁ、百鬼様。言ってくだされば駅まで迎えを出しましたのに。遠いところからお疲れ様でございました」
崖の上に建った旅館は百鬼家を更に大きく、豪華にした和洋折衷の造りで、出迎えた女将さんは二人を手厚く迎えてくれる。
恐らくお国の要人や、お金持ちの人だけが泊まることのできる
蒼葉は場違いな所に来てしまったと萎縮していたが、案内された部屋の窓から見える景色に思わず歓喜の声を上げた。
「うわぁーーー!! すごい!!! 旦那様見てください。今まで見てきたどの池よりも大きいです!」
「海だからな。池とは違う」
(しまった)
大きな声を上げてはしたないと怒られるかと思いきや、女将さんは朗らかな笑顔を浮かべている。
「奥様は海を見るのは初めてでいらっしゃいますか?」
(奥様!?)
聞き慣れない言葉に驚くが、これは新婚旅行なのである。
女将さんの目には二人が夫婦に映っているのだろうか。蒼葉は不思議な気持ちになりつつも頷いた。
「は、はい。山暮らしが長かったもので」
「そうでしたら、ぜひ時間ごとに移り変わる風景をお楽しみください。滞在中何かご希望されることがありましたら、遠慮なく私どもまでお申し付けくださいね」
女将さんは二人に窓際の椅子に座るよう促し、旅館のことや部屋の設備、食事の時間などを丁寧に案内してから部屋を去る。
お茶と茶菓子まで出してくれ、蒼葉は既に幸せいっぱいだ。
「どうだ、楽しめそうか」
「はい! こんな素敵なところに連れてきてくださりありがとうございます」
旅館に泊まるのも海を見るのも生まれて初めてのことで、蒼葉は何をするにも大はしゃぎした。
海岸を歩いた時には砂と海に足をとられてすっ転び、駅前の商店街では自分では持ちきれないほどお土産を買ってしまい旅館の送迎車の世話になった。
温泉は海の見える露天風呂が最高で、うっかり狸に戻ってしまっても良いように行雲が貸切にしてくれた。
何より素晴らしかったのは朝夕の食事だ。
新鮮で蕩けるようなお刺身や、舌にうま味がいつまでも残る椀もの、大きな貝や蟹、一匹まるごと調理された金目鯛など、ご馳走がどんどん出てきて蒼葉は夢中になって食べた。
旦那様に「海の幸も良いですけど、山の幸も美味しいですよね」と漏らしたら、なんと次の日の晩には野菜や山菜、お肉を中心とした食事が準備されたのだ。
蒼葉は高級旅館のおもてなしがいかに優れているかを思い知った。
美味しくて楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
「はぁ、お腹いっぱい……眠くなってきました……」
三日目の晩、蒼葉はぽんぽこになったお腹をさすりながら、二つ並んで用意された布団の片割れに潜り込んだ。
行雲はまだ、窓辺の椅子に座って何やら難しそうな本を読んでいる。
この数日で随分体が丸くなった気がした。ぽてぽてしたことで、一層愛らしい狸になってしまったかもしれない。
(そういえば、何か忘れているような……)
遠くから聞こえる波の音が心地よく、うとうとしているところに行雲がやって来る。
彼は隣の布団に寝そべると、「やはり俺は美味しいものには勝てないな」と呆れと笑いを混ぜて呟く。
蒼葉は新婚旅行のことをいつの間にかすっかり忘れていたのだった。
(……もしかして旦那様、私が食べてばかりで新婚旅行らしいことをしないから、拗ねていらっしゃる?)
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