第36話 遠い記憶

 農民らしき人々が祠を拝んでいる。

 祠はきちんと手入れされており、米や果物が供えられていた。


 木々の間から明るい日差しが差し込んで、祠の裏手にある池はキラキラ輝いて見える。


 鳥たちはお喋りするようにさえずり、狸が茂みの中から顔を覗かせているが、あれは祠のお供物を狙っているのだろう。


(これは夢? それとも龍神様の記憶?)


 一度意識を失った蒼葉は、気づくとぼんやり宙を浮いていた。

 自分の意思で動くことはできないので、ただただ目の前の平和な景色を眺めている。


 人々は嘆き、祈り、感謝する。

 龍神は気まぐれに人間の願いを叶えているようだった。


 朝から晩、春から冬、時間と季節は絶え間なく移り変わっていく。


 信仰が途絶えたのか次第に訪れる人は減り、祠は朽ちていった。

 サビシイ、サビシイという龍神の声が聞こえてくる。


 そんなある日、美しい女性がやってきた。その風貌は少し姫花に似ているように思うが別人だ。


 どうやら彼女は盗賊に追われていたらしく、雅な着物を重たそうに引きずって、祠に助けを求めた。


「神様どうかお助けください」


 すると龍神は『嫁になってここに居てくれるのなら応じよう』と答える。

 これまで人に話しかけることなどなかったのに、美しい娘に一目惚れしたのかもしれない。


 まさか返事があるとは思っていなかったのだろう。女性はぎょっと目を見開き逡巡した後、賊が姿を表したので取り引きに応じた。


 瞬間、どかんと雷鳴が響いて盗賊たちは事切れた。

 驚き怯える娘の前に、ついに龍神様が姿を現す。


 泥の塊ではなかったが、白い鱗は汚れて黒ずんでおり、空を飛ぶこともできないのか地を這っている。


 その様子は大きな蛇のよう、顔はつのが生えたなまずとでも表現すれば良いだろうか。


 妖など見たこともない女性にはさぞ恐ろしい化け物に映っただろうが、彼女は約束通り龍神に寄り添った。


 ところが、娘は日に日に衰弱していってしまう。

 山の環境は無防備な人間が暮らすには厳しく、食べるものも殆どないのだから当たり前だ。


 そのうち娘を探す男たちが現れ、衰弱しきったところを運良く発見する。


 男たちが娘を連れ帰ったことで、龍神は荒れ狂った。

 大雨が降り、川からは水が溢れ、土砂が崩れて集落を襲う。


 連れ去られた嫁を取り戻そうと龍神が暴れるたびに池の水は黒くなり、龍神の体も穢れていった。


「龍神様、だめですよ! そんなことをしても娘さんは戻りません!!」


 蒼葉は思わず叫ぶが、過去の出来事なのだから届くはずもない。


 暴雨のせいで多くの人が死んだ。


 龍神の存在は再び知られるようになったが、人々の中にあるのは昔のような畏れ敬う気持ちではなく、憎しみと恐怖である。


 真っ黒になった龍神の振る舞いは『堕ちた龍神』と呼ばれるに相応しかった。


 男を襲い、女を攫う。数々の悪行を重ねたことにより、都から呼び寄せられた優秀な陰陽師の手で池と祠ごと龍神は封印された。


 そこで映像は途絶え、蒼葉の視界も真っ暗になる。

 冷たくて、苦しい。そして、哀しくて、虚しい。


 龍神は孤独を恐れていたのに、自らの行いによって一層孤独に陥ってしまった。


(人と人ならざるものが共存するって難しいんだな)


 行雲の顔を思い出し、張り裂けそうなほど胸が痛む。

 正体を知った行雲に拒絶されたら、行雲が他の女性と結婚してしまったら、蒼葉も真っ黒な泥の塊になってしまうのだろうか。


 心配してみてふと、もう二度と会えないのだから気にする必要はないことに気づく。

 ここは龍神の体内だ。消化が済む頃には蒼葉の意識も消えてなくなるだろう。


(旦那様……ご無事でしょうか。最後にきちんとご挨拶をしたかったです)


 ぽろぽろ涙が溢れてくる。

 故郷の山が枯れ、一家が離散してから蒼葉は一匹で強く逞しく生きてきた。


 親を離れて孤独に生きる獣は多いと強がっていたが、本当のところは寂しくて、行雲に百鬼家に留まれば良いと言われた時は泣きそうなほど嬉しかった。


(旦那様……旦那様……)


 姫花に言われた「ポン太は旦那様が大好きなのね」という言葉の意味が今なら分かる。


 行雲が好きだ。

 ずっと一緒にいたい。


(きっと龍神様もそう思っていたんだろうな)


 蒼葉は龍神に訴えかけてみる。


(お気持ちは分かりますが、もう良いのではありませんか? 私が一緒にいるので逝きましょう)


 これ以上、人を傷つけてほしくない。

 人を傷つける度に自分も傷つくことになるのだから。


 行雲に嫌われたとしても、彼が他の女性を選んだとしても、蒼葉は泥の塊にはなりたくない。


 好きな人が幸せならそれで良いのだ。


 視界がパァッと明るくなる。何事かと思ったら、蒼葉は狸の姿に戻っており、何故か全身が発光している。


 蒼葉、と名前を呼ばれた気がする。


 その直後、ぬるりと体が滑るような感覚がして蒼葉は落下していた。


「旦那、様……?」


 眼下に両手を広げる行雲が見える。


 これは夢だろうかと思ったが、光る狸は行雲にもふんと抱き止められた。

 息が吸える。行雲の腕は逞しくて温かい。しばらくすると次第に体の光は収まっていく。


「蒼葉……どうしてここに」

(旦那様! ご無事でしたか。いや、もしかしてお互い死んでいてここはあの世?)


 ぽかんと行雲を見つめてしばらくしてから、蒼葉はようやく辺りを見回した。


 真っ黒な泥の塊が崩れて地面を覆っている。

 行雲がやっつけたのだろうかと蒼葉は首を傾げる。


「俺が意識を失っている間に何があった?」

(ええっと……)

「妖が錯乱し始めたと思ったら狸の形に光り、もしやと思って切ったらお前が出てきた」


 行雲はそう言って蒼葉の体を優しく撫でた。


(それは……竹取物語のようですね)


 臭くてねっとりした泥の中にいたはずなのに、蒼葉はちっとも汚れておらずふかふかだ。


 何が起きたのかよく分からないが、狸の輝きで龍神の穢れを祓ってしまったのかもしれない。


「行雲ー! たぶんこの場所ごと崩れ始めてる。早く離れよう」


 下山するための獣道の入り口で惣田が叫んでいる。彼はぐったりとした姫花を背負ってくれていた。


「今行く」

「旦那様っ、後ろ!!」


 ほっとしたのも束の間、黒い泥の触手が池からにゅっと伸びてきたのだった。

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