君がいたから2
「でも、これってやってるってことだろ? 直接は書いてないけど。その場合って、絵的にどう思い浮かべて書いてるんだ? 結構リアルに?」
「絵的、には……なにも。私、よく、そういうのは、分からないし」
「そういうの。確かにな、分からないよな」
喉が急激に乾いていく。
「ああ、悪い。意地悪じゃなくて、ただの興味で訊いてるんだよ。おれ、こういう才能ないからさ」
こういう才能。どういう才能?
「……け……消すから」
「え?」
沖田くんが振り向いた。目が合う。
「今すぐ、消すから、話を……。もう書かない。絶対に、私、沖田くんに」
「衿ノ宮」
思いがけず、両目から涙がこぼれていた。私が泣く立場でもないのに。もっとほかにやるべきことがあるのに。
「いいんだ、衿ノ宮。話はちゃんと聞く。落ち着いてからな。……おれは、行くところができた」
「行く?」
気がつくと、私は、椅子から立ち上がった沖田くんの服の裾を指先でつかんでいた。
今、踏み出しておかなければ、もう沖田くんとは会えなくなるような気がした。
「……そうだな。衿ノ宮も一緒に行くか?」
「どこに?」
「歌舞伎町」
■
沖田くんが誰かに、スマートフォンでメッセージを送っていた。
「ハルキシだよ」
「そうかも、って思った」
「さっき衿ノ宮が出てる時に、もう連絡はしてあったから。今は場所と時間の確認しただけだ。待ちぼうけさせられることはないと思う」
私も私でお母さんに連絡を入れ、友達のところにいくからちょっと遅くなると伝えた。
お母さんは、さっきの今で今から? と驚いていたけれど、ご飯は取っておくからねと言ってくれた。
私にあまり友達が多くないことはお母さんも知っているので、きっとそんなに気の置けない人ができたのかと、喜んでくれているんだろう。
夏休みに入ってからはカナちゃんたちとは会っていないけれど、八月の下旬にある近くの神社のお祭りには、ヨウコや奥野さんとも、四人で一緒に行く約束をしていた。
ありがたいな、と思う。
沖田くんや神くんのことも、話せることはみんなに話したい。そう思える人がいることは、幸せだった。
秋葉原から、中央線で新宿へ向かう。その間は、沖田くんがなにか考え事をしていたので、私も話しかけるのはやめておいた。
外の景色を見る振りをしてそっと見つめた横顔は、穏やかだったけれど、内面の思考の激しさも感じ取れた。
新宿の東口を出ると、さすがに空は夜の色に染まっている。
「行こう」
歌舞伎町へ入り、やっぱりハルキシさんのお店へと、沖田くんは真一文字に向かっていく。
お店の電気は消えていた。
沖田くんは迷わず裏口へ向かい、私は気後れしたものの、覚悟を決めてついて行く。
「ハルキシ。いるんだろ。珍しくすぐ捕まったんだ、とっとと話しようぜ」
奥の暗がりから、ゆらりと細身の人影が現れた。差し色のない黒一色の服装で、布地がどんな風に体を覆っているのか、暗くてよく見えない。銀髪だけが、弱弱しい室内灯の下で鈍く光っていた。
「……ろくでもない話の予感しかしねえな。とりあえず、店の方に来いよ」
「ここでいい。ハルキシ、おれは『仕事』をやめる」
「それはもう聞いた」
「やめるつもり、じゃない。今後一切やらない」
「そんなことをわざわざ言いに来たのか」
「今までの売り上げは、ハルキシのために稼いだ分だ。受け取ってほしい」
ハルキシさんは、前髪に隠れかけた目を細めた。
「いいよ。ありがたくもらうよ。でも、結構お前あての予約入ってるみたいだぜ。いつでもいいからって。愛されてんなあ。物好きが多いというか」
「その人たちには悪いけど、やらないものはやらない。……おれだって、この仕事が全然負担じゃなかったわけじゃないけど、人から求められる喜びも確かにあった。それはおれが、喉から手が出るほどほしかったものだったから、嫌なことばかりではなかったよ。でももう必要ない。いや、もう、おれには、無理になった」
「その女がいるからか?」
ハルキシさんが、沖田くんのすぐ右にいた私を指さしたので、どきりとした。
「それだけじゃないけどな。おれは、ハルキシが好きだったよ。だから今までやって来れた。あんたの中身が女だって聞いた時は、わけが分からなくなって悩みもした。体さえ男なら中身なんか構わないのかって思って、そんな自分に自己嫌悪もしたよ。でも今は分かる。おれは男が好きなんじゃなくて、ハルキシが好きだった。……それだけでよかったんだ」
「瀬那お前、告白しながら振るなよ。だけどそうか、それを言いに来てくれたってわけだ」
ハルキシさんの声は低かった。でも、口元は笑っているように見える。目元は、……ただでさえ薄暗いせいで、髪に隠れて見えなくなった。
私の耳に、小さい音が断続的に聞こえた。なんの音なのかと周りを見回すけれど、特に目につくものはない。
沖田くんも同じ音が聞こえたようで、視線だけで辺りをうかがう。
そして、私と沖田くんの目が、一点に注がれた。音の源は、ハルキシさんの口元だった。
くぐもった声が、くっくっとその唇から漏れている。肩も震えていた。――笑っている?
「瀬那。お前は、人を信じすぎだね。性で悩んでる人間は、全員根が善人で、打ち明けてくれる秘密はみんな本当のことで、必死で真人間になろうとしてると思ってる」
「……そんなことは」
ハルキシさんが顔を上げた。見開いた眼は、笑っているどころか、怒りを湛えているように見えた。
私は思わず後ずさりをする。沖田くんは微動だにしない。
「そんなことあるから、ころっと騙されるんだろ。いいか、
ハルキシさんが、服の中で身を震わせたかと思うと、右手の辺りに、髪とは違う銀色が光った。
ナイフだ。
「おい?」
さすがに沖田くんが気色ばむ。この間の包丁とは、構え方が違う。すぐにでもまっすぐに突いてきそうな、差し迫った危うさがある。
「出ていけ。お前ら、二度と来るな」
「……会いたくなったらまた来る。おれとお前は、少なくとも、刃物がないと話せないような仲じゃないだろう」
「殺す」
「……そうか」
沖田くんは、くるりと振り返ると、私を裏口のドアから外に出した。
沖田くんもそれに続いて出てくる。
私は正面を向いたまま後ずさりしかできなかったけど、沖田くんはハルキシさんには完全に背を向けながら、なにかを惜しむように、ゆっくりと建物から出た。後ろ手に、ドアを閉める。
施錠される音は、聞こえなかった。
「ハルキシが、後ろからおれを刺したりしないってことだけは確信があった。まだ、かすかでも希望はあるかな」
私たちは、表通りに出た。
今の緊張感が嘘だったように、無数の雑踏が談笑交じりに行き交っている。
「帰ろう。遅くなる。……しかし、あいつに金は渡せないかもしれないな」
私たちは、来た道を戻り、電車に乗った。
「衿ノ宮の駅まで送るよ。到着時間を、親御さんに送っておいてくれ」
秋葉原に着くと、私たちはつくばエクスプレスに乗った。柏の一つ手前が、私の最寄り駅だ。
なにかを話そうと思ったけれど、電車の中は混んでいて、今の私たちに必要な会話をするのには向いていなかった。
改札を出ると、まだ周囲の建物やお店には明かりがついていた。
「沖田くん、いいのに。うち近いから」
「そうもいかない。誘ったのおれだしな」
沖田くんはわざわざ一緒に駅を出て、うちの近くまで送ると言って、珍しそうに私の過ごした街を見回していた。
あと一つ角を曲がればもう私の家が見える、というところで、沖田くんが
「衿ノ宮。もう少しだけいいか?」
というので、すぐ傍にあった公園に寄った。
風が近くの梢を揺らして、さらさらと鳴る。虫の声の中、私たちは人気のない小道を並んで歩いた。
沖田くんがベンチの上にハンカチを敷くので、なにかと思ったらそこへ座ってと言われ、「結構です」と「いいから座れ」の応酬の果てに、私は恐縮しながらそこへ腰を下ろした。
沖田くんも隣に座る。
「おれも、恐らくはハルキシも、今までに何度か死のうと思ったことはある。多分、程度の差はあれ、ほとんどの人はそうなんだろうな」
沖田くんの言葉は唐突ではあったけど、自然にも思えた。私は、ただうなずいた。
「その度に思いとどまったから今ここにいるわけだけど。おれは、格別に死にたいと願っていたわけじゃなかった。特別に生きていたいとも思っていなかっただけだ」
沖田くんは背中を丸め、地面に視線を落とす。
「でも、出会いたいとは思ってた。誰かと。もっと楽しくて、生きてるっていいものだなって言わせてくれるなにかと。それで、おれはおかしいやつだから、特別な出会いがあるとしたら、きっとどこかおかしいところでなんだろうなって、漠然と考えてた。初めてハルキシに会った時、これがそうなんだろうなと思ったよ。二丁目を根城にしてる、ピーキーなやつ。少数派の性で生きてる、おれとは色々違うけど、でも同じ側にいる人間……」
その時の、沖田くんの気持ちを想像した。
砂漠に水。闇の中の光明。そんなイメージが浮かんでくる。
「その時におれが、ハルキシに抱いた感情は嘘じゃない。でも――」
沖田くんが、息を整えるのが分かった。本題なんだ、と私も表面には出さずに身構える。
「――もっとおれを変える出会いがあった。しかもそれは、学校なんていうありふれた場所で、同級生なんていうありふれた存在だった。そうと気づいた時は、心底驚いた。最初は……悪いけど、本当になんとも思ってなかったからな」
そうか。
「神くんのこと?」
沖田くんが、がくりと肩をこけさせた。それから一瞬だけこちらを向いて、「違う」と半眼で言ってくる。
「え、じゃあ誰?」
「……まあ、聞いてくれ。衿ノ宮、おれが今日読んだ衿ノ宮の小説、あれはおれとミーがモデルだよな?」
ぎし、と背骨がこわばる音が聞こえた気がした。今日のうちに、ちゃんと話しておきたかったことだけど、いざとなると足が震える。
「ごめんなさい、本当にごめん。もう、絶対にあんなことしない」
「それは聞いたよ。でも、おれが考えてることは、衿ノ宮とは少し違う。いや、全然違う」
違う?
「衿ノ宮の書いた話をいくつか読んだよ。いろんな人間が出てきて、いろんなことが起きてたけど、共通してるのは、登場人物がみんな幸せそうなことだった。誰かを好きになって、それが周りに受け入れられることもあればそうでないこともあるけど、少なくとも当事者たちは報われて終わる。そうだろ?」
「う、うん。私は、読むのでもそういう話が好きだから」
「おれは、今は少しは衿ノ宮のことを分かってるつもりだよ。だから、衿ノ宮がなにを思って彼らを描いたのかも、理解できるつもりだ。……あの話の中のおれは、まだ読んでる途中だけど、幸福になる未来しか見えなかった。衿ノ宮が、そうだといいと思ってくれてるってことだろ?」
沖田くんが、私を見つめた。
公園の街灯の光を、小さく閉じ込めて光る瞳が、どこまでも深い。
「思ってる。いつも、そう思ってる」
言葉にしていないことを分かってもらえるというのが、こんなにも嬉しいことだとは思わなかった。それも、私にとって一番大切な人に。私のしたことを考えれば、悪く取られる方が当たり前のはずなのに。
今日、家を出る前にこぼれたのとは全く温度の違う涙が、私の頬に流れた。
「私、今までに書いた小説は、全部消すから。ネットで投稿したものだけじゃなくて、私のパソコンからも」
「え? なんで? 消す必要はないだろう。おれ、喜んでるんだぜ」
「私が、もう、想像の中の沖田くんに逃げたくない。私のお話の中じゃなくて、現実の沖田くんに幸せになってほしい」
「……それと、小説を全部消すことに、つながりってあるのか?」
「分からない。ないと思う。でも、私がそうしたいの」
感謝と罪悪感でできた、線でつながらない点を、無理矢理に手の中で丸めるような、全然論理的じゃない結論。
でも、今の私にはそれしかとるべき行動が思いつかない。
「そうか。おれ、衿ノ宮のことが分かったなんて言って、まだまだだな。でも、早まる必要はないだろ。……おれが今から言うことを、ゆっくり考えてからでも」
え、と私は改めて沖田くんを見た。
「衿ノ宮。君は、おれにとって、ひどく特別になってしまった」
「……特別? 私が?」
「度合いが説明しにくいが、……可能な限り分かりやすく言うと、ハルキシよりもだ」
びくん、と私の背筋が伸びた。
「おれは本当は両性愛者なんじゃないかとか、そうじゃなくて衿ノ宮だけが特別なんだろうかとか、衿ノ宮から告白されたせいで浮かれてるんじゃないかとか、……考えられることは考え尽くした。それでも結局、どんな分かれ道も迂回路も、全部、一つしかない結論にたどり着く」
月明かりが、沖田くんの輪郭を明るくかたどっている。
「おれの性志向や、君の性別や、なにかしらの属性や……そういう前提条件みたいなものは、もう、どれも些末なことだ。今のおれには、たった一つで充分で……」
風の音や虫の声が、一時、全て消えた。
「衿ノ宮」
「は、はい」
「おれはずっと男が好きで、男に体を売ったことがあって、しかもそれは、その時好きだったやつのためだったわけだけど。それでもいいのか?」
いいのか?
……なにが?
「君は、こんなやつの、どこが好きなんだ?」
どこが。それは、とても難しい質問なのだけど。
「……言葉では、うまく言えないけど。沖田くんの、見た目や声や、心の中身まで全部同じ人が現れたとしても、……私は、沖田くんしか好きにならないと思う」
「……分かるよ。その感覚は、おれにも。確かにそうだ。まさか、こんなことが人と分かり合えるとは思わなかった。……衿ノ宮」
「うん?」
「君が好きだ。おれとつき合ってくれ」
そう聞いただけでは意味がつかめず、私は「え?」と聞き返してしまう。
沖田くんが、もう一度、丁寧に、今の告白をゆっくり繰り返してくれた。
その意味を、ようやく理解できた時。
もう夜だというのに、私は、思い切り叫び声をあげてしまった。
沖田くんが笑って、横から私の腕を抱いた。
きっとこの時私は、こみ上げるいくつもの感情に圧倒されて、とても変な顔をしていたんじゃないかと思う。
それを、すぐ真上から覗き込んでいる沖田くんに、全て見られてしまった。
丸い月も虫の音も、私の目や耳からは吹き飛んだままだった。
自分が泣いている、と気づいたのは、沖田くんに頬を指先で拭われた時だった。
沖田くんの瞳も濡れていた。
腕一本だけで抱かれているはずの体が、温かい繭にくるまれているかのように温もっていた。
沖田くんもそうだといいな、と思った。
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