承-後
伊織と秘密を共有してから一週間、二学期の終わりも間近に迫った頃、赤羽はA子達の誘いに改めて応じてカラオケボックスを訪れている。二十人は優に入れる大部屋に、他校の生徒も併せて合コンのような様相を呈していた。
もしも彼らが何を歌っているのか知りたいのであれば、『流行りのJ-POPメドレー』――そんなワードで動画投稿サイトに検索を掛け、一番上に出てくる動画を再生するといい。それをそのままなぞるように歌っていると解釈して相違ない。
かくいう赤羽もその雰囲気を壊さないよう、流行りの曲ばかりを歌っていた。
三分程度の短めな女性歌手のポップを歌い終えた赤羽は、喉を軽く押さえながら男性陣の拍手を聞きつつスマートフォンに手を伸ばす。ふと、A子がこちらを見た。
「お疲れ、名曲だったじゃん」
「ん? うん、ありがとう」
「……で。赤羽は誰狙ってんの?」
A子は声を押さえながら赤羽に耳打ちをしつつ、目で対岸の男子生徒を見た。
発案者であるC男を始め、顔立ちの整った他校の生徒であるF男、G男などが居る。茶色とか金色とかに髪を染め、教科書でもあるのかとばかりに似たように制服を着崩していた。
「あんまりそういうのは考えてないかな。十割付き合いだし」
「嘘ぉ! 向こうはけっこう赤羽狙ってるっぽいよ? H男君とか露骨じゃん」
「目敏いねA子さん。男を見る目は無いのに」
彼女の性格もあるだろうが、高校在学中にフラれた回数四回の彼女に冗談を言うと、彼女は渋い顔でアヒルのように唇を突き出した。不意の変顔に、赤羽は微かに吹き出す。
「しっかし、可愛いのはお得だねぇ」
「A子さんも顔立ちは整っている方じゃない?」
「いやあ、私なんて死ぬ気でお洒落しているのに全然男に見てもらえないし、持って生まれた面が違うとね、やっぱり羨ましいなと思うわけよ。赤羽、そういうのにあんまり頓着なさそうじゃん? ――なのに肌と綺麗だし」
――言葉を失い、彼女の顔を注視してしまった。
赤羽は、自分ほど美容やお洒落に気を遣っている人間もそうそう居ないだろうという自負がある。そう思うくらい人に見えないところで努力を積み重ねてきている訳で、知る切っ掛けが無いから仕方がないとはいえ、そういう部分に目を向けずに羨望や嫉妬を抱かれると、言語化できない負の感情が膿のように芽生える訳だ。
しかし、そこは承認欲求の怪物。人に見られることに命を費やすお化けは、どうすれば誰にどう思われるかを熟知しているので、不機嫌になることはない。己の機嫌を己でとって、ただ少しだけ寂しいと思いつつ笑った。
「あげないよ?」
幼少期はファミレスに来ると、ドリンクバーで様々な配合をおこなったものだ。
乳酸菌飲料とメロンソーダの組み合わせや、コーラと柑橘系の組み合わせは上等だ。反面、甘い清涼飲料水とお茶類を組み合わせるのは最悪だ。嬉々として行うなら生産者及び店の従業員に菓子折りを持って謝罪すべきである。
さて、カラオケボックスからひっそりと抜け出した赤羽は、ドリンクバーでグラスに紅茶を注ぐ。そんな時だった。
「あ、赤羽ちゃん」
ボックスの方から歩いてきたのは他校の男子生徒だった。偶然と言いたげに手を上げているが、グラスを持って席を立ったのだからここに居るのは知っていただろう。
「……F男君だっけ?」
「あ、やっ――やだなあ、H男だよ!」
「そっか、ごめんなさい。人の名前を覚えるのが苦手なの」
赤羽は半分ほどまでグラスに紅茶を入れた後、製氷機にグラスを置いて細かい氷を注ぐ。順番を間違えたなあ、と跳ねる紅茶に後悔していると、彼は炭酸飲料を注ぎながら赤羽に声を掛けてくる。
「しかし赤羽ちゃん、歌上手いんだね!」
「そう? ありがとね、H男君も上手だったよ」
何を歌っていたかも忘れたが、席を立って熱唱している様は覚えている。
鋭い者なら社交辞令とでも分かりそうな文句に、彼は機嫌を良くする。
「まあ、これでも歌には結構自信があるからね。どう? 次はデュエットとか」
「ごめん、人と歌を合わせるのは好きじゃないから、遠慮しておくね」
得意じゃない、と表現しては食い下がられることが明白だったので、赤羽はやや強い言葉で拒絶を示す。H男は笑みを浮かべて何かを言おうとするが、どんなアプローチも無駄だと悟ったようで、「……もったいないなあ、楽しいんだけど」と引き下がった。
言い寄られるのも好きではないので、速やかにボックスに避難しようとグラスに手を置くと、彼は焦りと共に口を開いた。
「それにしても! あー、G男の歌は酷かったよね。アイツ、音痴なのに声だけデカいから学校でジャイアンって呼ばれてるんだぜ」
笑い話で共感を誘おうとしてくるが、如何にほぼ初対面と言える他校の生徒であれ、陰口は聞いていて気分が良いものではない。なるべく角を立てないように窘めた。
「……お友達を陰で笑い者にするのは良くないと思うよ。そんなことしなくたって、H男君の歌が上手なことに変わりは無いんだから」
諭すように告げる。反省してくれれば良かったのだが、前半など聞こえなかったと言わんばかりに、彼は機嫌よく「そうだね!」と声を張り上げた。
気があるとでも思ったのか、彼は前髪を掻き上げながら赤羽を見る。
「しかし、赤羽ちゃんは本当に可愛いよね! え、彼氏とかって居るの?」
「い――」
居るよ、と嘘を吐いて適当に誤魔化してしまいたかったが、A子B子、C男がついうっかり口を滑らせれば要らぬ恨みを買ってしまいそうだった。
「居ないよ」
「へえ、そうなんだ! 赤羽ちゃんすげえ可愛いのに、周りの連中見る目無いよな。なんつーか、周りの化粧でケバい妖怪と一味違うっつーか、透明感があるっつーか」
やはりA子は見る目があった。ここまで露骨だと流石に分かりやすい。赤羽は角を立てないように、しかしどうやって彼を煙に巻くかと笑みを貼り付けて応対した。
「私だって化粧は結構するからね、あんまり女の子を悪く言わないでほしいな」
「いやー、全然別物だからなあ。つーか赤羽ちゃんだったら化粧とかしなくてもいいんじゃね? 男ってそういうの気にしてないっつーか、むしろ自然体の方が好きっつーか」
流石にうんざりしてきた赤羽は、適当な愛想笑いを浮かべながらボックスの方へ歩き出す。H男はグラスを手に持ちながらファミコン世代のRPGのように赤羽の後ろに付く。ふと、彼は赤羽がグラスを持つその手に視線を寄せた。
流行りのブランドで、赤羽がかなり気に入っているマニキュア――ポリッシュを塗った指だ。
彼はそれを見ると、苦笑を浮かべながらため息混じりに口を開く。
「あー、男は爪とかあんまり見ないかなあ、邪魔そうだし」
赤羽は手先を使う作業を頻繁に行うため、ジェルネイルなどのようなものは付けておらず、爪も短く切り揃えている。その上で、あまり華美過ぎない控えめな色をチョイスして、ふとした拍子に目に入るそれに満足をしているのだ。
無論、裏アカウントに自撮りを投稿する際、写真に爪を紛れ込ませることもある。だが、大多数の人間がそれ単体に興味を示すことが無いのは理解しているつもりだ。
理解はしているが、それを楽しんでいる人間に面と向かって自分本位な主張をするのは気に食わず、赤羽は小さなため息を隠さずに吐き捨て、若干の笑みで流し目に彼を見た。
「じゃあ、爪が綺麗な女の子を狙った方がいいね」
その時の彼の表情は、恥ずかしそうだったり、一杯食わされて悔しそうだったりと、あまりに複雑で何とも形容しがたいものであった。
努力とは見せるものではない。振り返って満足するためのものでもない。前に進んでいると安心するためのものでもなく、自分に言い訳するための材料でもない。
努力とは積み重ねた結果に何かを得て、その上澄みを他者に評価させるための土台だ。
それが、赤羽という少女の持論だった。
「うるせーなぁ」
H男の見当違いの指摘や、A子の羨望や嫉妬を思い出し、悪感情を絞るように吐き出す。
カラオケから帰ってきた夜。赤羽はベッドに部屋着で倒れ、仰向けになってスマートフォンを弄っていた。シーリングライトはカラオケボックスのそれに比べて眩しく、目を細める。
赤羽も分かっているつもりだった。努力を誰かが適正に評価してくれると期待するべきではなく、自身と同じ感性を他者に望むべきでもない。それらは全くもって的外れな行為だ。しかし、都合の悪い部分から目を背けた羨望に耳を塞ぎ、趣味嗜好を否定するアドバイスを鼻で笑うくらいの権利は、承認欲求に取り憑かれた怪物にもあるはずだ。
「ばーかばーか」
赤羽は拗ねたように呟く。人に陰口を窘めた分際で随分なダブルスタンダードだが、誰も聞いていないなら許してほしい。
色々な人に可愛いと言われたい、好きだと言われたい、素敵だと言われたい。賞賛の声が赤羽の血肉であり、『いいね!』こそが酸素だった。
他者からの承認に心血を注いできた自負はある。だが、同時に誰かが可愛いと言わなくたって、自分が可愛いと感じるものを楽しむ権利はあるはずだ。そして、誰かにそれを共有したいという衝動だって許されていいはずだ。
人に可愛いと言われたい癖に、自分だけが可愛いと思うような物を許容しようとする矛盾と、それでいいと思う癖に誰かにも好きを共有したい矛盾。赤羽も年頃の少女だった。
赤羽はスマートフォンをベッドに落とし、それから指を伸ばして眺める。
あまり目立たないよう赤羽の肌に近い色を選び、少しだけ薄桃色を加えた、ラメ入りのポリッシュだ。「ふむ」と唸り、赤羽はその可愛さに見惚れる。
しばらくそれを眺めていた赤羽は、ため息と共にカメラを向けた。
「可愛いと思うんだけどなあ」
そんな言葉をこぼしつつ、赤羽はパシャリと綺麗な右手の写真を一枚撮影した。
卑猥な画像で伸ばしてきた裏アカウントというだけあり、フォロワーの需要は性的なものに傾倒している。こういった写真を望んで見る者はH男の言うように少ないだろうということは理解していたが、自己満足だと自分に言い聞かせ、赤羽は撮影したその写真を裏アカウントにアップロードした。『お気に入り』の簡素な五文字と共に。
しばらく投稿の『いいね!』の動きを眺めていた赤羽は、案の定、歴代最低クラスに伸びの少ない『いいね!』が少ないことを観測し、溜息をこぼした。『その指でナニしてたのカナ?』『僕の息子を握ってください!』なんて、普段通りの他愛のないコメントが投稿に付く始末で、赤羽は思わず吹き出すように笑ってしまった。
何を期待していたのか自分自身でさえ言語化できていなかったが、期待するだけ無駄だったと愚行を笑い、赤羽は宿題を済ませようと身を起こす。その時だった。
ぴろん、と唯一通知機能をオンにしていた一件のアカウントから『いいね!』が付いた。
『いおりん』のアカウントだ。伊織である。
次いで、『シェア』の通知が飛んできた。『いいね!』がその人にとってのブックマークのようなものだとすれば、『シェア』は宣伝や布教のようなものだ。自身のフォロワーに対象の投稿を拡散するものであり、フォロワーゼロ人の伊織にとっては無駄な機能だ。
机に足を向けようとしていた姿勢のまま、赤羽は手元のスマートフォンを数秒見詰める。期待を愚行と笑った数秒前を思い出し、気に留めないようそれをベッドへ放り投げようとして――けれども寸前で留まり、嘆息しつつ伊織のアカウントページに飛ぶ。
そして、それと同時に彼女が何かを投稿をした。
赤羽の投稿に対するコメントではなく、彼女自身の投稿だ。フォロワーなんて一人も居ないのに、壁に向かって彼女はこう叫んでいた。
『S社の新作! かわいい!!!』
一瞬、赤羽は動きを止めた。目を丸くしたまま表情を固め、数秒ほど彼女の投稿を見詰める。それから、赤羽は目を細めて口元を緩めた。
赤羽の投稿にはベッドと指しか映っていない。ボトルは見えないのだ。それなのに彼女は色だけで的確にブランドを言い当てて見せたから、心が疼いてしまった。好きなのだろう、こういうものが。自分と一緒で。そう思った時、普段よりずっと足りない『いいね!』を補って余るだけの心の栄養を感じた。
「……オタク君じゃん」
そう呟く赤羽の顔は、無意識にだらしなく緩んでいた。鏡でも見れば恥ずかしくなるくらいには、優しく。
今まで特定の投稿やコメントに反応を示したことは無かったが、ほんの少しも躊躇うことなく、『いいね!』を付け、赤羽は彼女の投稿にコメントを打つ。
『色だけで分かったの!? 凄い!』
そんな文書の後に、百点満点の絵文字を付け加えておいた。
今頃驚いているのだろうか、なんてインフルエンサーぶった笑みを浮かべていると、息つく間もなく彼女から返信が来た。
『私も最近買ったんです!!!!』
一本四千円程度の、お手頃とは少々言い難いハイブランドだ。
アルバイト代で頑張って買ったのだろうか? そう思うと、赤羽はどこか親しみを覚え、親近感と共に話題を展開したくなる。思わず次の返信を打とうと指を動かし――文章を全て書き終えたところで、ふと止まる。仮にも六桁のフォロワーが居るアカウントが、どんな繋がりかも分からない個人アカウントと仲良くしていると周囲から何か言われるかもしれない。「うぐ」と送信ボタンを押したくなる衝動を懸命に堪え、唇を尖らせながらバックスペースで文章を消す。
『いいね!』だけ押した後、ダイレクトメッセージに切り替えようかと考えるも、伊織のアカウントはトラブル防止のためか当該機能を閉鎖しており、メッセージアプリで連絡をしようかとも思ったが、彼女の連絡先を持っていないことに気付く。
「んもー!」
思わず叫び、赤羽はスマートフォンと一緒にベッドに身体を投げる。
枕に顔を埋め、手足をバタバタと動かした。
もっと、色々な話をしたかった。ベースコートは何を使用しているのか、ファッションとどう組み合わせているのか、他にどんなブランドを使っているのか。話したかったし、聞きたかった。こういうお洒落も誰かに可愛いと言われたかったし、誰かのそれも可愛いと言いたかった。そういう道を選んできたのだから自業自得だろうが、性的なもの以外で誰かに褒められ、そうやって承認欲求を満たしたかった。
赤羽は枕に埋めた顔を少し持ち上げ、スマートフォンを見る。
明日、学校で話をしてみよう。赤羽は連絡を諦めてそう決めた。
小学校の遠足以来だった。――こんなに明日が待ち遠しいのは。
昼休み、D子達の誘いを申し訳なく思いつつも「先約が居て」と断った赤羽が弁当箱を持って向かったのは、伊織の机だった。無邪気な表情で映画を見ながらパンを食べていた彼女は、ふと机の前に立った赤羽を見て、口を半開きのまま絶句した。
「お昼、一緒にどう?」
伊織は長い前髪の奥で瞳を真ん丸くして、戸惑いの声を上げる。
「……あぇ? あ、え、えと」
奇妙な組み合わせに周囲が物珍しそうな視線を寄せてくる中、伊織は慌てふためきながらワイヤレスイヤホンを外し、目を泳がせた。
「きっ、昨日は調子に乗ってコメント付けて申し訳ございませんでした……?」
「違う違う! そんなこと言いに来たんじゃないから。普通にお話ししようって」
苦笑しながら赤羽が左手の爪を見せると、塗られているのが昨日とはまた別のブランドのポリッシュだと気付いた伊織は、途端に目を輝かせて「か、可愛い!」と声を弾ませた。
相席の承諾だと判断した赤羽は、伊織の一つ前、学食に行っている友人I子の席を借りて椅子の向きを反転させる。伊織は慌てて机を片付け――ようとして、僅かに動きを強張らせた。何かを思い出したように顔を曇らせた後、爪を隠すようなぎこちない所作で筆記用具などを机の中にしまった。
「ど、どぞ」
「ありがと。いただきます」
赤羽は手を合わせ、姉の手作り弁当に箸を付ける。
対岸でコンビニの菓子パンを食べていた彼女は、目を輝かせて弁当を見ていた。それに気付いた赤羽は、卵焼きを口に入れ、咀嚼して嚥下した後に小首を傾ぐ。
「美味しそうでしょ、お姉ちゃんの手作り」
「お、お姉さん凄いんだね。彩りも綺麗だし凄く美味しそう」
「良かったら、お一つ」
赤羽はそう言うと、箸で卵焼きを一つ持って彼女に差し出す。
弁当を差し出して箸を貸すのではなく、まるでそのまま食べろと言わんばかりの行動だった。「うぇ“」と夏場の蛙のような呻き声を上げた彼女は、途端に目を泳がせて頬を染めた。何をそんなに慌てることがあるのかと怪訝に思う赤羽だったが、少し遅れて悟る。
「あ、こういうの気にする? ごめん、無神経だったね」
「や! ち、違くて。その――畏れ多いから本当にいいのかなって思ったり思わなかったり、私風情が赤羽さんにこんなことしてもらっていいのかなって」
「やめてよ、クラスメイトでしょ」
赤羽は苦笑しつつ、彼女のその言葉が方便の類でないことを表情から察して、そっと箸を口に寄せる。伊織は耳まで赤く染めると、そっとそれを口に含んだ。
箸を抜くと、伊織は真っ赤な顔を俯かせて卵焼きを咀嚼する。
十数秒、彼女は無言で卵を噛んだかと思うと、静かに飲み込んだ。
「どう?」
「す、すごく甘かった」
「甘いのはお嫌いですか?」
「……好きです」
恥ずかしそうに顔を俯かせる伊織に、「良かった」と赤羽は笑う。
そうしてしばらく食事をしていると、段々と伊織の顔の火照りも収まってくる。伊織が二つ目の総菜パンを半分ほど食べ、赤羽の弁当が残り僅かになった頃。赤羽は箸を持っていない方の手をギターでも持つような形にして、伊織に爪を見せる。
「伊織さん、ネイルとか興味あるんだね」
パンに口を付けようとしていた伊織は一瞬動きを止めると、自分を恥じるように俯きつつ頷いた。
「家でパソコン作業をよくするから、ジェルとかはあんまりなんだけど……マニキュアくらいはその、私なんかでもいいかな……とか、思ったりして」
「パソコン触るんだ。キーボード叩いてる時とか、爪が綺麗だと楽しそうだね?」
「う、うん! そうなの!」
情景を想像して語れば、共感を得た伊織は嬉しそうに頷いた。
おどおどと暗く卑屈な表情ばかりしている印象だったからか、無邪気な笑みを見るとどうにも可愛らしく思えてしまう。明るい肯定の声に、赤羽は頬を綻ばせる。
ふと、伊織は我に返ったように恥ずかしそうにすると、視線を逸らして詫びる。
「……ごめんなさい、急にテンション上げたりして」
「逆だよ逆、急に落ち込まないでよ。不安になるから」
思わず苦笑をすると、伊織は申し訳なさそうにするばかりだった。
その時だ。何気なく赤羽が彼女の手先を見ると、違和感を覚えた。
総菜パンの包装を持つカーディガンからはみ出た彼女の指を見て、赤羽は微かに眉を顰める。――そんな赤羽の視線に気付いた伊織は、慌てた様子で右手をカーディガンの内側に隠し、左手だけでパンを持った。しかし、目敏い赤羽は誤魔化せない。
「伊織さん、ポリッシュ塗ってるの?」
赤羽にとって、お洒落とは見せびらかすものでなかったとしても、恥じるものではない。純粋な疑問を彼女に投げかけると、伊織は呻きそうな顔で押し黙る。ほんのりと頬を季節遅れの紅葉色に染めたかと思うと、恥ずかしそうに右手を机に広げた。
見惚れるくらい綺麗な手だった。
その内の、人差し指と中指にだけ昨日赤羽が塗っていたものと同じポリッシュが塗られていた。若干赤みが強い桃色の、ラメ入りのそれだ。「あ!」と思わず嬉しくなって声を上げた赤羽は、彼女の瞳を覗いた。
「S社の新作! 昨日の私と同じのだ」
伊織は恥ずかしさに言葉も紡げない様子で、恐る恐る一度だけ頷いた。
まさか、昨日あんな会話をしたから、塗ってきてくれたのだろうか。そんな可能性に行き着いた赤羽は嬉しくなりながら彼女の手を見詰めた。
それにしても、嫉妬してしまうくらいに綺麗な手と指であった。
しばらく眺めていた赤羽は、どうしても気になる点があって口を開く。
「ところで、二本だけ塗ってるのはそういうお洒落?」
「あっ、いや……それは、その」
伊織は口ごもる。どうしたのだろうかと赤羽が首を傾げて顔を覗けば、彼女は卑屈な表情で薄笑いを浮かべ、弱々しい声で呟いた。
「私なんかがお洒落をするのは、変かなって……途中で……」
赤羽は、思わず口を噤んで彼女の顔を見詰めた。
少し経って、微かな怒りを表情に宿す。
「それは駄目だよ、伊織さん」
彼女を晒し者にして糾弾したい訳ではない。
赤羽は周囲に聞こえない程度に声を潜めて彼女に告げた。
少しだけ強い言葉に彼女はびくりと震える。彼女は弁明に何かを言おうとするが、ふと実直な瞳で見つめてくる赤羽に気付き、不思議そうな表情を浮かべた。
「最近は男性にもお化粧をする人が居るみたいだけど、変だと思う?」
「……思わない」
「胸の大きい人がボーイッシュな恰好したら変かな? 脚の太い人がスカートを履いたら駄目?」
「……どっちも駄目じゃない、と、思う」
伊織は消え入るような声で肩身が狭そうに呟く。その表情は暗い。
赤羽は、そんな伊織の手をそっと掴んで見つめる。とても綺麗な指で、お洒落に卑屈になるのは勿体ないと思った。けれども、たとえどれだけ綺麗でなかったとしても、赤羽の意見は変わらないだろう。「あ、あの?」と困惑した調子の伊織を見る。
「最優先はTPOだよ。でも、次点は似合うか否かじゃなくて、自分がどうしたいか。似合うファッションで己を着飾りたいならそうするべきだし、似合わなくても楽しみたいなら好きなもので自分を彩ればいいと思う。そこに、『私なんか』って言葉は介入するべきじゃないと、そう思うんだ」
赤羽が揺るぎない視線で見詰めれば、伊織は動揺に瞳を揺らす。
言葉は奥まで響いた。どう変化するかは彼女次第だ。
「自分に似合わないと思って止めたならそれでいいと思うの。でも、そうでないなら諦めるのは勿体ない。綺麗だとか綺麗じゃないなんて些細な問題以前に、人の持つ自分を着飾れる権利を、自分の手で捨てちゃうのが勿体ないって話」
伊織はそんな言葉を聞きながら、弱い表情で己の爪を見詰めた。
中途半端に塗られたマニキュア。それを見詰める表情に若干の後悔が浮かんで、その後悔が、塗ってきたことによるものなのか、半端に着飾ったことへのものなのか、赤羽は判断できなかったが、それを知るためにそっと問いかけた。
「同じの持ってきてるけど、塗ろうか?」
伊織は微かな驚きを瞳に宿した後、しばらく無言で逡巡する。
――その時だった。
「あれ? 珍しい組み合わせじゃん」
J男だ。クラスでも特に声の大きい幅を利かせた人物であり、着崩した制服や染めた頭髪が不良然とした印象を与えるが、実際に素行が良好とは言いづらい生徒である。
彼は赤羽と伊織という正反対のコンビを見て声を上げたかと思うと、こちらの空気など意に介した様子もなく、隣の席の机に腰を置いた。彼は声が大きいから、この珍しい組み合わせを見物するように周囲の目も少し集まり始める。途端、伊織が委縮した。
「実は友達なんだ。いいでしょ」
「へー」と気の抜けた返事をした後、J男は何かに気付いたように手を打つ。
「あ、ぼっちの伊織さんに付き合ってあげてる感じ? やっさしー!」
眉間に僅かな力が入るのを赤羽は知覚した。こめかみに青筋が浮いた気がする。
――赤羽は、そういう接し方をすることで他者から好印象を貰えることは理解しているし、そういう行動を否定する気も無かった。だが、それは間違っても当事者が居る場所で聞こえるように言うことではなく、少しは伊織の気持ちも考えるべきだと口を開こうとするが、それに先んじて伊織が弱々しく笑った。
「そ……そうなの。赤羽さん優しいから」
臆病な彼女が彼に口を開くという勇気ある行動を取ったことから、その言葉が赤羽を宥めるためのものだと理解して、赤羽は矛を収め、溜飲を下げる。
そんな伊織の言葉を適当に聞き流したJ男は、ふと赤羽が触れる伊織の手に気付く。赤羽は面倒なことになりそうだと反射的に手で手を隠そうとしたが、彼は目敏かった。
「あれ、それマニキュア? そういうの塗るんだ、伊織さん」
大きな声で意外そうに言ったJ男は、軽い調子で笑う。そんな大声で言うものだから教室で昼食を取っていた面々は伊織へと視線を寄越し、途端、伊織の身体が怯えるように微かに強張り、次いで恥ずかしそうに頬を染めて目を泳がせる「あ、いや」と弁明の声を上げようとした。
――これは、駄目だ。嫌な感覚を覚え、経験則が警鐘を鳴らした赤羽はどうにか話題を逸らそうと口を開く。しかし、赤羽から言葉が発されるよりも早く、J男が笑う。
「あんま似合わないね!」
伊織の瞳孔が開く。身が強張り、唇が微かに震えた。
彼女は爪を隠すように手を折り畳んで、顔を赤くさせて俯く。
そんなあまりにも無神経な一言に、流石に周囲が伊織への同情やJ男への糾弾めいた視線を寄越す中、彼はそんなことにも気づかずに「あ、俺なんかマズいこと言った?」とヘラヘラ笑い始める。
赤羽は酷い頭痛を感じていた。無神経な彼と、こうなることを想定せずに談笑に耽った愚かな自分に。もっと早く彼を制止する言葉を掛けていれば伊織は傷つかなかったのに、誰とでも上手くやろうとする悪癖が言葉を選ぼうとして、それが遅れた。
そんな自分に嫌気が差して、けれども自己嫌悪に陥っている暇は無いはずだと己を叱責する。何よりも優先すべきは、彼にその口を開かせないことだった。
赤羽は、怒っていた。
「うるさい」
一年間、人によっては一年生から同じクラスで二年間だろうか。誰とでも上手くコミュニケーションを取って円滑に接してきた、温厚で、冷静で、顔立ちの整った人気者の『赤羽さん』の、誰も聞いたことが無いような酷く冷めた声だった。
声量は抑えて、語調を荒らげることもない。
ただ、背中と服の隙間に氷を入れるような、そんな声であった。
俯きがちだった伊織は、目を丸くして赤羽を見る。濡れた目が揺れた。
赤羽の初めて聞く声色にクラスメイト達は驚き、中でもJ男は委縮するように身を強張らせる。掠れた呼吸が彼の喉を通過し、かひゅ、と音がこぼれた。
「言葉は選ぼうよ。相手が居て『会話』なんだから」
彼は伊織に酷いことを言ったが、それを理由に傷つけては咎める資格さえ失いかねない。
赤羽が柔らかく笑うと、途端に空気が弛緩した。油を差した機械仕掛けのように、少しずつ教室が時間を思い出す中、彼は引き攣った笑みを浮かべながら弁明の声を絞り出す。
「……お、俺、空気読むの苦手で」
「じゃあ、今度一緒に勉強しようよ。人との話し方とか」
赤羽が微笑むと、彼は複雑そうに顔を歪めた。
それからしばらくして、伊織に頭を下げ、恥じるように声を絞った。
「ご……ごめん」
「あ、いやっ……その、全然」
伊織は急な謝罪に戸惑いながら、気にしていない旨を伝えた。
少しくらい苦言を呈したり、赤羽を盾に咎めたりするくらいの行為は誰も咎めないだろうが、伊織は決して糾弾することなく謝罪を受け入れた。それは彼女が優しいからなのか、それとも厳しくなれないだけなのかは分からなかったが、一先ず胸を撫でおろす。
少し離れた位置で事態を見守っていたD子とE子が、落ち込む彼に声を掛ける。
「ちなみに今のはマジで無いからね」
「仲良い相手に聞かれて答えるならともかく、首突っ込んでそれは最悪」
それなりに親しい間柄であるが故の仕打ちだろうが、次々に投げ込まれる石に、赤羽は流石に制止の声を上げる。「追い打ちしない! 反省してるんだから」と二人を咎めると、彼女たちは指でバツ印を作り、揃って口を塞いだ。
J男は肩身が狭そうにしながらいそいそと席を離れていく。
さて、伊織にどう詫びようか。赤羽は思案する。或いは傲慢とも解釈できるかもしれないが、赤羽が安易に話しかけなければ彼女にこのような火の粉が飛ぶことは無かったはずだ。何より、酷く傷つけてしまう前に庇うべきだった。
どのような顔を彼女に向ければいいのかも分からずに悩む赤羽。
その時、伊織の声が赤羽の鼓膜を撫でる。
「あ、あの……」
見ると、彼女は不安そうな表情を浮かべていた。
やはり傷つけてしまったか。先ずは率直に謝ろうと決めた赤羽だったが、それよりも先に彼女が口を開いた。
「……さっきの話って、まだ生きてるの?」
開いた口をそのまま、赤羽は目を見張る。
彼女の浮かべた不安の中に、滲むような決意があった。
J男の言葉で彼女がお洒落に苦手意識を持ってもおかしくなかった。だからこそ彼女のこの言葉は予想外で、そして嬉しかった。
赤羽は見開いていた目を細め、微かに笑う。少しだけ、おどけた調子で。
「もちろん」
校舎は上から見ると『H』の形をしている。東に授業を受ける教室棟、西に特別教室棟。
それらの中央を渡り廊下が繋ぐことで校舎は完成する。
構造の都合上、昼休みなどの長時間の休憩にわざわざ渡り廊下を超えて特別教室棟を訪れる生徒は多くない。そんな特別教室棟の四階は、職員すら殆ど通行することは無かった。
かつては教職員が喫煙室として利用していた四階東端の空き教室を訪れた赤羽は、窓際最後尾の席を伊織と挟む様に座っていた。
窓を開けて換気し、彼女の指にベースコートを塗る。
校庭の向こうの車道から車が行き交う音を、渡り廊下の奥の教室棟から淡い喧騒を聞く。
近くに、互いの息遣いだけが聞こえた。
木造机に置かれた手。その指を拾うように摘んだ赤羽は、優しい手つきで彼女の爪に着彩していく。対面に静かに座る伊織の綺麗な頬は、水彩絵の具のように朱を滲ませていた。
触れ合う指先が鼓動を感じ取るような時間、赤羽は苦でもない沈黙を気まぐれに破る。
「自分から提案しといてアレだけど、伊織さんは断るかもと思ってた」
伊織の爪を見詰めながら呟く赤羽。伊織は上目に赤羽を盗み見た。
「……迷ってたの。赤羽さんの言葉に背中を押してもらっても、やっぱり……私なんかって思って、可愛くなろうとするのが怖かった」
「勇気を出したんだね。カッコいいよ」
「赤羽さんが庇ってくれたから」
筆を動かす手を止め、赤羽も上目遣いに彼女を見た。
瞳を隠すような彼女の黒髪の幕を隔てて視線が交わる。
「……それだけ?」
伊織は頷く。
「赤羽さんは一年生の頃に憧れた時のまま、困っていたら助けてくれる優しい人だった。自分が正しいと思うことに自信を持って生きられる人で……それなのに、私は何も変わらないままだったって、今更気付いちゃった。だから、変わろうと思ったの」
一つ一つ、言の葉を紡いで想いを織る彼女に、赤羽は静かに耳を傾けた。
己を恥じるように、或いは状況に心が揺れるように彼女の顔は赤く染まっている。
「それなら今日、ちゃんと一歩進めたね」
しっかりと見届けた。保証する。
認めるように赤羽が囁けば、冬の風に乗るその言葉を聞いた伊織は頬の紅潮をいっそう強め、緩む頬を抑えられぬまま嬉しそうに頷いた。「うん」と。
ベースコートを塗り終えた赤羽は、次にポリッシュを取り出して塗り始める。
数分ほど心地よい無言を過ごす頃には、それも塗り終えていた。
ポリッシュの表面が固まった頃を見計らい、赤羽はトップコートに手を伸ばす。
「私さ、友達と可愛いものについて語り合うのが好きなんだ」
不意に呟くと、彼女の綺麗な瞳が赤羽を見た。
「でも、あんまり言わないようにしている言葉があるの。『綺麗』って言葉」
「……そうなの?」
意外そうな問いかけに、赤羽は頷く。
「持論だからあまり真面目に受け取らないで欲しいんだけど、可愛いは主観って感じがするけど、綺麗は客観的な雰囲気があるでしょ? それでさ、一度でも人のお洒落を『綺麗』かそうでないかで評価してしまうと、そこから先の物差し全てに『綺麗』の目盛りが刻まれるような気がするんだ」
それが悪だとは断じて思わないが、そうでないお洒落も全力で肯定したいのだ。
「綺麗でなくたっていいし、似合わなくたっていい。好きなように自分を着飾って生きていい。その上で、見たものが自分の琴線に触れたなら『可愛い』し、そうでないなら『私は可愛いと感じない』だけで、その人の嗜好を否定しなくて済むじゃん。まあ、私は綺麗って言われたいし、言葉にするのを避けてるってだけなんだけど」
あくまでもその程度。意識しなければ口にしてしまうし、きっと気付かない内に言うこともあるだろう。それでも、綺麗であるか否かだけで他人の可愛くなろうとする努力を計りたくないという我が儘なのだ。
そして、それは前置きだった。
赤羽はトップコートを塗る手を止め、机の上に伸ばされた彼女の手を見詰める。
柔らかく傷も無く、爪は丁寧に切り揃えられてシミも無い。見惚れるくらいに形が整っており、気を抜いたら目を奪われそうな魔性の魅力があった。
「今の話、全部無視するね」
赤羽は彼女の手をそっと持ち上げつつ、敗北感に笑いながら告げた。
「嫉妬するくらい綺麗だよ」
途端、伊織の顔が爆発した。嘘だ。急激に赤く染まった。茹でた海老のようだった。
何が、とは具体的に言わなくても全てが伝わったようで、赤羽は自身の敗北宣言が少しでも彼女の心を乱せたのなら僥倖だと薄笑いを浮かべる。けれども動揺のせいで手が動き塗りづらく、「こら」とマニキュアが不格好にならないよう彼女を叱責した。
彼女は少し落ち着いて大人しくなったかと思うと、ちらりと赤羽を見る。
トップコートをさっさと塗り終えてしまおうと筆を動かそうとする赤羽に、伊織は淡い緊張を含んだ声を絞り出した。前髪の奥の瞳が赤羽を射抜く。
「でも、あ……赤羽さんの方が、綺麗だよ」
気弱な彼女から来るとはまるで想像もしていなかった口説き文句に、赤羽は絶句する。
それから、やや遅れて彼女の言葉の意味を砕いて嚥下した赤羽は、思わず吹き出して、手で口元を押さえる。「あー」と何か軽口を返そうかとも思った赤羽だったが、言葉を選ぶ内に、その綺麗な顔が少しずつ火照りを帯びていく。
賛辞には慣れていた。口説き文句は親の説教よりも聞いてきた。
けれども、多少なり気を許して友愛を抱いている身近な相手に、面と向かって力強く断言されると、恥ずかしさも込み上げてくるというもの。
赤羽は、口元を覆っていた手を僅かに持ち上げてそのまま顔を隠し、意外そうな顔をする伊織に照れ笑いを見せた。
「……なんか、照れちゃうね」
彼女の爪を塗り終え、五限目の始まりが迫る中、二人は連絡先を交換した。
十二月中旬。空き教室に二足早い春を感じた。
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