裏垢女子がクラスメイトに身バレする百合
4kaえんぴつ
起
シャッター音が鳴る。発信源は少女が手に持つスマートフォンだった。
純白のベッドでクッションに腰を埋めながら、少女はやや前方斜め前に置いたスマートフォンの外側カメラで自分自身を撮影した。この二〇二〇年現在において若者の間に流行している『自撮り』という、自分自身を被写体に写真を撮る行為だ。
ただし、広く認知されるそれとやや状況が異なるのは、少女の風貌だ。
少しカールを掛けた艶やかな細い絹髪と端正な容姿、手入れの行き届いた十代後半の肉体は、まさしく自撮りを行うべき最近の若者然としているのだが、しかし、服装が通常のそれから少々逸脱していた。
グレーの厚手のパーカーは前を完全に開いており、パーカーの中には細部の凝られた黒い下着だけが着用されている。下着の間には柔らかそうな胸、下着以外の部分は眩いほどの肌が露出していた。下半身には丈の短い黒のショートパンツを一枚だけ着用しており、傷の無い脚がすらりと伸びていた。見たものの情欲を煽る目的で撮影されていることは火を見るよりも明らかだった。
少女――赤羽は何枚か似たような姿勢で写真を撮影した後、すぐにそのデータを確かめる。フォルダに入れられている自身の半裸姿を見た後、赤羽は堪え切れない様子で頬を緩めた。「完璧……!」と満足そうに何度か頷いた後、急いで写真加工アプリを起動する。
「おっす、アイス買ってあるよー……なにその恰好」
赤羽が写真加工に勤しんでいると、ノックも無しに何者かが入室してくる。
赤羽に瓜二つの五歳年上の女性。姉であった。彼女は風呂上がりの湯気を立たせた身体で、髪も乾かさずにタオルだけを乱雑に頭に乗せてアイスの棒を口に挟んでいた。彼女は下着にパーカー姿の実妹を見て呆れた様子だ。
「あ、ありがと、後で食べる! 今忙しいから」
「……もしかしてまだ裏垢やってたんだ? 暇だねえ」
「『いいね!』は美少女の酸素だからね。仕方がないね」
呆れたようにこぼす姉の言葉に、赤羽は恥じることもせず写真加工に勤しむ。
裏垢――裏のアカウントの略称だ。パソコンやスマートフォンの普及により世界各地に浸透したインターネット。人々はどれだけ距離を離そうとも通信で繋がることができるようになった。そうなると必然、小学生が皆に注目されたくて奇抜な行動を取るように、誰もが潜在的に抱えている承認欲求を満たすべくそれらを活用し始める者も現れた。
人々が気楽に話し合えるソーシャルネットワーキングサービス――通称SNSにおいて、健全な趣味嗜好での繋がりや、現実における顔見知りとの付き合いなどで交流するのが表のアカウントだとした場合、現実での自分とネットワーク上での自分の繋がりを特定の誰かに隠した状態で作成するアカウントを、裏アカウントと呼んだ。
赤羽の場合、煽情的な肉体をネット上にアップロードすることで、そういった所謂『エロコンテンツ』に興味がある大勢の関心を浴び、承認欲求を満たすために裏垢を運用していた。
赤羽の使っているSNSには、誰かの投稿に対して、それを閲覧したユーザーが好みであった場合に『いいね!』と呼ばれる意思表示を実行する機能がある。後から見返す際に使ったり、同志への布教に活用したり、用途は千差万別だが、共通しているのは概ね『好き』の簡易メッセージであるということ。
「てーい、投稿!」
赤羽は顔にモザイクを掛け、肌をより綺麗に見せる加工を少し施した後、それを裏アカウントでSNSにアップロードした。
最初の方は少し緊張していたのだが、二年も続けば慣れたものだった。
しばらく眺めていると、一瞬にして『いいね!』が付き始める。
もはや一桁である時点を視認することさえ難しく、瞬く間に千件にも及ぶそれが届いた。大勢の人間が自分という一人の存在を肯定し、価値ある存在と認めている事実に、赤羽は悶えるようにベッドに転がった。
ふと興味が湧いたのか、姉が赤羽の普段使いしている椅子に腰を置き、スマートフォンの画面を覗き込む。
「うわっ、凄いね。フォロワーの数」
「二年もやってるからね! みんな若い女の子の裸体に興味津々だよ」
SNSとは休日の渋谷駅前のようなものだ。大勢が各々の意思で活動し、何かのメッセージを届ける。そのメッセージが琴線に触れた時、同じ人の他のメッセージを見られるようにするというのが『フォロー・フォロワー』の機能だ。
姉はしばらく『いいね!』が大量に付いていく様子を眺めた後、ふとその視線を投稿された実妹の半裸の写真に落として複雑そうな顔をした。
「……こんな大量の人間が身内をオカズにしてる事実がキツイんだけど」
「そう言うと生々しいけど、言い換えれば可愛い認定だからね? 気にしちゃ負けだよ」
「可愛いったって、顔出ししてないんだからみんな分からないでしょ」
当たり前だ。顔を出せばその瞬間に学校の人間にバレるリスクが出てくる。これだけ人気になるとストーカーが出てくる可能性だってあるのだ。しかし、人に見られて困る容姿はしていないし、自分磨きも怠ったことがない赤羽は不遜な笑みを返す。
「そんなこと言うなら顔も出そうか」
「やめろやめろ、絶対にロクなことにならん」
もちろん、家族に迷惑を掛けるのは赤羽も本意ではない。
「冗談だよ」と笑った後、それから次々に『いいね!』が増えていく画面を見詰める。
息つく間もなく数字が増えていっている様に、どんどんと赤羽の頬が緩んでいき、一万が近づくころには、微かに頬が上気し始める。身体の奥が熱くなるような感覚の中、赤羽は思わずうっとりとした様子で呟いた。
「あー、酸素」
そんな様子を、実姉がドン引きしながら見つめていた。
翌日の放課後。授業を終えた赤羽は特別教室棟にある一室を訪れていた。
委員会、或いはクラス係への原則所属が義務付けられているこの学校で、くじ引きに負けた赤羽は美化委員会に所属していた。今日は来週に控えた年末大掃除の事前説明会ということで、美化委員会に招集が掛かったのだ。
黒板には『美化委員会集会・席は自由に』と雑な字で書いてある。担当教員の姿は無い。
「赤羽! こっち座りなよ!」
「あ、うん。ありがと」
説明会が実施される教室に顔を覗かせるや否や、隣のクラスの友人A子、およびB子が赤羽に手を振った。座席に指定は無いようで、各々が好きな場所に座っている。赤羽は促されるまま、彼女たちの真後ろの空いている席へ歩を進める。
ふと向かおうとして立ち止まった赤羽は、立ち止まる。
それから、背後で困ったように教室を見回している女子生徒を振り返った。同じクラスの伊織だ。背丈は赤羽よりやや小柄で、教室の隅で一人の時間を過ごすことが多い印象を受ける、物静かな女子生徒だ。前髪は目もとを隠すくらい長く、ふとした拍子に髪の隙間から覗く黒瞳は、とても澄んでいて可愛らしい。
原則として、一つの委員会に一クラスから二名ずつ生徒を選出する。つまるところ彼女が、赤羽のクラスにおけるもう一人の美化委員会だ。
「伊織さんも行こうよ」
「あ、う、うん!」
相方を置いてそそくさと隣クラスの友人へ駆け寄るのも見栄が悪い。
赤羽が伊織の袖を掴んで歩き出すと、伊織は慌てながら付いてきた。
そうしてA子達の背後の席にそれぞれ着座すると、二つ前の席に座る、別クラスの制服を着崩した茶髪の男子生徒がこちらを振り返ってくる。知人のC男だ。
「赤羽も美化委員会だったのか」
「……今更? 何度か集会やってるのに」
「サボってたからわかんねーや」
C男は背もたれに大きく背中を預けながら、足を組んでヘラヘラと笑った。A子やB子も「同じく」と頬杖を突きながら笑っている。来年には三年生になるというのに、この態度を続けるようでは進学も就職も困りそうなものだが。そう思いつつ、『皆と仲の良い赤羽』というキャラクターを壊さないよう、作り笑いを浮かべておいた。
彼女たちはクラスこそ違うが、よく一緒に行動をしている、俗に『カースト上位』と区分される面々であった。赤羽はその端正な容姿と優れた人付き合いの技術で、彼らの輪の中に入っているのだ。
しかし、裏垢のことを知る者はこの場に誰一人として居ない。
皆の人気者である『赤羽』が表の顔だとすれば、ネットの皆の人気者『ばねちゃん』は裏の顔なのである。
「そういや赤羽、今日の放課後にカラオケ行くけどどうするよ?」
C男の問いに、赤羽は虚空を一瞥しつつ唸る。
「カラオケ? あー……」
今日は、以前から気になっていた下着がようやく配送される日だ。いつものように裏垢へ自撮りを投稿するつもりだったが、どうしようか。
悩んでいると、A子とB子が耳打ちする。
「来なよ、他校のイケメンも来るってさ」
「恋人居ないんでしょ? チャンスだよ~」
赤羽という承認欲求の怪物は一人の人間に満たせるものではなく、故に赤羽は誰かに恋愛感情を抱いたことも、誰かと恋仲になったこともない。今までもこれからもそういうこととは無縁に生きる覚悟は決めているのだが、そんな本人意思に反して、やはり顔立ちの優れた人物が独り身だと、お節介を焼く者や近寄ってくる者も居るのだ。
面倒だ。でも、それは言えなかった。
「じゃあ、行こうかな」
伝えると、前方三名は「いえーい!」と騒ぎ立てる。
元気なものだと頬杖を突きながらスマートフォンを取り出し、昨晩の投稿の伸び具合を眺めようとする。ふと、隣の席に座した伊織がこちらを見ていることに気付いた赤羽は、彼女に視線を返し、「……伊織さんも来る?」と尋ねた。
激しく首を横に振るものだから、赤羽は笑ってしまった。
それから数分後、教員がやや遅れてやってくる。若い女性教員だ。
彼女は遅れたことについて詫びた後、速やかに大掃除についての説明を始めた。
「……という訳で、学期末の大掃除に備えて皆に清掃用具の状況を確認してもらったの。これを基に新しい備品を手配するから、到着次第美化委員会の皆さんには不足や損壊が無いか、再度確認してもらうことになります。――事前説明はそれくらいかな」
約五分程度、教員は聞き取りやすいペースで、且つ速やかに説明を終えた。
配属されて間もない新人だと思っていたが、声は聞き取りやすく話は簡潔で、赤羽にとっては非常に好印象であった。
ふと、教員は思い出したように手元の資料を見た。
「あ、ごめんなさい。まだあった――本日3-Aの美化委員会の生徒が欠席してるんだけど、頼んでおいた備品状況の確認シートが届いていないから、誰か代わりにチェックしてきてくれるかしら」
言われたとおりに見れば、いつも元気な大柄の男子生徒が見えなかった。
教員が周囲を見回すも、手を挙げる生徒は居ない。殆どが消去法やじゃんけんで負けて美化委員会に来たような面々であり、率先して手を上げる者など居るはずもなかった。
仕方が無いと嘆息した教員は、A子達の方を見る。
「それじゃあ、二年生のA子さんとC男君にお願いします」
「はぁ!?」
「えー!?」
間髪入れずに二人は不平不満を声に出す。
「な、何で俺達なんすか? 嫌っすよ! 予定もあるし」
「予定次第では無理強いできないけど……普段の集会でもこういったお願いを皆にしているの。今年度に入ってから二人は一度も集会に顔を出していないけど、その二人の分をいつも誰かが代わってくれていました。今日はお二人にお願いするのが道理じゃない?」
相手が若い女性教員だからか、C男は威圧気味に文句を垂れるが、教員は毅然と対応する。
少なくとも赤羽には、教員の主張が正しく聞こえた。同じように感じたか、ハッキリと切り捨てられた二人は苦々しい顔で顔を見合わせる。
カラオケの予定を大声で話し合っていた手前、重大な予定だなどと嘘を吐くこともできず、「……んだよそれ」と声を絞り出す。どうやら素直に引き受けるという選択肢は無いようで、反論の糸口を探すようにキョロキョロと辺りを見回す。
まさか、と赤羽が思うのも束の間。
彼は気弱そうな伊織に目を向けた。
「あ! なあ、悪い。今日外せない予定入っちゃってるからさ、代わってくれねえかな?」
「ごめーん! 私も予定あるから代わってほしいんだけど、いいよね?」
C男の声を聞いたA子は、伊織を『押し付けていい相手』と認識したのだろう。言葉に乗っかるように揃って座席を振り返り、後方の伊織を見た。その様を見た教員は「押し付けない!」と厳しい声を上げるが、C男達は譲らなかった。
伊織は「あ、あの」と震えた声を上げるが、快諾しない彼女に、二人は威圧するような苛立った表情を浮かべる。そんな二人の顔が角度的に見えない教員は、呆れたような顔をするばかりであった。しばらく困り顔だった伊織は、恐る恐ると手を上げた。
「わ、私がやります……」
伊織がそう伝えると、教員は複雑そうな表情を浮かべた。
そんな光景を横から眺めていた赤羽は、彼女に聞こえない程度の嘆息をこぼす。
カーストという言葉は飾りではない。その輪の中で一定期間過ごした人間は、本能的に強者と弱者を区別し、そんな彼女の感性曰く、二人は彼女にとっては逆らうべき相手ではなかったのだろう。
しかし、押し付ける側にも、正直に言えない側にも赤羽は呆れるばかりであった。
「マジ!? サンキュー! めっちゃ助かるわ!」
C男は半ば脅迫めいた依頼など忘れたように、とぼけた表情で感謝の意を告げる。
それから、彼はしたり顔で教員を振り返った。三人の関係を知らない教員はC男達が一方的に押し付けたのか、それとも伊織が受け入れたのか、判断し難そうな表情を浮かべたまま、「本当にいいの?」と伊織に念を押した。
ここで首を横に振れば、彼女は教師として伊織を助けるだろう。
隣で赤羽が見守るのも空しく、伊織は「はい」と消え入る声で頷いた。
赤羽は静かに額に手を当てた。しかし、それに対して苦言を呈する立場でも関係でもない。赤羽は何を言うこともせず、ただ勇気を出せずに引き受けたからには、相応に努力をするべきだろうと彼女を心の内で激励する。
ふと盗み見た彼女の表情は、とても弱々しいものだった。
「――……はぁ」
そんな顔を見た赤羽は、再び呆れるような嘆息をこぼした。しかし、今度のそれは彼女に対してのものではなく、厄介なことを引き受けようとしている愚かな自分へのものだ。善人やお人好しを自称するつもりは無いが、酔狂な性格だと自負をする。
「それじゃあ伊織さん、後でチェックシートを渡すから……」
教員が申し訳なさそうにそう切り出すのも束の間、赤羽は手を挙げてそれを遮った。
「――先生、私もやります」
その教室に居た全員の視線が赤羽へと吸い込まれた。
その中でも取り分けて驚いているのは、隣の席の伊織だった。彼女の長い前髪の奥の瞳が、驚きに見開かれている。赤羽はその髪越しに彼女の双眸を見詰めて微笑む。
「一人じゃ大変でしょ、手伝うよ。伊織さん」
こんな厄介ごとを引き受けるのだから、せめてもの対価にいい人ぶらせてもらおう。そんな打算は成功したようで、伊織は微かに頬を赤くしながら露骨に嬉しそうに口を緩める。
そんなやり取りの傍ら、C男が眉を顰めて振り返った。
「お、おいおい、放課後はどうするんだよ!」
最初から他校のイケメンなどに興味は無いが、付き合いで承諾しただけだった。
「リスケしてくれるならそれがいいけど、無理ならキャンセルしてよ。……悪いとは思わないよ? 本来は二人がするべき仕事なんだから」
自業自得という言葉がある。この状況はまさにそれだ。
受けるべき報いを受けなかった二人を咎めるような声で告げると、同調するように教室中の視線が一斉に二人へと向いた。向けられた視線が肯定的なものでないことに気付いた二人は、幾らか肩身が狭そうに前へ向いた。
一部からは讃えるような視線が赤羽へと向けられ、一年生女子二人が『カッコ良くない?』などと囁き合うのが聞こえた。赤羽がパチンとウインクを返すと、黄色い声が教室後方で密かに上がった。そんな周囲の目があまりにも気持ちよくて、赤羽はひっそりと頬を緩めた。
「――よいしょ、と。こんなもんかな?」
3-Aの教室。後方の掃除用具入れの前で赤羽は呟く。
箒、塵取り、雑巾に掃除用洗剤など、3-Aに配布されている備品の数と使用状況をチェックシートに纏めた赤羽は、ペンを指先で回しながら立ちあがる。備品を棚に片付けた伊織は、赤羽の手元にあるシートをダブルチェックして頷いた。
「うん、大丈夫だと思う。……ありがとう赤羽さん、その、手伝ってくれて」
伊織はブレザーから出た指先を胸元で繋ぎ合わせ、長い前髪越しに赤羽を盗み見た。『別にいいよ』といつものように皆に優しい赤羽さんの顔で彼女へ告げようとするも、留まる。しばらく悩んだ後、赤羽はお節介を自覚しながらも苦言を呈した。
「……余計なお世話かもしれないけど、本当に嫌なことはちゃんと断った方がいいよ、伊織さん。ああいう手合いの場合は特にね」
二人だけの静かな教室で、赤羽の声は沁みるように響いた。
承認欲求の権化は他者からの賛辞を主食とする。故に誰とでも円滑な関係を築けるように立ち振る舞うことを得意とし、赤羽は身の回りに敵と呼ぶべき敵を持たない。だが、それは決して誰かにとって都合の良い存在になることを許容するものではないのだ。
赤羽に手厳しい指摘を食らった伊織は、しょんぼりと肩を落として頷いた。
「う、うん……」
伊織は大人しく内向的な女子生徒だが、悪い人物ではない。己に与えられた仕事は責任を持って果たし、できないことは投げ出さずに努力を積み重ねられる人間だ。だからこそ、C男達のような身勝手な生き様に振り回されてほしくなかった。
少し空気を悪くしてしまっただろうか。気を取り直すように、赤羽はシートを掲げる。
「まあいいや、取り敢えず先生にチェックシートを提出してくるね」
「あ、わ、私が行くよ! その、赤羽さんには手伝ってもらっちゃったから」
「そう? それじゃあお言葉に甘えようかな」
この期に及んで微々たる作業を惜しむような自堕落な人間でもなし、階下の職員室に足を運ぶくらいは苦ではなかったが、彼女のそういった責任感は嫌いではなかったので、赤羽も食い下がることはしなかった。
伊織は赤羽からチェックシートを受け取ると、「行ってくるね」と、足早に教室を出ていった。慌ただしく去っていく背中を、赤羽は静かに見送る。
「……ふぅ」
そんな面倒な作業でもなかったが、作業の一区切りに小さなため息が出た。
伊織が職員室から戻ってきたら終わりだ。帰ったら何をしようか。
そんなことを考えていると、ふと、彼女が先ほどまでシートの記入に使用していた席に、スマートフォンと筆記用具が残されていることに気が付く。不用心だと思いつつも、どのみち彼女が戻ってくるまでここを離れるつもりは無かったため、些細な問題だとそれらを思考の外に追いやった。
赤羽は自身のスマートフォンを取り出すと、SNSの裏アカウントを開く。
昨夜に投稿した少々煽情的な自撮り画像の『いいね!』が一万件を超えており、その美しい数字を見た赤羽は思わず「ふへ」とだらしない笑みをこぼしてしまった。溢れるような肯定意見に承認欲求が奥底から満たされ、快楽に涎がこぼれそうになる。「いかんいかん」と唇を手の甲で拭った赤羽は、誰にも見られていないことを確認するよう周囲を見回した。
無論、誰かが見ているということはない。
――誰も見ていない。その事実を再認識した赤羽は、微かな緊張を表情に宿す。
それから、右手をスカートの裾に伸ばしてプリーツ部分を摘む。その状態で何度か扉の方を見て、廊下から足音が聞こえないことを確認した後、赤羽は一息にスカートを捲った。
夕日が差し込む放課後の教室、赤羽は下着一枚の下半身を露出する。
途端、初冬の空気が肌を撫でた。
背徳的な行為に脳が痺れるような感覚を覚えつつ、この程度の快楽で満足できない赤羽は、そっとスマートフォンのカメラを自身の下半身へと向ける。俯瞰の構図で下着、脚、靴下と上履きと、それから教室の床。学校や個人を特定する物が画角に収まっていないことを念入りに確認した後、急いで何枚かシャッターを切る。
それから、赤羽は急いでスカートを下ろした。
「…………」
ちらりと教室の入り口の方を見るが、誰も居ない。
淡い羞恥に身体中が熱くなり、ドクドクと心臓が暴れるように跳ねていた。脳が酸素を求めるから、何度か強い呼吸を繰り返した後、「はー」と静かに胸を撫でおろす。いけないものにハマってしまいそうだったが、そこまでリスクを追い求めて生きる気は無い。
赤羽は少し恥ずかしくなりながら、撮影した写真の一覧を眺める。
その中で最も映りが良さそうなものを一枚ピックアップし、それを開いた。画面いっぱいに広がる己の下半身を見た赤羽は、背筋に昇る快感を堪えつつ、急いで写真に加工を施す。明度、陰影、彩度、様々な修正を施すこと三分、あっという間に写真は完成した。
出来上がった写真をジッと見つめ、学校や個人を特定できる部分が無いことを再確認。位置情報が画像に含まれていないことも確かめ、「完璧!」と我が手腕に唸った。
そろそろ伊織が戻ってきてもおかしくない頃だったが、来る気配はない。
C男達のことで話でもしているのだろうか。それなら今の内に投稿してしまおう。
赤羽は急いで裏アカウントを開き、投稿画面を開いて写真を添付した。それから、メッセージを付け加える。顎に指を当てて数秒、適当に考えた文字を打ち込む。
『委員会の仕事でちょっと帰りが遅いかも! 帰ったら新しい下着お披露目~』
文字を打ち込んだ後、誤字や脱字が無いかを再度確認し、赤羽は『投稿』ボタンを押した。
――投稿しました。というポップアップが浮かび、タイムラインに赤羽の投稿が表示された。数秒で考えた文章と数秒で撮影された淫らな写真が映し出される。
さて、どれくらい『いいね!』が伸びるだろうか。
そんなことを考えながら赤羽が投稿を注視していると、その時だった。
「ひっ!?」
ヴー、ヴーと耳障りな振動音が静かな教室に響き渡り、赤羽は反射的に身を縮こまらせた。日常であまり耳にしない、少し大きなバイブレーションの音。断続的に鳴っている。
数回の振動の後、その音は途絶えた。発信源はどこだ、と赤羽は音が聞こえた方へ視線を彷徨わせる。少し遅れて、それが机に置かれた伊織のスマートフォンであることに気が付いた。見れば、画面が点灯していた。
「……な、なんだ」
胸を撫でおろし、半眼でため息をこぼす。SNSに投稿した直後に鳴るものだから、まるで誰かに見咎められたかのような気分だった。
振動音は数回、電話ではないようだが急ぎの要件なのだろうか。人様のプライバシーの塊を覗き見ることの悪徳は理解しているつもりだが、それでも人の寿命を縮めるような真似をした通知がどのようなものだったのか、一瞥するくらいのことはしてしまう。
そして、赤羽は声を失った。
「……え?」
伊織のスマートフォンに届いた通知は、赤羽が使用しているSNSアプリのものだった。
この点は、年頃の学生であれば誰でもインストールしているようなもので、特別に不可解なこともない。問題は、その通知の内容だった。アプリケーションには特定の人物が何かを投稿した際に端末へ通知を流す機能が備わっており、彼女の通知はそれだった。
投降の内容は『委員会の仕事でちょっと帰りが遅いかも! 帰ったら――』。残りは見切れている。アイコンは赤羽が設定しているお絵かきアプリの落書き。投稿者の名前は赤羽の幼稚園時代のあだ名である『ばねちゃん』。間違いなく、赤羽の裏アカウントだ。
整理しよう。――ほとんど面識が無いクラスメイトのスマートフォンに、赤羽の裏アカウントの投稿が通知されていた。
現実を正しく把握した途端、赤羽の心臓が嫌な跳ね方をした。
思わず胸に手を当て、嫌な汗が背筋を伝う感覚を覚える。
「……何で?」
家族以外にアカウントのことを話したことはない。
故に、赤羽経由で裏アカウントを知る機会は無いはずだ。ならば必然的に逆が浮かび上がってくるが、裏アカウントから赤羽個人を特定するのも非常に難しいはずだ。投稿には常に細心の注意をはらっている。だが――とてつもなく身近に居る人間が偶然にも赤羽の裏アカウントを発見した際、投稿写真の外見的特徴から本人とアカウントを結びつけることが絶対に不可能かと問われると、返答は否だろう。
思わず唇を引き結び、スマートフォンに飛びつきそうになる足を止める。
今すぐにアカウントを開いてしまいたい衝動に駆られるが、それでも彼女のプライベートを覗き見ていい理由にはならない。赤羽は鋼の理性で動きを止め、手を合わせて眼前に持っていき「落ち着け、落ち着け」と平常心を取り戻す。
彼女が『ばねちゃん』と赤羽という一個人を結び付けているのか、仮にそうだとして脅迫の材料にでも使うつもりがあるのかは分からない。だが、焦って行動するのは愚策だ。
最悪を想定するべきだろう。彼女はそれが赤羽の裏アカウントであることを知り、それを脅迫の材料に金銭を強請ってくる人間と仮定する。その場合、今まで彼女が接触してこなかったのは機会を窺っていたからである可能性が高い。そうなると、『彼女がこちらを認知している』ことを当事者である赤羽に悟られるというのは、強烈な起爆剤になりかねない。
『気づいていないフリ』が現状のベストアンサーだ。
そう自分に言い聞かせて平静を取り戻すのと同時、教室の扉が開く。
微かに息を切らせて戻ってきたのは、赤羽の心境など知る由もない、無邪気な顔を見せる伊織だった。
「あ、た、ただいま!」
「……お疲れ様。どうだった?」
「問題ないみたい。先生が帰っていいって」
告げる彼女の顔を何気なく眺めると、先刻までとは違った色が見える。
彼女がC男達に向けていたような畏怖の感情は赤羽には向けられておらず、代わりに微かな緊張のような色が見えた。それがどんな感情に基づくものなのかは分からないが、とにかく彼女に対して気を許すべきではないだろうと、赤羽は笑みを取り繕った。
そうして帰宅の準備を進めていると、机に置きっぱなしだったスマートフォンに気付いた伊織が、それを手に取る。そして、何か着信が来ていないか確かめる様に点灯した。
直後。「ひゃ!?」と叫び声をあげたかと思うと、彼女は信じられないものを目にしたように目を丸くしてこちらを見た。
「ん? どうしたの?」
何に驚いているかは考えるまでも無いが、それでも赤羽はとぼける。
伊織は「あ、その」と言葉を詰まらせながら手をわたわたと動かす。秒を重ねるごとに少しずつ顔を赤くさせていき、やがて、耳まで真っ赤に染めながらスマートフォンを胸に抱いた。長い前髪の向こうにある瞳を微かに潤ませ、上目に赤羽を見る。
「……み、見た?」
はい。イエス。勿論。ええ。その通り。肯定の言葉が幾つも脳裏を過るが、その一切を押しつぶしながら赤羽は仮面のような笑みを維持し続けた。
「伊織さんのスマホ? 通知が来てたみたいだけど、画面は見てないよ」
人のプライバシーは侵さない人畜無害な人間であることをアピールするように、明るい顔でひらひらと手を振った。流石に、少しだけ胸が痛んだ。
しかし、伊織は赤羽を疑うような素振りも見せず、安心したように胸を撫でおろした。
帰宅後の夜。風呂上がりに寝間着に着替えた赤羽は、シャツのボタンを全て外して前を開き、ショートパンツを膝まで下ろしていた。非常にデザインの凝った高級ブランドの下着に見惚れながら自撮りをしつつ、頭からは伊織のことが離れない。
伊織は『ばねちゃん』を赤羽と認識しているからこそ、当の本人である赤羽に見られて動揺したのか。それとも、そうと認識はしていないが、裏垢鑑賞趣味を第三者に知られて恥ずかしくなったのか。先刻の対応だけでは判断ができなかった。
「……こういうのも見てるってことだよね」
半裸の自撮り写真を加工していた赤羽は、我に返ったようにそう呟く。
家族にアカウントを知られることは、あくまでもそういう活動をしているんだという認識に繋がる程度なので抵抗は無い。だが、顔見知りがどういう目的か裏アカウントを監視していると知った今、ほんの少しだけ恥じらいを思い出してしまった。
赤羽は無意識に胸を手で隠すような所作を取りつつ、二つを天秤に掛ける。
知人にみられる恥ずかしさと、その他大多数に認められることによる承認欲求の充足。しばらく考えていた赤羽は、思考を振り払うようにシャッターを切った。
それからふと、赤羽は気になって自身をフォローしているアカウントの一覧を開く。合計で十万前後のフォロワーが羅列されており、寝転がりながらそれをスクロールして眺めていく。何故このような不毛な行為をしているかといえば、もし万が一にも伊織が伊織と分かるアカウント名でこちらをフォローしていた場合、彼女の思惑が分かるかもしれないと考えたからだ。
数分スクロールし続けた赤羽は、指が疲れて途中で辞めた。結果は言うまでもないだろう。
赤羽は寝間着を脱ぎかけにしたまま、ベッドに仰向けに倒れ込む。
「どうしよっかなぁ」
伊織はどうして赤羽のアカウントを認知しているのか。何か目的があるのか。
整理して思考するべきだ。
まず、赤羽が回避しなければならないのは、裏アカウントと赤羽という個人の密接な関係性が大多数に認知されることだ。そして、その危機が実現するか否かを左右する鍵を伊織が握っている。そうなると、問題は彼女にどの程度まで悪意があるのか、そして、どのくらい裏垢のことを知っているのか、だ。
前者については直接聞くしかないだろう。
だが、そもそも彼女が『ばねちゃん』と赤羽の関係を知らない可能性もある。
つまり、赤羽が取るべき行動は、伊織が『ばねちゃん』の正体を知っているかどうか確かめることだ。そのための手段は何があるだろうか。赤羽は寝転がりながら唸る。
聞くのは手っ取り早いが最終手段だ。もしも彼女が何も知らなかった場合、それらを結びつける最後のピースになりかねない。
彼女が知らなかったとしても、情報を与えずに済む手段。
一分、赤羽は思考に没頭した。
けれども鈍い思考は的確な答えを出すことはできず、赤羽は己に失望しつつ、思考から逃げるように酸素を求めた。先ほど撮影して加工した写真を裏アカウントにアップロードしようとスマートフォンを操作する。もはや何度目かも分からない投稿作業を惰性で行おうとした赤羽は、ふと、これを投稿したら伊織に通知が行くのだろう、と漠然と考える。
投稿したら通知が飛ぶ。通知を確認したら、どうする?
そう考えた赤羽は、飛び起きて声を上げた。
「……これだ!」
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