第6話 疑念の夜
「透、何かあったの?」
夕飯時、ふと声が聞こえて顔を上げると小首を傾げた姉さんの姿が目に入った。姉さんは僕のちょっとした変化に直ぐに気づく。それだけ、僕のことを気にかけてくれているのだろう。
「うーん……、実は──」
どう話したらいいか分からなかったものの、一先ず今日の出来事を伝える。
偶然、家の前でクラスメイトと出会ったこと。その後に記憶障害を起こしてしまったこと。そして、つい先日にも同様のことがあったこと。
姉さんは真剣な表情でそれを聞いていた。当然、家族である姉さんは僕の置かれている状況をよく知っている。
「……もしかして、
「うん、そうみたいだよ。珍しい苗字だし、クラスの子が話してるのも聞いたから」
──戸賀崎グループ。
この街に本社が置かれた、全国規模の会社。地方の何の変哲もないこの街は、戸賀崎グループによって成り立っていると言っても過言では無い。
戸賀崎さんは、その一人娘。所謂『社長令嬢』ということだ。清楚な雰囲気も相まって、益々お嬢様という言葉が良く似合う。なのに、それに
姉さんは僕の言葉を聞いて、小首を傾げると共に僅かに視線を上に向けていた。何かを考えている時の癖だ。
「……戸賀崎花音」
ぽつりと呟きが聞こえた。苗字を伝えただけだったためにフルネームを知っていることに少し驚きはしたものの、学校が違うとはいえ、あれだけ有名人であれば聞いたことがあってもおかしくはない。少なくとも、僕の学校で彼女の存在を知らないものはいない。
名前を呟いた後、沈黙が続く。姉さんはまだ何かを考えているようだった。
「……姉さん?」
「あ、ごめんなさい。何でもないわ。……それにしても何の兆候もなしに症状が出ちゃうのはちょっと心配ね。せめて私が同じ学校だったら、何かしらフォローは出来るだけれど」
声を掛けると姉さんはかぶりを振って僕の方へと視線を戻し、優しげな笑みを浮かべた後、眉と視線を下げて申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「ううん、大丈夫だよ。多分誤魔化せてはいるし、夏の間に先生と薬の調整をするから」
「……先生、ね。私、あの人少し苦手だわ」
姉さんも人当たりがよく優しい性格だ。あまりそのような事は言わないために、少し驚いた。そもそも姉さんと先生は、初診の時に一度顔を合わせた程度だったはずだ。
「良い先生だよ? ちょっと変な所はあるけど……」
「透がそう言うならいいわ。でも、あまり深く関わらないようにするのよ?」
納得はしてくれたものの、それでも釘を刺される。やはり、こういう反応をするのは珍しい。けれど姉さんが言うからには、きっと何かがあるのだろう。僕は言葉の代わりに頷きを返した。
そうして食事の時間は、少しいつもとは違う雰囲気を漂わせて終わった。姉さんに、余計な心配をかけさせてしまったかもしれない。
けれど、自分の気持ちでどうにか出来るものではないために、もやもやとした感覚が心の中に残った。
そのもやもやをシャワーを浴びて一旦洗い落とす。肌を濡らすぬるま湯で、ピリピリとした感覚を覚えた。今日、外にいて少し日焼けしたのだろうか。時間は見ていなかったが、自分が思っていた以上に時間が経っていたのかもしれない。
途端に、その時間を戸賀崎さんと共に過ごしていたことが、記憶が残っていない故に不安を伴って脳裏に浮かぶ。
──気にしても、仕方がない。
結局は、そう考える他なかった。
シャワーを浴び終えると、昼間のこともあってか疲労感が押し寄せてきて、さっさと寝てしまおうと自室へと向かう。
「透」
その途中で、姉さんに呼び止められた。リビングで椅子に座った姉さんが、僅かに口端を歪めてこちらを見つめていた。あまり、見ない表情だ。
「おやすみなさい、ゆっくり休んでね」
続く言葉は、いつも通りのものだった。表情も、いつもの優しげなものに戻っている。疲れているために、変なように見えてしまったのかもしれない。
「おやすみ、姉さん。また明日」
僕も微笑みを返すと、自室へと入りそのままベッドへと倒れ込むように横になった。やはり疲れていたのだろう、直ぐに眠気がやってきて、重くなった瞼をゆっくりと落とす。
「……戸賀崎、花音」
静かなリビングに、僅かに昏い感情が乗せられた呟きが零れる。その目は、閉じられた扉に真っ直ぐに向けられていた。
夜は、更けていく。
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