スマホを持った精霊と、愛し子の奮闘記

渡辺 花子

第一章 始まり

第1話 遭難する

 人間に与えられるもので他人と比べて平等なものは少ないけれど、一日の時間は人類皆等しく二十四時間が与えられている。

 喜びよりも苦しみばかり与えられてきたアレイシアにとって平等はありがたいことだけど、今だけは違う。


「神様お願いします! 私に太陽の光をください!」


 何度もそう祈ったけれど、アレイシアの願いが叶うことはなさそうだ。




 つい先程までは頭の上で明るい光を照らし続けてくれていた太陽が西へと降りて行くと、茜色の光と共に藍色の闇も引き連れてきた。

 当たり前に与えられていた光が消えて夜が来ることは、もうすぐ五歳になるアレイシアにだって分かる。

 分かるからこそ、大問題だ。

 もうすぐ訪れてしまう暗闇は今のアレイシアにとっては天敵で、絶望しか与えない。


 茜色が少しづつ藍色に侵食されていく空を見上げて、アレイシアはついに我慢できず泣き出してしまった。何とか気合で目に溜めるだけ溜めていた涙が頬を伝って、濁流のごとく流れ落ちていく。

 こんな森の中を歩くには不釣り合いなドレスではアレイシアの涙を受け止めきれるはずもなく、両袖共に涙と鼻水でぐっしょりと濡れている。


 森で迷子になってしまったアレイシアが歩いているのは、道とは呼べない獣道だ。

 茜色の夕焼けは、森に光ではなく影ばかりを与えている。見通しが悪く闇が濃くなっていくのでは、アレイシアの恐怖心も増すばかりだ。

 怖くて、怖くて、怖くて仕方がないのに、一日中歩き続けたアレイシアには叫ぶ力も残っていない。


 それに何と言って叫べばいいのかも分からない。「お父様、お母様」と叫ぶほど、両親と共に過ごした記憶はないし、呼んだら怒られそうだ。

 勝手にこんな森の中に連れて来たくせに、迷子の娘が助けを求めたら絶対に怒る。そんな両親だ。


 大体、オンズロー家とスナット家の合同訓練という名の交流会にだって、アレイシアは今まで一度も参加したことがなかった。家族全員参加が基本なのに、だ。

 本当なら今回だって、アレイシアは来る予定ではなかった。それなのに連れて来られた理由は、スナット家のワイマールが精霊の愛し子になったことをアレイシアに自慢したがったからだ。

 オンズロー家でのアレイシアの扱いを、スナット家が知らない訳がない。

 それなのに強引に呼んだのは、精霊の愛し子となったワイマールの願いを叶えたかったのと、アレイシアと比べることで息子を自慢したい気持ちが勝ったのだ。なんてことはない、アレイシアはただの噛ませ犬だ……。


 比較の対象として呼ばれた上に、すっかり忘れられて山に置いてきぼり……。アレイシアにとっては踏んだり蹴ったりだ。

 山の中で遭難しているこの状況だというのに、誰に頼ればいいのか分からない。そもそも人に頼って良いのかと考えてしまうほど、アレイシアは孤独だ。


 珍しく着せられた綺麗なドレスは泥だらけで破れ、元の色が分からなくなっているし。腕や足や顔という肌が露出した場所には、枝や葉っぱでついた切り傷だらけ。これだけボロボロの状態では、泣きたくもなる。

 どうしようもないほど不遇な環境にいるアレイシアに、無情にも暗闇が押し迫っていた。




 オンズロー辺境伯家にとって、アレイシアは要らない子だ。

 山での遭難を「これ幸い!」と喜びこそすれ、探してくれる可能性が低いのは五歳児にだって分かる。そこは、スナット家の目を気にしてくれることを祈るしかない……。


 その可能性も低いなとため息をついたアレイシアの背後から、生臭い息を吐き出す何かが近づいてくる気配がした。

 嫌な汗が背中を伝う。見たくない。そう思いながらも、後ろを振り返る。視界にとらえたのは、薄暗い森。奥に進むほど真っ暗で、何も見えない。

 何も見えないからって、何もいない訳ではないのがすぐに分かった。急激に闇が広がり始めた森の奥から、大きな黒い影が飛び出してきたからだ。

 茜色の光に照らされたのは、見たことがないほど大きく黒い猪だ!

 ギラリと光った赤い目は、確実にアレイシアに狙いを定めた。


 疲れてきって棒のごとくなっていたはずの足が、命の危険を察知して勝手に走り出した。

 道なき道を走るアレイシアは身体中が痛いけど、そんなことを心配している余裕はない。五歳児の足より、猪の四本足の方が早いのは考えるまでもない。もういつ後ろから、あの太い牙で激突されてもおかしくない。


 一日中森の中を歩き回った足は、疲れ切っていて限界だ。生存本能だけで何とか走れてはいるけど、足はもう上にはあがらなくなっている。

 地面に擦りつけるようにしか走れなくなっていたせいで、木の根に足を取られたアレイシアは勢いよく一回転して前に飛び出した。


 いくら猛スピードで走っていたにしても、子供の体重が軽いから浮き上がってしまったにしても、身体が一回転したまま地面に落ちないのはおかしい。

 しかも、藍色に覆われた空を見ながらしているなんて……。大きな星が流れるのが見えたなんて……。普通はあり得ない。


 そう、普通じゃなかった。

 転んだアレイシアが飛び出した場所は、ちょうど崖だった……。

 地面に引き寄せられる引力を全身で感じていると、藍色に染まる空を流れる光が強くなる。

 運良く流れ星に目を奪われたおかげで、自分が吸い込まれるように落ちていく空よりも深い暗闇を見ないで済んだのは幸いだったのかもしれない。


 なんて思っている間もなく、流れ星なはずの白銀の光が目の前に迫ってくる。

 地面より先に、空からの光が迫ってくるなんてあるだろうか?

 しかも、光だと思ったのは人間だなんて……?

 黒目黒髪のおかしな格好をした人間が叫んだ。

「えっー! 何ここ? 確実に落ちてるよね? どういうこと?」


(こっちが聞きたい……)




 ボチャンという音と共に、アレイシアの視界が夜空から水中に変わった。

 空中でふわりと浮いていた身体は、水面にたたきつけられた衝撃で痛い。その痛みを感じている余裕がないほど水の流れが早く、身体は揉みくちゃで重く息が続かない。

 川に落ちたアレイシアの命は、助かっているにすぎない。水に入ること自体が初めてなアレイシアは、泳ぎ方を知らない。

 それでも生存本能で身体は岸を目指すけど、流れが速くて近づくなんて無理だ。それどころか、辺りは暗く、服は重い。川底がアレイシアを引っ張り込んで、岸なんて見えない。

 ドレスが岩に引っかかり、破れて多少身軽になった。それでも川の流れに逆らうことも、乗ることもできない。

 川の中を回転して、流れに翻弄され続ける。鼻や口から入ってくる水が苦しくて、息ができない。まだ目を開けていて、意識があるのが不思議だ。

 不思議というか、多分隣で騒ぐおかしな格好をした人のせいだ……。


「何なの? 一体どうなってるの? えっ? 私、車に乗ってたよね? それがいきなりキャンプ? というより、水難事故? どうして私は濡れないし、苦しくないの? あぁ、そうか、死んだからか……」


 そんなアレイシア達の前に大きな滝が現れた……。

 アレイシアが流されている川が本流なのだとすれば、滝は横からやって来た支流だ。だけど、滝は大きな水しぶきをあげて遥か上から打ち付けてくる。

 こんな勢いのある大量の水が本流に流れ込んでくれば、合流地点の流れは激しく渦を巻いていている。渦に引き込まれたら、アレイシアなんてひとたまりもない。


 だからといって、川の流れが止まる訳でもない。偶然にどこかに引っかかったりなんてしない。運よく誰かが助けてくれることも、なさそうだ。

 案の定、渦に捕らわれて川底に引きずりこまれるように回転を繰り返すアレイシアは、もう自分がどこにいるかも分からない。真っ暗闇の中、鼻からも口からも押し寄せてくる水が苦しくて目も開けられない。

 滝壺の方へ進んでいるのか本流に進んでいるのか分からないけど、吸い込まれるように身体はグルグル回っている。

 もうとっくの昔に抵抗する力は失われたし、息が苦しくて辛い。限界だ。そのまま何も考えられなくなったアレイシアに、声が聞こえてきた。


「ちょっと、諦めちゃダメよ! あぁ、何で触れないの? 私が幽霊だから? とにかく諦めないで! 私が助けるからね! 信じて頑張るのよ!」


 誰かに心配されるのも、励まされるのも、アレイシアには初めてで、とても心地が良かった。






◇◆◇◆◇◆


読んでいただき、ありがとうございました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る