第二十四話 託された記憶の欠片《後編》
僕の隣には煌希がいる。だからこそ、この縁を失うのが怖い。
「僕は正直まだこの現実が恐ろしいよ……。僕にはみんなに置いていかれた爺ちゃんの孤独がとても大きく見えたんだ」
僕は最初こそ漢字のマンデラエフェクトを体験した時は少し面白がっていた。でも、調査を進めると次第に周囲との認識の差が開き、いつしか記憶違いを不気味に感じるようになっていた。実を言うと、今だって記憶が擦れ違う恐怖は残ったままだ。ただ、亡くなった祖父の心情を思えば、「怖くても現実と立ち向かわなくては」と気負うしかなかった。だから今の僕には平行世界への移動を楽しむなんて発想は全くない。ましてや死去した事にされた祖母や、所在不明のマスター、存在そのものを消された皆川さんの処遇を知れば、宇宙バランスの安定なんて高望みをする事に尻込みしてしまうのは当然だ。
僕は意志が弱い。一旦弱音を吐いてしまえば、心のモヤモヤは無限に増えていく。こんな僕がさっきの煌希との会話だけで、この現実を受け入れる覚悟なんてできるはずがなかったんだ。今までだって僕は全然現実と向き合えていなかった。記憶違いにしても、周囲からの差別の意思を孕んだあの視線が、あの言葉が、あの態度が、僕に恐怖と絶望と孤独感を身体の芯に植え付けた。だから僕は家族の前では、マンデラエフェクトに関わる全ての出来事について固く口を閉ざした。もう二度と話題に出すもんかと思った。それほどまでに動かない壁が僕の目の前にあるのだ。
たかが高校生である僕らにとって、この世界はあまりにも大きく見える。
「なあ、煌希。僕は今も正しい行動をとっているのか? そもそもこれまでの行動が本当に爺ちゃんのためになっていたのか……。僕が真相究明に動く事で爺ちゃんの孤独は埋まっていたのか、不安になる時があるんだ」
僕はどうしても未だに後ろに気を引かれてしまう。僕が恐れを感じる度に通り過ぎていったはずの過去の自分が、「そのまま進んでいいのか」と問いかけてくるみたいだった。僕は何度も強く逃げ出したくなる自分に言い聞かせて、やっとここまで辿り着いた。けれど寄せては返す波のように不安が押し寄せてくる。僕はまだ本当の祖父を語れる自信がないのだ。
だからこそ、僕や他の同級生よりも達観している煌希に思い切って今の心情を打ち明けたかった。
汗が引いたところに風があたって肌寒く感じる。僕の声が震えていたのはそのせいだと思いたい。
「廣之くんは今の話を聞いても、まだ何かが引っかかっているんだよね?」
煌希が眼鏡を押し上げながら横目を使って僕を見た。僕はなんとなくその視線から逃れたかった。
「うん。僕はマンデラエフェクトを解き明かす事が爺ちゃんの無念を晴らす事だとずっと思っていたんだ。だけど、調べれば調べるほど今日みたいな壁にぶち当たって、自分の力ではどうしようもない事がわかってさ。僕は煌希が言うみたいに、自分が望む現実を作れるのかなって……」
「君は優しい人だね」
タイミング良く風が止み、煌希の言葉だけがポツリとこの空間に浮かび上がる。弾かれたように僕が俯いていた顔を上げると、煌希は穏やかな笑みでもう一度同じように僕を「とても優しい人だ」と言った。その瞬間、喉に熱いものがぐわっと込み上げてきて、僕はズボンを握りながらそれを飲み込んだ。自分が情けない。煌希は僕の強がりなんてとっくの昔にお見通しだった。
煌希は泣きそうな僕にも気付いているのか、気を利かせて「飲み物を買いに行ってくるよ」と告げて、この場から立ち去った。
「さっきのって……」
ひとりになったベンチで僕が思い出していたのは、マスターの言葉だった。
──君は優しい子だね。
煌希はどういうつもりで、マスターの言葉を引用したのだろう。
引き金となった言葉の続きが僕の脳内で勝手に再生される。
──誰もが必ず人の痛みを理解できるわけじゃない。君と忠助さんはそっくりだよ。忠助さんが家族の写真を持ち歩いていたのはね、何も自分のためだけじゃなかったんだ。自分がこんな目に遭っても、せめて慕ってくれた孫だけは何も知らずに笑っていてほしい……。彼は写真を眺めてそう言っていたよ。そうやって自分を奮い立たせていたんだろうね。
言葉には不思議な力がある。それは時に誰かの心を大きく動かし、発した言葉通りの現象を引き起こす。
「それじゃあ、僕は……」
どうしよう。また目の奥が熱くなってきた。僕はなんて単純な奴なんだろう。記憶に残る言葉一つで救われてしまう。
感情がもうグチャグチャだ。だけど今は決してそれが不快じゃない。こういう混沌の中でなら、僕は一筋の光を追っていけそうな気がする。マスターの言葉が僕の希望の光だ。
──廣之くんは知らない内にこの世界の忠助さんを救っていたんだ。君は他人の私から見ても、充分にお爺さんを愛してくれた。写真の廣之くんは、お爺さんの横でとても素敵な笑顔をしていたよ。
先に溢れたのは祖父との思い出か、それとも涙か。
……そうだ。僕がカメラに興味を惹かれたのは、家族写真を眺める祖父があまりにも幸せそうに笑っていたからじゃないか。
ああ、もう本当に……どうして今まで忘れていたんだろう。記憶の欠片は、変わらない想いは、僕の中に確かに存在していたんだ。
──皆川さん、今日は誘ってくださってありがとうございました。ここに来れて嬉しかったです。僕、前からこのお店が気になっていたんですよ。
──おお、そうか! さすがジャズ好きの藤城くんだ。みんなとは目の付け所が違うね。
今度はジャズバーで最初に集まった時の記憶が頭の中に流れてきた。皆川さんとの会話は記憶に新しい。
──ところで、皆川さんは祖父とマスターの関係を知っていたんですか?
──まさか! たまたまだよ。
皆川さんは僕が追及した時に視線を泳がせて怪しい素振りを見せていた。僕とマスターを引き合わせるため、すっとぼけていた皆川さんの姿はもうここにはない。
──思っていた通りでした。ここは素敵なお店ですね。マスター、また来ても良いですか?
──ありがとう。君たちならいつでも歓迎するよ。またみんなでおいで。
僕にお店を褒められてマスターは嬉しそうに笑っていた。そのマスターも今やこの世界にはいない。
ジャズバーではBGMとしてジャズを常に流していて、そこでは音楽にゆったりと浸りながら色々な話ができた。僕はマスターとの会話の中でビル・エヴァンスが秋田市に来ていた事を初めて知った。他にも尊重の心の話や、記憶の欠片の話、僕が知らなかった祖父の意外な一面だって話してもらえた。
僕にとってジャズバーは、未知の話と知らない音楽が共にあった場所だった。新たな出会いはあそこに詰まっている。あの時間は紛れもなく僕の愛しい時間だ。
僕は家族や委員長と違う世界を見るようになった。その僕が自分らしくいられる希少な場所がジャズバーだった。
「廣之くん」
ペットボトルを二本抱えた煌希が戻ってきた。煌希はお茶を持つ手とは逆の手で、僕にコーラを差し出した。何も言わなくても煌希には僕の好みがわかるらしい。僕らの付き合いが短くても濃いように、マスターと皆川さんと過ごした時間もそうだった。
あのふたりは今、どこで何を思っているのだろう。
「僕はね、未知の力によって記憶が書き換えられたり、周りの景色が変わったとしても、もう何かを失ったりしないよ」
煌希にお礼を言ってペットボトルを受け取る。彼はなぜか立ったまま僕に話し続けた。
「廣之くん、自信を持ちなよ。君はお爺さんと大切な思い出を共有できていたじゃないか。僕たちだって、きっとできるよ。……大丈夫さ。お爺さんの孤独は君のお陰で消えたはずだから」
それまではっきりと見えていたはずの煌希の顔の輪郭がぼやけていく。涙を誤魔化すように顔を片手で覆って目元を擦るが、拭いきれなかった涙はやがて僕の頬に伝った。泣いている事を自覚した途端、悲しい気持ちが内側から滲んでいく。
僕は消えてしまったあのふたりと、もっと話をしてみたかった。皆川さんには僕と委員長が一緒に過ごした大切な祭りの思い出話を聞いてもらえた。逆に、皆川さんは失ってしまった人とどんな思い出があったのだろうか。今度は僕が皆川さんの話を聞いてあげたかった。マスターとは祖父との思い出話をたくさん共有したかった。それに晩年のビル・エヴァンスの来日公演の様子だって、僕はまだ詳しく聞いていない。
僕が成人になるまであと少しだった。そうしたら、お酒を飲みながらふたりとゆっくり話せたかもしれない。あの日より、もっと、もっと。
──さようなら……。僕の大切な人たち。
そう思った直後、再びじわっと目に涙が浮かぶ。僕の瞳から隠したかった感情が次々と溢れてくる。
「……ごめん。なんか、頭がゴチャゴチャで……」
「うん、いいよ。気にしないで」
それだけ言うと煌希は僕の横に座り、ただ黙ってそばにいてくれた。何も言わなくても隣に誰かがいてくれるだけで、こんなにも救われた気持ちになるなんて……。
しばらくしてようやく落ち着きを取り戻した僕に向かって、煌希が僕の名前をそっと呼ぶ。
「廣之くん。僕たちは何があってもずっと友達さ。だから今、個人的に僕の優しさに応えてほしいんだ」
いたずらに笑った煌希に対して、僕は静かに頷く。煌希はすぐに真剣な顔付きになった。
「聞いてくれるかい? 僕が立てた最後の仮説を」
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