第二十二話 悪夢の正体
急にあんな状態を見せられて、パニックにならないはずがない。案の定、僕は寝不足だった事もあり、すぐに吐き気と目眩に襲われた。具合が悪くなった僕は気を遣ってくれた煌希に支えられながら、近くの公園に移動した。
今、僕はひとりで木陰にあった木製のベンチに座り、憎たらしいほど晴れ渡った空を仰ぎ見ている。どうか、これが夢であってほしい。僕はいつもと違う悪夢を見ているだけだ。そう思いたいのに、手に触れる乾燥した木のザラザラした感触だとか、サンダルだからこそわかる土埃と汗が混ざった不快な感覚が、嫌でも僕を現実に連れ戻す。
神様はとことん意地悪だ。僕がどれだけ理不尽な現実に歩み寄ろうとも、隠された真実を理解しようとしても、どうにもならない現象ばかりぶつけてくる。
「お待たせ。水で良かった?」
「……ごめん」
「気にしないで」
煌希が僕にペットボトルを差し出しながら小さく笑う。僕は小走りで駆け寄って来てくれた煌希へお礼の言葉もそこそこに彼からペットボトルを受け取った。情けないけど、これが今の僕ができる精一杯の返事だった。
早速ありがたく頂戴した水を一口だけ喉に流し込む。もちろんそれだけでは喉の渇きは治らず、僕は気持ち悪い感覚を身体から払拭するように、間を空けながら水を体内に取り込んだ。時間をかけてゆっくり飲んでいると、動揺していた心が少しずつ落ち着いていく。まるで煌希の優しさと一緒に水分がじんわりと身体に染み渡っていくようだった。今だけは、心地よいそよ風のような自然も僕に味方してくれているようだ。
「気分はどう?」
「だいぶ楽になったよ。ありがとう。煌希が親切にしてくれたからだな」
「それは大袈裟だよ」
大袈裟なんかじゃない。本当に体調が良くなったし、気持ちも少し軽くなった。
そういえば、神社には参拝前に手や口を水で清める風習があるし、水には科学的視点の他にも浄化作用があるとされていたっけ。
僕にとっての神様は煌希だ。いつも当たり前のように僕を真っ先に救ってくれる。
「そんな事ないって。僕は何度も煌希の思いやりに救われているよ。煌希は本当に良い奴だな」
「そうかな? 褒めてくれるのは君だけさ。それに、もしかしたら君に優しくできるのは今だけかもしれないよ?」
わざとおどけたように話す煌希がおかしくて、僕はぷっと吹き出した。煌希はそんな僕をくすぐったい視線で見つめながら隣に座った。
「今だけなんてもったいないな。もっと早く煌希と話しておけばよかった」
「……そうだね」
煌希は僕から顔を背けた。きっと照れ隠しのつもりなんだろう。その姿が微笑ましい。煌希と話をしていたら、恐怖心が薄れて温かい気持ちになってきた。
僕は深呼吸をして、座ったままもう一度軽く空を仰ぐ。
改めて気付かされたのは、一連の異常事態はまだ終わっていないという事だ。僕らが住んでいるこの世界は、未だ他の平行世界から干渉を受けている。ずっと僕らの知らないところで、誰かの悪意が静かに動いているのだ。
悪夢はここで終わらせよう。決意を固めた僕は冷静になった頭で今の状況を整理してみる。
ジャズバーは完全に跡形もなく消えていた。唯一あったのは、草ぼうぼうの空き地の中でポツンと立てられた売地を知らせる看板だけだ。たった一夜でジャズバーを取り壊しただけでも驚くというのに、あの状態にできるはずがない。それこそ、雑草の伸び具合を見れば人間業でないのは明らかだ。
「なあ、煌希。皆川さんに伝えてみないか? こんな一大事すぐに知らせなきゃ」
「僕もそう思ったけど、連絡の仕様がないよ。ジャズバーが消えたって事は、皆川さんのスマートフォンも無くなったわけだし。そもそもあの人が携帯してるはずの物を携帯していないのだから、もう八方塞がりだよ」
煌希は諦めたように大きなため息をついて項垂れた。一方で、僕は冷静になった頭を働かせて違う方法を探していた。そして、ある事を思い出す。
「いや、待てよ。昨日の連絡手段は電話だったんだろう? 皆川さんの自宅の固定電話に掛け直してみればいいんじゃないか?」
「今日は仕事だと言っていたし、その方法で連絡を取るのは難しいんじゃないかな。それより、僕らが出会うきっかけになったSNSはどうだろう? パソコンだったら仕事でも使うだろうし、たしか皆川さんは自分のノートパソコンを持っていたはずだ」
「自宅にノートパソコンがある可能性はないのか?」
「残念。昨日の皆川さんは、ノートパソコンを会社に置いたまま帰ってしまったそうだよ」
「うーん、それが良いのか悪いのか……」
煌希はこんな時でも自分のペースを乱さず、ニヒルな笑みを浮かべていた。
それにしても、面倒くさがりな性格である僕でも思わず唸ってしまうくらい、皆川さんのそれは恐ろしい悪癖だ。何で皆川さんは立て続けに物を置き忘れるのだろうか。しかも、一番頻繁に使うであろうスマートフォンをジャズバーに置いていってしまうとは、
とにかく、不幸中の幸いとはこの事だ。これを生かさない手はない。
「じゃあ、ダメ元でSNSのDMを使おう。もしかしたら、休憩中の皆川さんが気付いてくれるかもしれない」
「一か八かだね。でも、それしか方法がなさそうだ。ちょっと待ってくれ。今、連絡をしてみるから……」
「煌希? どうしたんだ?」
白いトートバッグからスマートフォンを取り出して素早く操作した煌希だったが、すぐにその動きが止まる。不自然な沈黙に耐えきれず、僕の胸騒ぎは収まらない。
やがて煌希は凍りついた表情をぎこちなく動かし、口を開いた。
「……ダメだ。皆川さんのアカウント自体が存在してない事になっている。アカウントが消されたっていう履歴すら残ってないよ」
僕は煌希が静かに告げた内容に耳を疑った。慌てて僕も煌希が持っていたスマートフォンの画面を覗き込む。彼の言う通り、検索しても皆川さんが情報を発信していた痕跡は綺麗さっぱりなくなっていた。
最悪の結果だった。
「そんな……。じゃあ、いつもやり取りしているって言うメールは? もしかしたらパソコンと同期しているかも!」
希望を込めて僕が提案すると、また短い沈黙が訪れる。煌希は僕の考えを先読みしていたようで、画面の操作を素早く終えると指を止めた。
煌希は何を話すのだろうか。途中から僕はスマートフォンの画面を見るのが怖くて、視線を煌希の手元から顔に移していた。煌希は僕を一切見ていない。今も、そう。
「メールもダメだ。皆川さんの連絡先そのものが消えている。通話履歴も、メールも、何もかもがなくなっているよ。恐らく、君も同じようになっているはずだ」
「嘘だろ? 冗談やめてくれよ……」
煌希はやっと画面から目を離すと、まばたきもせずにじっと僕を見つめてきた。
「見てごらんよ。真実は君の手の中にある」
煌希が僕のショルダーバッグを指差した。横に置いていたショルダーバッグの上には、僕のスマートフォンがある。煌希に促された僕は震える手で自分のスマートフォンを持つと、目を凝らしながら画面を操作した。切実な思いで次々と画面を切り替えていくが、端から端まで目を通しても探しているものが全く見つからない。
SNSのアカウント、連絡帳にあった電話番号とメールアドレス、通話履歴、先日撮った記念写真まで──。煌希の言う通り、皆川さんの存在を証明できる証拠の何もかもが消えていた。
否定の仕様がない真実は僕の手の中にあったけれど、何かが手からこぼれ落ちているような感覚がする。せっかく得た出会いの記録が無慈悲にも簡単に消去されていく。祖父の件などでぽっかりと穴が開いたところに埋められた素敵な思い出が容赦なく
僕がここ最近見ていた悪夢の正体は、これだったのかもしれない。あれは予知夢で、煌希だけがこの世から消えるんじゃなくて、僕の元に逃げて来るのが煌希だけだったんだ。
「煌希、わかった。もうわかったから……。でもさ、マスターと皆川さんはどこに行ったんだ?」
「僕もふたりが違う場所に移動させられたと思いたいけど、今回は存在そのものを消されたと言った方が正しいと思う。僕が思うに、今この世界は一つの世界と接着しているんじゃなくて、いくつかの平行世界が入り交じっている状態なんじゃないだろうか」
僕らを見下ろしていた木々がざわめく。
煌希のその言葉がじわじわと痛む心の穴に追い打ちを掛ける。僕の胸のざわめきはより一層増していた。
「それ、どういう事?」
「これも個人的な意見だから真に受けなくてもいいけど、あくまで可能性の一つとして考えてほしい。ただし、信憑性は高いだろうけどね」
僕を見ていた煌希が地面に視線を落とした。その横顔は真剣そのものだ。
「最初の頃にジャズバーで話したけど、廣之くんとお爺さんが同じ世界の住人なのはまず間違いない。仮に、廣之くんとお爺さんが元々いた世界をA、皆川さんとマスターや僕を含んだ他のみんなが元々いた世界をBとしよう。そして、昨日まで僕らがいた世界をC、今いるこの世界をDと呼ぶ」
煌希はその辺に転がっていた小枝を掴むと、話した順番通りに地面にアルファベットを書き始めた。地面にはAとBが少し間を空けて隣同士に並べられ、その隙間の下にC、さらにその下にも隙間を空けてDの文字がある。
「Aはともかく、Cの世界ではジャズバーが存在していた。恐らくはBの世界にもあったはず。なぜならマスターは経営者だし、違う世界から来たお爺さんとの接触でマンデラエフェクトに気付けたからね」
いつかの煌希の話では、皆川さんの場合はSF小説を書いた人物の見識に触れたから、気付きの種が芽吹いてこの超常現象に気付けたとの推理だった。マスターの場合も、きっとそれと同じ原理が当てはまるのだろう。
平坦な声で煌希の説明は続く。
「このDの世界ではジャズバーが消えていた。でも、それに気付けたのは僕らのようなCの世界から来た人間だけだ。きっと、このDの世界の人たちに彼らの所在を聞いても意味はない。なぜならさっき僕らが見た通り、マスターと皆川さんが存在していたという物的証拠そのものがここにはないのだからね」
「ちょっと待ってくれ。要するにどういう事なんだ?」
ますます頭が混乱してきた。僕は今、どんな世界線にいるのだろう。
「つまり、このDという世界だけでも、A、B、C、という世界が入り交じっているんだ。お爺さんと記憶が共有できている廣之くんと、ジャズバーでマスターたちと過ごした体験がある僕が、同時にこの場所で存在しているのが何よりの証拠さ。Cという世界だって、AとBの世界から来た人たちの合流地点と言えるだろう?」
煌希は話しながら小枝で文字と文字の隙間を矢印で埋めていった。AとB、それぞれから伸びた矢印はCを指し、さらにCから伸びた矢印は下にあるDを指していた。
こうしてみるとそれぞれの平行世界の関係性がわかりやすい。
「僕の考えだけど、誰かさんが何かの目的で無理やり色々な平行世界をくっつけたがために、均衡だった宇宙のパワーバランスが崩れたんだと思う。これまでの宇宙では、一枚の布のように縦糸と横糸の世界線が綺麗に形を保っていたんだ。それが誰かの手で引き裂かれ、あらぬ場所に糸が移動した」
「その結果が今って事か……」
「その通り。全ての世界は平行している。この世が立体映像なら、点も線も面も時間であり、時間とは空間の事なんだ。パラレルワールドは立体の世界がいくつも重なっていて、それぞれ時間や事実が違う。だから、僕らがここに一緒にいるのは間違っているんだよ」
淡々と仮説を述べていた煌希が、ここでようやく僕に顔を向けた。その表情からはいまいち感情が読み取れない。
なぜだろう。それの他にも違和感がある。煌希の理論はしっくりくるようで、釈然としない。
何か。まだ何か、僕は見落としてはいないだろうか……。
「煌希、結論を急ぐなよ。少なくともさ、僕は煌希と友人になった事は後悔していないよ」
「君は甘いね」
煌希はピシャリと言った。
「きっと、奴らは皆川さんとマスターが邪魔になったから消したんだ。あの人たちは、これから気付きの種が花開く僕たちに惜しみなく助言をしてくれたからね。社会的にも非力な僕らにとって、大人の味方が心強かったのは確かだ。僕らだって、この先いつ引き離されるかわからないよ」
煌希は怯えているというより、何かに対してあからさまに敵意を向けている。横にいる僕は彼の視界に入っておらず、煌希はただ眼前の敵を睨み付けるかのように前を向いたまま厳しい目付きをしていた。
「なあ、煌希。あのふたりが消えたと断定していいのか? 僕はこの目で確かめないと、とても信じられないよ」
「じゃあ、今からそれを確かめに行こう」
「えっ?」
自分でも思ってもみないほど間抜けな声が出た。
横に座っていた煌希は先に立ち上がり、僕に手を差し伸べる。
「こうなったらもう、皆川さんの職場に行ってみるしかないよ。マスターは自宅の住所がわからないから捜しようがないけど、皆川さんの職場は知っているんだ」
太陽を背に受けた煌希は自信たっぷりにそう言った。僕にはその姿が頼もしく見えていて眩しかった。
「廣之くんの言う通り、決めつけるのは良くなかった。先入観こそ最大の悪だ。僕らふたりでこの現実に立ち向かおう」
「……そうだな。行こう」
迷う必要はない。心強い味方はまだここにいるじゃないか。
立ち上がる勇気をくれた煌希に応えるように笑い掛けると、僕はその手をとって立ち上がった。
この時、僕は感じた違和感を意図せず胸に封じ込めていた。
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