第二十八話 切れた縁を手繰り寄せる
──勘弁してくれ! こんな思いはもうたくさんだ!
逃げられない。僕だけが不条理な世界に置いてけぼりにされた。この数奇な運命から今すぐにでも抜け出したい。
「藤城くん!!」
「おい! 廣之!」
僕はふたりの声を振り切り、教室から飛び出した。廊下で擦れ違った同級生たちが走っている僕に驚いたのか、自然と両脇によけて道を空ける。今の僕にはそんなみんなの顔も知らない人のように見えてしまう気がして、僕はひたすら足元だけを見て廊下を駆け抜けた。背中に視線が突き刺さっているように感じるけれど、それは同級生たちが僕を奇妙なものでも見るかのような目付きで追っているからだろう。既知感のある不快な感情に突き動かされ、僕は必死にふらつきそうな足を前に向かって運んだ。
僕はとにかくあの教室から一刻も早く逃げ出したかった。当初、教室を飛び出した後の事は何も考えていなかったが、登校する生徒と一度目にすれ違った時にパッと思い浮かんだ場所がある。それは、廊下からようやく人気がなくなった時に現れた。
僕らの学年にあてられた教室と接する廊下の一番奥──つまり、西側の校舎の端には物理・生物・化学の各実験室がある。それら実験室の手前には、校舎の中に三つある直通階段の内の一つがあり、通称「第三階段」と呼ばれるその場所は各教室から遠いために、利用者は移動教室以外でゼロに等しかった。そういうわけで、玄関から一番遠い場所に位置するこの第三階段を生徒が朝から使うはずもなく、おまけに僕の学校では屋上への出入りが禁止されているので、唯一屋上へと続くこの階段を最上階まで上る必要は全く無い。
つまり、第三階段は普段から生徒の穴場スポットになっている。
「なんで……? なんでだよ!」
大きな悲しみと怒りでグチャグチャな感情を発散させたくて、僕は階段の踊り場で壁に自分の拳を打ち付けた。すぐにヒリヒリと痛み出す拳が僕に残酷な真実を告げる。
──これは夢じゃないんだ……。
不合理な世界が再び僕を毒牙にかけた。この現実を認めたくない。だけと、認めなきゃいけない。矛盾する感情がぶつかり合い、燃えるような胸の痛みと発汗のせいでさらに焦燥感に駆られてしまう。僕はそれが自然に収まるまで薄暗い階段の踊り場に差した自分の影をじっと見つめた。握った拳が僕の不安定な呼吸に合わせて平べったい壁を滑り落ちる。壁はひんやりと冷たい。打ち付けた衝撃で熱くなった拳の熱がそこに吸収されていく。そのちぐはぐな温度差と、無機質な壁の感触が徐々に僕を現実に引き戻す。
──こんな事をしたって、何も解決しないじゃんか。
急に虚しくなり、僕は脱力した拳を壁につけたまま目元をその腕に押し当てた。
たった一ヶ月ほどの夏休み期間だけで、僕は多くの人を失った。僕だって、彼らとの大切な記憶がいつ風化するかわからない。僕はこのまま、消えた歴史と共に朽ち果てるのだろうか──。
僕が歯を食いしばっていると、下階から女子生徒と男子生徒の楽しそうな話し声がふと耳に入ってきた。いくら第三階段が穴場スポットとはいえ、もしかしたら誰かがここへやって来るかもしれない。今にも暴れ出しそうな心とは反対に、妙に冷静な頭でそんな事を思いながら僕は声を押し殺して涙を流す。
この校舎にある直通階段の踊り場にはどこも小さな窓しかないので、朝でも電気をつけなればならず、普段からかなり薄暗い。そのほぼ遮光された状況がより僕の気持ちを暗い方へと導いていた。僕が抱いているこの鬱屈した気持ちはどうやって消化したらいいのだろうか。この校舎……いや、この世界ではその感情を吐き出す場所が見当たらなかった。ここは僕にとって仮の居場所に過ぎないのだ。
「早く……! 早く終わってくれよ……」
何度も何度も頭の中で思い浮かんでは塗り潰してきた最悪の状況は、よりによって学校が始まる新学期に起きてしまった。僕はこれから煌希にどんな顔をして接したらいいのだろう。
結局、僕はこの狂った運命に勝てないのだろうか……。
「藤城くん?」
自分の無力さに嫌気が差していた時だった。下の踊り場から聞き慣れた声が聞こえ、僕は思わず振り返りそうになった自分をすんでのところで制した。
「……ごめん。急に気分が悪くなってさ……。しばらくひとりにしてくれないか?」
煌希が何か言う前に顔も見ずに適当な言い訳をする。僕は声を出すのも精一杯だった。
いきなり突き放したような態度をとったのは僕なのに、煌希から返ってきた言葉は意外なものだった。
「ごめん。きっと、僕のせいだよね? 僕がさっき藤城くんにとって不快な行動をしたんだ」
一瞬、何を言われているのか理解できなかった。なぜ煌希が謝っているのだろう。
煌希は何も悪くない。誰も悪くない。
煌希が階段を上ってくる気配がする。
──何か。早く何かを言わなければ……。
「本当にごめん。無自覚でも、僕が藤城くんを傷付けてしまった」
「違う……。違うんだ……」
悪いのは勝手に期待していた僕なのだ。声を大にしてそう言いたかったが、自然と話し方が尻すぼみになっていく。
煌希から欲しかったのは謝罪の言葉なんかじゃない。「廣之くん」と、ただ一言で良かった。
「煌希……」
頼むから、僕の名前を呼んでくれ。
「藤城くん?」
「……いや、なんでもない」
「えっ? とてもそうは見えないけど……」
溢れそうな想いを涙と共に飲み込み、最後の気力を出し切って無理やり涙を止める。僕が必死の思いで振り絞って出した声はとても細かったが、背後にいる煌希にはちゃんと届いていた。
指と手の甲で溜まった涙を拭き取り、僕は軽く振り返った。煌希は心配そうな目で僕をまっすぐ見つめている。僕は彼に
「……ありがとう。心配してくれて。煌希は相変わらず優しいな」
僕は煌希の優しさを知っている。充分すぎるほど、何度も優しさをもらった。
何も知らないのは、目の前にいる彼だけだ。
「藤城くん、さっきから僕を名前で呼んでいるけど……?」
「うん。嫌だった?」
「いいや。正直、突然で驚いたけど嬉しいよ。僕、今まで委員長以外の友達がいなかったから」
あの日のやり取りをなぞるように僕がかつての煌希を真似れば、それまで不安そうな顔を僕に向けていた煌希は目を見開かせたあと、目を逸らしながらはにかんで俯いた。
煌希はあの頃と全く同じ反応をしている。変わったのは僕だけだ。
「煌希、この辺にジャズバーがあったのは知ってるか?」
「ジャズバー? ……ごめん。わからないな」
「そっか……。それならいいんだ」
これで確定した。僕は完全に仲間外れだ。この世には、あの彼らと過ごした記録は一つも無い。あるのは、僕の頭の中にある記憶だけ。
「煌希。さっきの僕の態度は君のせいじゃないよ。今日は元々朝から具合が悪かったんだ。だから、少しの間だけひとりにしてくれると助かる」
「でも……」
「大丈夫。落ち着いたら教室に戻るよ。本鈴がもうすぐ鳴るから、先に行ってくれ」
「……わかった」
「ありがとう」
僕は背中に脂汗をかきながら努めて明るい声色でお礼を言った。これが今できる精一杯の強がりだった。
「ううっ……!」
煌希が階段から完全に姿を消して少ししてから僕は嗚咽する。立っているのもやっとで、僕は背中を冷たい壁につけてずるずると床に座り込んだ。
これが現実だ。みんな僕を置いて、違う平行世界へ飛んで行ってしまう。わかっていた事とはいえ、それでもショックは大きかった。時間をかけて築き上げた信頼関係は形を変えられ、真実を伝えても疑念の眼差しが向けられる。失った人の面影を必死に捜しているのに、心のどこかで全て自分のせいだと責め続けている。それが今の僕であり、そんな僕にこれはあまりにも辛い仕打ちだった。
──廣之くん。
──僕はずっと個人的に君の味方でいるよ。例えこの世界がどう変わろうともね。
心の奥で僕を呼ぶ声がした。
現実は非情だ。それでも僕はまだ友情を信じたい。なぜなら煌希は残酷な世界でもずっと優しかったからだ。今こそ優しさと強さを彼に返したい。
どこかに消えてしまった煌希に届くよう、僕は心の中からそっと彼に呼びかける。
──煌希、僕は気付いているよ。今度は僕が助けに行くからな。
今もなお、僕の大事なものは巨大な悪意が持つ何かの力によって搾取されている。それでももし、僕の知らない新たな歴史が始まったばかりだとしたら、これから僕がする行動によって良い方向に未来を修正できるはずだ。僕に過去を変える力は無いが、未来はいくらでも作り出せるのだ。この世には無数の選択肢と同じくらい無限の未来があるのだから、みんなを救う手立てはまだある。そう教えてくれた友人のためにも、今度こそ僕の思考で望む現実を掴み取ってやる。
僕がこの世界で理想の未来を完成させよう。
「あっ、こんな所にいたのかよ」
「委員長……?」
「廣之ってば、水臭いなあ」
膝を抱えていた僕が顔を上げると、下の階段から現れたのは呆れたように笑う委員長だった。彼の背後にはまだ誰かがいる。
「藤城くん。ごめんね」
「煌希まで……。どうして?」
委員長の後ろから顔を覗かせたのは、申し訳なさそうな表情をした煌希だった。僕はさっき適当な理由で煌希を追いやった。それなのに、ふたりがここにやって来た理由は何なのだろうか。
僕の疑問に答えたのは煌希だった。
「どうしても君の力になりたくて。僕は誰かを励ましたりするのが苦手だから、無理やり彼を連れて来たんだ」
「安心しな。教室にいた誰もお前の行動を不審に思っていないよ。お前が教室から飛び出した事は、俺が適当に誤魔化しといたから」
委員長は呆然とする僕に近付くと、僕と同じ目線になるようにその場に胡座をかいた。煌希も委員長の隣で僕と同じ体勢をとる。
「廣之。何があったかわからないけど、話してみたら楽になるかもよ? 自分で言うのもなんだけどさ、こう見えて俺も結構頼りになるんだぜ? 伊達に学級委員長も、野球部の主将もやっていないさ」
「そうだよ。いくら新学期の当日に、夏休みの課題の追い込みをかけていようが、彼はとてもできた人間だ。信じていいと思う」
「煌希。前半も褒めてくれたら、もっと説得力があったかな」
それまで悪戯っ子のような笑顔を見せていた委員長が、煌希の言葉でスンと真顔になる。その変わりようがおもしろくて僕が思わず吹き出すと、ふたりは顔を見合わせて満足そうに口角を上げた。
「ふたりとも、ありがとう。いつも僕の味方でいてくれて」
僕からお礼の言葉が自然と出た。ふたりはそれぞれ僕に朗らかな笑顔を見せてくれる。
「当然だろ! 困った時はお互い様だって!」
「そうだよ。それに、お礼を言いたいのは僕の方さ。藤城くんも僕の友達になってくれて、本当に嬉しいんだ」
こんな弱い僕にも味方はいる。だから優しいこの友人たちだけは、次こそ必ず何者からも傷付けないようにしよう。
人との縁の数だけ思い出が重なるのなら、記憶の欠片を辿ればいつかまた消えてしまった誰かと再会できるはずだ。僕の記憶の欠片が、他の世界にいるみんなを呼び戻す手掛かりになる。不思議な確証を得た僕にふたりは眩しい笑顔を向けてくれていた。なんて心強いんだろう。
彼らの協力を仰ぐため、僕は気を引き締めようと深く息を吐く。
「親友のふたりだからこそ、聞いてほしい話があるんだ。……頼む。僕らの世界を正常に戻すために、協力してくれ」
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