第二十話 飛び降り未遂
僕はジャズバーから自宅まで、山近は最寄り駅までの帰り道での事だった。
「君は聡いね」
「えっ? 急に何だよ?」
山近と一緒に歩いていた僕は、皮肉屋の彼からストレートな褒め言葉を不意打ちで食らう。
前にもここで突拍子もない事を言われたような気がする。今回は他に何を言ってくるのだろうか。というか、僕はどう反応したらいいんだ。こういう時の山近は真意がわかりにくい。
「君には一を聞いて十を知る理解力があるじゃないか。僕と皆川さんのマニアックな話についてこれたのが証拠だよ」
「それはふたりの説明が上手いからだってば」
「それに情が厚く、度胸もある。藤城くんは能天気というよりも、賢い楽天家なんじゃないかな」
「そ、そうかなあ?」
思わず声が上擦る。なぜ帰り掛けに褒めちぎられているのかよくわからないけど、悪い気はしない。
「君って、厄介な人だね」
あ、やっぱり上げて落としてきた。危ない、危ない。調子に乗るところだった。
「他人を手中に収めるのが上手いって言うかさ。人
眼鏡のせいで目が小さく見えるのもあるけど、光のない黒い瞳が僕に向けられる。淡々とした口調で語る山近はよっぽど日焼けしたくないのだろうか。信号機が青に変わっても、日陰に立ったままピクリとも動かない。
僕は迷わず真顔の山近に答えた。
「大丈夫だよ。僕は山近の味方だから」
「人の話を聞いていたかい? 僕と君は敵対関係で……」
「もしもの話だろ? 僕がそんな未来にさせないよ」
山近が目を見開くと、微動だにしなかった彼の眉がゆっくりと動いた。そんなに驚く事だろうか。
「ほら、行くぞ。山近」
歩行者と自転車専用の信号機は青のままだ。十字路を曲がる車もいない事だし、横断歩道を渡るなら今しかない。
「……いつからだろうね。君の根拠のない自信が嫌いじゃなくなったのは」
先に僕が横断歩道に足を踏み入れると、後ろで山近が寂しそうに笑っていた。
「山近?」
「こうなったら君にとことん付き合うよ」
自転車が僕の横を通り過ぎる。拳を握った山近はまだ動かない。
「君は強みを活かせばいい。僕もできる限り君を支えるから」
俯いたまま山近が一歩踏み出す。
「げっ、赤になる! 走れ!! 山近!」
「わかっているよ。叫ばないでくれ」
僕と山近は意味もなく走り出す小学生のように、じゃれ合いながらじめじめした暑さの夏を駆け抜けた。
「というか、藤城くんが先に渡っていれば良かったじゃないか」
「つれないこと言うなよ。あ、山近は夏休みの課題もう終わった?」
「とっくの昔にね。藤城くん、まさか」
「とうとう一週間切っちゃったか……。夏休みって、始まってみればあっという間に終わるよな」
僕は遠くを見つめる。すると、隣にいた山近から「余裕こいてないで早くやれば良かったのに」と厳しい意見を言われてしまった。こんな扱いには慣れっこだ。
「なあ、課題からテストの問題が出るんだっけ? どこが出そう?」
「どうしても知りたいなら、後でメールで教えてあげるよ。君はまず課題を早急に終わらせてくれ」
「おお! 助かるよ! ありがとう、山近」
持つべきものは友人だ。山近は頼られると弱い。そんな一面を知ったのも、僕が山近と話す機会に恵まれたからだ。
祖父の出来事から悲劇は始まったけれど、この世界は今も美しい光で包まれている。ジャズバーに向かっていた時とは違い、空は入道雲を一つだけ残して晴れていた。
自宅でお気に入りのジャズを聞きながら、シャープペンシルの芯で手の横を黒くさせていた僕は休憩と称してスマートフォンを開いた。
どうやら夏休みの課題から出るというテストの問題は、夏休み前に先生が出題範囲を教えてくれていたらしい。うたた寝をしていた僕は聞き逃していたようだ。その事が発覚すると、山近にはメール越しに正論で軽く怒られてしまった。次こそ山近には迷惑を掛けないようにしよう。
〈生ハムサンドイッチ、美味しかったね〉
机の横に置いていたスマートフォンがまた震える。メールを開いて見てみると、山近からそんなメッセージが来ていた。僕はあっという間に消えたマスター特製のサンドイッチの味を思い出す。昼間あんなに食べたのもあって、自宅に帰ってきてから夕食はそんなに食べなかった。そのせいか今になって小腹が空いてきたような気がする。
〈もう最高。思い出したら小腹が空いてきた。山近、どうしてくれるんだ〉
〈知らないよ。それより、僕らが代金を支払わなくて本当に良かったのかな?〉
山近の言う事は最もだ。正直、ジャズバーで軽食を出されるとは思っていなかったので、僕の場合だと所持金はドリンク代くらいしかなかった。なんと最初から皆川さんが奢るつもりだったらしく、僕らはありがたくそれに甘えさせてもらった。奢ってくれた皆川さんと、場所と料理を提供してくれたマスターには、後日また改めてお礼を言っておこう。
同じ事をメールで山近に伝えると、彼もそれで納得してくれた。
〈このサバイバルゲームに勝たなきゃね。皆川さんたちや、委員長や、君のご家族と一緒に〉
メールから山近の決意が伝わってくる。僕は今日の帰り道で山近に言われた事を思い出した。
──変化を楽しむと言っても、限度があるよね。手が加えられた今の世界は、誰かさんにとって単なるゲームなんだ。僕らはこの狂ったゲームの勝者にならなければいけない。
この人生をゲームに例えるのならば、僕は立て続けに起きた事件のせいで、ちっとも今を楽しめないと思っていた。僕らは参加を表明したわけでもないのに、勝手に狂ったゲームのプレイヤーにされている。そして、どこかの誰かによって作られた二元論に躍らされて他人と争い、大切な人を失っていくのだ。中には戦争で得られる利益に目が
このまま行けば、例え僕らの中で誰かが生き残ったとしても、サバイバルゲームの勝者は僕らじゃない。コロシアムを作ったことで利益を得られるゲームの開発者だ。
──君たちなら勝てるさ。断言するよ。
今日、ジャズバーでマスターは僕に力強い言葉をくれた。
──何かを創造できるのは君たちも一緒さ。なんせ私にとっては君たちが希望だよ。倫也くんも言っていたが、世界とは自分自身の事なんだ。この世は自分の考え方次第でいくらでも作り直せる。私は君たちのお陰で、この世も捨てたもんじゃないと思えた。だから、君たちも希望を抱いて生きる事を諦めないでおくれ。
真摯な表情をしたマスターの言葉は僕の胸にストンと落ちた。当然だけど、僕よりも説得力に深みが増している。
──君たちが私たちに絶えず伝え続けてくれ。それぞれが自分の心を見つめ直すべきだとね。私たちに内省を促す事ができるのは、藤城くん。君のような温かい心だ。誰かを救いたいと願う君のお陰で、私は初めてこの席で項垂れていた忠助さんを思いやる事ができたんだよ。本当にありがとう。
優しい
──世界とは、ずっと変わらず美しいものだったんだね。残された時間、この命で人を愛おしく想う事が、私にとって何よりの喜びだよ。
マスターのその言葉を聞き届けた瞬間、あの場所が、あの空間が特別なものに思えた。
儚く、優しい記憶の連鎖こそ、人の一生を
〈負ける気はないよ。変化だって、良い方向に変えて楽しんでやるさ〉
僕が強気のメッセージを送ると、山近から一言だけ返事があった。彼の事だし、きっと画面の向こうで嫌味っぽく笑っている事だろう。わかりやすい奴め。
〈期待している〉
*
これが夢だとわかったのは、僕が不思議な場所にいたからだ。
僕は辺り一面が真っ白な世界で、踏切の前に立っていた。すぐに踏切の警報が鳴り、線路が電車の重さで
僕が椿の木に気を取られていると、いよいよ電車が見えてきた。オフホワイトの車両に緑の横線が入ったデザインは、見慣れた秋田の在来線だ。
目の前を走る電車に違和感を感じたのはその直後だった。いつものように映像がスローモーションに変わる。車両には顔がぼやけた乗客がふたり、
「やめろ! 死ぬぞ!」
問題なのは電車の速度じゃない。いつの間にか線路が消えて底が見えなくなった、この空間だ。僕がこの場に立っていられるという事は、この踏切はそういう境界線だったのだ。
僕が必死に声をかけても、制服の彼には全く聞こえていない様子だ。彼が窓から片足と顔を出す。よく見ると、驚いた事にその顔は山近だった。
「やめろって!! 山近!」
山近も焦っているようで、車両から逃げ出す事で頭がいっぱいのようだ。いくら叫ぼうが、僕の声は彼には届かない。
──ああもう! 夢なら早く醒めてくれ! 早く、早く!
気分良く眠りについたはずが、何かの前触れかのように僕は悪夢で目覚めていた。どうしても山近に夢の中で飛び降りをやめてほしくて、僕が無理やりベッドの中で起きると、あまりの恐怖で心臓が暴れていた。身体は横を向いていたので、時間を確認するためにそのままの体勢で目を開ける。カーテンの隙間から覗いた空はまだ真っ暗だ。
それにしても、未だに呼吸が浅い。なかなか治まらない動悸のせいで少し気持ち悪くなってきた。こんな事は初めてだ。
──ひょっとして、これから何かが起きるのか?
嫌な考えが頭をよぎる。どこの誰だかわからないけど、山近までこの世界から連れて行かないでほしい。このあと何事もない事を強く祈り、僕は再び目を閉じた。大切な人たちの顔を思い浮かべながら呼吸を整えると、やがて深い眠りにつく事ができた。
次に目を覚まして以降、僕は連日のように浅い眠りを繰り返す事になる。ジェットコースターのような環境の変化と、不穏な予感が重なり、僕の心は悲鳴を上げそうだった。
地球の変化は僕の変化だ。僕が変わると、世界も変わる。地球の息吹と共鳴するように、僕の身体はこの世の終末が近い事を敏感に感じ取っていた。
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