第四話 冷たい夏

 僕は新たな境地に立たされていた。  

 これまでの僕はジグソーパズルを解くような軽い気持ちで、幾多の謎を生んだ祖父の発言や行動について調査してきた。

 気ままに情報を拾い集めてきた僕は今、ようやく一つの答えを導き出そうとしている。〈勉強〉の漢字と、イチョウの押し葉の栞が、ある単語に繋がったのだ。

 マンデラエフェクト、平行世界──。聞いたことがない言葉は、僕の知らない世界が同時にこの世に存在している事を証明した。

 もはや認めざるを得ないのだ。家族にも放棄された祖父の不思議な遺産は、未知の世界と辻褄が合ったのだから。

 いよいよ僕は、山近が言っていた「祖父がひとりだけ平行世界に飛ばされた」という説を信じ始めていた。

 それでも、僕はまだ心のどこかで「こんな嘘みたいな話があるわけがない。家族だって、作り話だと拒絶するに決まっている」との思いを捨てきれずにいた。

 なんとなく、抵抗を感じてしまう。

 真実を受け入れたくないのに、受け入れなくてはいけない。そんな矛盾した思いを抱えた僕は、完成間近のジグソーパズルを目の前にして、すっかり手が止まってしまったのだ。

 ──爺ちゃん。僕は一体、どうしたらいいんだろう……。

 心の中で、先月に亡くなった祖父へ問いかける。

 平行世界の移動なんて現象が本当にあるとしたら、なぜ僕の周りでは、祖父だけが違う世界へ移動したのだろう。そもそも、この世界がどこかの平行世界と繋がった理由は何だろうか。

 僕は何も知らない。いつ、どこで、何が起こったのかを。

 僕の中で、疑問がどんどん積み重なっていく。考えに沈んでいると、心の奥から、ジワジワとある思いが湧き上がってきた。

 ──もっと知りたい。祖父が見てきた世界の秘密も、祖父の人物像も。

 それは、紛れもない僕の本心だった。

 僕はそこでハッとした。

 今まで知らなかったから、たったこれだけの材料で確信するのが怖かったのだ。何も行動しないよりだったら、少しでも情報を集めた方が安心できる。

 未知のものを何の検証もせず、早期に白か黒かで決めつけて情報を遮断するのは、現実から目をそらしているだけだと気付かされた。

 僕は祖父や自分のためにも、この現実と向き合わなければならない。

 きっと、僕自身が「SFの世界なんてありえない」という固定概念に縛られていたんだ。僕はこの現象が起きたのか、どうしても知りたかった。

 自分の本当の心の声を拾ってやれるのは、自分しかいない。どうやら僕は先入観ばかりにとらわれていたようだ。


   *


 その後、自ら定めた行動制限から解放された僕は、思いのままマンデラエフェクトや平行世界の事を、学校や市の図書館で夢中になって調べてみた。ところが、自分で探しても、なかなか専門書が見つからない。

 助けを求めて山近から話を聞いたり、SF本を借りたりもしたが、残念ながら祖父の境遇に繋がるような新事実は発見できなかった。むしろ全く違う種類の情報や、真逆の説に振り回されるだけで、僕の考えの方向性が揺らいでいく。

 仮定の話ばかりではなく、確信が欲しい。だけど、望む情報が見つからない。

 僕はこのまま、平行世界が存在すると信じ続けていいのだろうか……。

 もやもやする気持ちを抱えながら、自分なりに平行世界やマンデラエフェクトなどを調べ始めて、あっという間に半月が経ってしまう。それでも確証が得られなかった僕は、ついに祖父の記憶違いについての調査に行き詰まってしまった。

 気が付けば、もうすでに夏休みも半ばだ。

 ぐるぐると渦巻く思考の中で、僕はいつも以上に重怠さを感じていた。

 ──あ、これは僕が好きな曲だ。

 自室の机にぐったりと頭を乗せていた僕の耳へ、静かな出だしのピアノの音が届く。それはまるで爽やかなロマンス映画の始まりを告げるような、優しくて美しい音色だった。

 僕が今、スマートフォンで聴いているのは、ジャズピアニストの代表格ビル・エヴァンスの"Waltz for Debbyワルツ・フォー・デビイ"という曲だ。僕が彼の音楽を知ったきっかけは、昨年の夏休みにテレビでジャズアニメを見た事だ。

 当時、ジャズの知識が全くなかった僕にとって、ビル・エヴァンスの曲は衝撃的だった。彼の代表曲の多くは、吹奏楽部の演奏でお馴染みの"Sing, Sing, Singシング・シング・シング"のような力強い曲調ではなく、軽やかながらも繊細で心地よいクラシックのような曲だったのだ。

 僕は彼の音楽に一瞬で心を奪われた。波長がピタリと合ったかのように、彼の曲が、僕の身体にすっと入ってきた。あの爽快感が忘れられず、いつの間にか僕が気分転換したい時に聴く曲は、ビル・エヴァンスと決まっていた。

 こうして少しずつジャズにハマっていった僕には、小さな夢がある。それは、ずっと気になっていたあのジャズバーで、マスターと小洒落たジャズ談議をしてみるという夢だ。

 あのジャズバーは、どんな内装をしているだろうか。ふと気になり、僕はここで未来を予想してみた。

 僕の勝手な想像だけど、白髪で無精髭を生やしたマスターと、カクテル片手に音楽をたしなむ僕か……。想像してみたら、ジャズについて知ったかぶりをする格好悪い僕が見えた気がして、僕はそこで想像するのをやめた。

 ──お、曲が変わった。この曲は確か、"You Must Believeユー・マスト・ビリーヴin Spring・イン・スプリング"だな。

 静かなワルツで始まるところは、さっきまで聴いていた曲と似ている。けれど、さっきと違うのは、この曲は美しくも、どことなくセンチメンタルな雰囲気だというところだ。

 僕はここで始めてゆっくりと息を吐いた。好きな曲にたくさん触れて、ようやく気持ちが落ち着いたからだ。

 祖父の事は一旦置いといて、引き続き僕は音楽について考えを巡らせる。

 それにしても、時代の変化は速くて大きい。僕はスマートフォンの検索画面を立ち上げた。

 なるほど。今からおよそ百五十年前、レコード音楽はトーマス・エジソンが発明した蓄音機と共に始まったらしい。やがてレコードはカセットテープへと変わり、更にCDの登場で音楽がアナログからデジタルへと進化する。インターネットが普及した今、音楽はスマートフォンのアプリで聴く時代になった。

 これは僕の主観だけど、音楽メディアが進化して音質が変わっても、人々が音楽に感動する事実は今も変わらない。それは、とても素晴らしい連鎖だと思う。

「そうだ! 調べる方法を変えよう!」

 僕は咄嗟とっさにひらめいた。時代はもう、アナログからデジタルへと移行したのだ。だったら、本で闇雲に調べるよりも、インターネットで平行世界に関連するキーワードを検索した方が効率がいい。

 それに、SNSなら最新の情報が得やすいはずだ。

「姉ちゃん! 僕にSNSのやり方を教えてください!」

「もう! うるさいなあ!」

 僕は新たな解決法を見つけた喜びで、興奮しながら階段を駆け下りた。その勢いのままリビングに突入すると、姉は早々に僕を邪険に扱った。ソファに座ってくつろいでいた姉には、心の中で頭を下げておこう。

 物事はノリと勢いだ。何を言われたって、今の僕は怯まないぞ。

「姉ちゃんはSNSを使っているだろう? 僕をインフルエンサーに……いや、今どきの高校生にしてくれよ」

「それよりもあんた、このアプリを使わない? 今ならポイントが付いてきて、これが千円分に相当するのよ」

 姉が勧めてきたアプリは、不用品を売れば儲かるフリーマーケットのアプリだった。どうやら、紹介者もポイントが大量に貰えるらしい。姉はちゃっかりしている。

「それは遠慮しておく。ねえ、姉ちゃん頼むよ。SNSの使い方を教えてくれ」

「面倒くさい。そんなのは使って行く内にわかるわよ。ていうか、珍しいわね。機械が苦手なあんたがそんな事を言うなんてさ。何が目的?」

「爺ちゃんの事を調べたいんだ」

「まだやってるの? 呆れた。そもそも、SNSでどうやって調べるつもり?」

 姉は怪訝そうな表情で僕を睨んだ。

 なぜ、姉という生き物は常に威圧感があるのだろうか。そんな風に振る舞うから、僕の同級生はみんなして姉を「音羽様」と敬称をつけて呼ぶんだぞ……って、そんな事はどうだっていい。

「爺ちゃん、もしかしたら平行世界を移動したかもしれないんだ」

「はあ? あんた何言ってるの?」

「僕もまさかと思ったけどさ、辻褄が合うんだよ。姉ちゃん、マンデラエフェクトって知ってる? 例えば漢字だと……」

「はいはい。もういいです」

「ちょっと姉ちゃん!」

 興味を失った姉が、僕の話の途中でその場を離れようする。

 僕は慌てて姉を引き留めた。

「ちゃんと話を聞いてくれよ!」

「興味ない。平行世界って、どうせただの作り話でしょう? 嘘の情報に巻き込まないでよ」

「嘘だと決めつけないでってば! もし、それが本当だったらどうするのさ⁉」

「その時は、その時よ。そんなデマみたいな怪しい話を気にしてる暇なんてないわ。こっちはあんたの戯言たわごとに、貴重な休みを使いたくないの」

 姉はそう言うと、リビングから出ようとして引き戸に手をかけた。

 姉の言うことも理解できる。そりゃあ、僕だって最初は疑った。でも、僕はずっと平行世界の証拠を集めてきたのだ。

 いくらこの手の話に先入観があるとはいえ、マンデラエフェクトの具体例の一つも聞かずにデマだと決めつけるのは、正直どうかと思う。

 まあ、これ以上言っても姉が怒るのは目に見えているから、今は口に出して言わないけども。

「じゃあさ、せめてSNSの使い方だけでも教えてよ」

「だから適当にやってみれば? 今どきの高校生はやり方も全部ネットを使って、自分で調べるのよ」

 僕に視線も合わさず、姉はスマートフォンを操作しながらリビングを後にした。

 やっぱり、僕の姉は不親切だ。自分で適当にやってみるしかない。

 僕はリビングのソファに移動して腰掛けると、さっそく目当てのSNSアプリをダウンロードしてみた。画面の案内に従い、個人情報を入力して登録を進めていく。途中で細かい設定の仕方がわからなくなり、インターネットで検索しながら、またSNSアプリに戻る。これを繰り返す。

 一連の作業を何とか無事に済ませ、ふと時計を確認すると、アプリをダウンロードしてからもう三十分も経っていた。ここまでひとりでやれた自分を褒めたいところだ。

 機械音痴な僕は、ようやく「マンデラエフェクト」の単語を入力して検索を始めた。

「うわ……。こんなにマンデラエフェクトを体験した人がいるのか……」

 僕は検索結果に驚いた。

 僕と同じように漢字の記憶違いを体験した人もいれば、有名な画家の絵画の記憶違いを体験した人、世界地図上の国の位置の記憶違いを体験した人もいる。記憶違いの種類の多さもだけど、僕はとにかく体験した人の多さに驚愕きょうがくした。

 考察内容もそれぞれとても深い。マンデラエフェクトを量子力学(また知らない単語だ)を使って考察している人もいれば、スピリチュアル的な考察をしている人もいて、その考えも随分と多様化されているようだった。

 対して、僕はマンデラエフェクトをぼんやりとしか把握していない。情報弱者の僕は、SNS内にあった様々な体験談や考えを読み漁るしかなかった。未知のものを腑に落とすには、たくさんの情報に触れるしかないのだ。

 その点、SNSもなかなか良いと思う。使ってみて始めてわかったが、文字数制限のせいで要点がまとめられている情報ばかりなので、短い時間で数多くの情報に触れられる。もちろん、明らかに怪しい情報だってあるが、それはそれで参考程度に理解しておく。結論を急がずに一旦保留にして、違う考えに触れてから、総合的に判断したらいい。焦りは誤解を生む。

 いつの間にか確立したスタイルで情報を処理していく中、ふと僕の目に留まった投稿があった。

 それは、つい最近の投稿だった。

〈ずっと使っている通勤路なのに景色がおかしい。お菓子屋の看板がいつのまにか変わっている。昨日の帰りに見た時は、看板の文字は赤かった。今は黒だ。俺の記憶違い? それとも、これがマンデラエフェクトか?〉

 文章の下に、お店の写真がちらりと見える。なんとなく興味を惹かれた文章だったので、僕は下にスクロールして写真を確認してみた。

 瞬間、僕の指が止まる。

 僕はその写真の店に見覚えがあった。その場所は、高校の通学路の途中にある、小さなお菓子屋だったのだ。

「姉ちゃん! ちょっと出かけてくる!」

「あっそ。行ってらっしゃい」

 僕は自室にいるであろう姉に向かって階段の下から叫ぶと、スマートフォンだけを持って家から飛び出した。

 自転車で行けば、あのお菓子屋まで十分もかからない。

 早くこの目で真実を確かめたくて、僕は短く息を吐きながら懸命に自転車を漕いだ。


「本当だ……! 黒い文字になっている……」

 店の前に着くと、確かに『中村屋』の文字が黒くなっていた。

 これは明らかにおかしい。

 中村屋は、僕が何年も毎日のように歩いていた通学路に面したお店だ。見慣れているからこそ、僕は余計に混乱しているのだ。

 僕も赤い文字の看板の記憶しかない。中村屋からは、前を通るたびにケーキを焼いているような甘い匂いがしていたし、季節のイベントごとにカラフルなポスターで新作メニューを宣伝していた。だから、入口近くにある看板はいつも目に入ってくる。何なら、夏休み中も僕は図書館利用でこの道を通っていた。そんな看板が、いつから変わってしまったのだろうか。

 僕はまばたきもせずに、長い時間その場にたたずんでいた。

 汗を吸い込んだシャツが肌に張り付いて気持ち悪い。

 夏なのに、空気が冷たく感じるのはなぜだろう。

「いらっしゃいませ。何かお困りですか?」

 全く気配を感じなかった。いつ店から出てきたのだろうか。

 看板を見上げていた僕に声をかけてきたのは、白いエプロン姿のおばさんだった。

 握った拳に力が加わる。

「いいえ……。あの、すみません。この看板の文字って……」

「はい? 看板がどうかされましたか?」

 おばさんは不思議そうな顔をしたものの、すぐに人当たりのいい笑顔を向けた。全く悪意がない温かい雰囲気が、僕に一呼吸置く余裕を与えてくれた。

 僕は彼女に勇気を振り絞って疑問を投げ掛ける。

「この看板の文字、前から黒色でしたか?」

「ええ。創業してから何も変わりませんよ。ずっと、このオンボロ看板です」

 看板にも愛着があるのだろう。おばさんは、ふふっと恥ずかしそうに小さく笑みをこぼした。

 僕はちっとも笑えなかった。

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