7.縁の下
探してみると、「校正・校閲」という名目で、きちんとひとつの分類がされていた。実務講座で名前を見かけた本も、何冊かある。適当に数冊を抜き出して、席に着く。そっとめくってみる。
手にした本には、どれも「校正」の文字がある。
じつはほんの
そもそもは、二度目の退職から一か月近く経ったころ。
なかなか地に足がつかない娘をみかねた父が、関係先の方からいただいた仕事が、文章の「校正」だった。
入稿前の社内史の校正。その社内の上のほうの、新田さんという方が、「鈴原さんの娘さんなら安心」と、(ごく限られた範囲ではあったけれど)いきなり大事業を割り当てたのだ。
用心深い性格が幸いしてか、「文章を文章としてではなく、文字を一字一字読む」という講座での教えになんとか従えたようだった。校正の方法もうろ覚えで、記憶を引き出すのにかなりの時間はかかったものの、なんとか期日までにやり遂げた。
今のところクレームは入っていないけれど、正直言って、今でも思い出してはいつか指摘が来そうで、思い出すたびに落ち着かなくなる。
とはいえ、その後も折に触れて校正や、テープ起こしのお仕事などもいただいていたので、どうやらその心配はなさそうだ。
主に広告やパンフレット、官公庁や教育機関の冊子、小説などの編集・出版に関わっている。
じつをいうと、収入はそんなには多くない。
けれど、前にもいったとおり、わたしはもともと物欲もなく、高い物にも関心がない。運転免許は持っているけど、事故がこわくて電車かバス通勤だったので、自家用車はけっきょく一度も持ったことがない。なので、駐車場代や車検費用、ガソリン代もかからない。
少ないけれど貯金もまだあるし、家賃が安いアパートなら暮らしていけている。
それでも、たまに家電の故障や、自転車泥棒(一度お気に入りを盗まれてから、安いものしか買わないと決めた)といった憂き目に遭うこともあるにはある。
話を元に戻すと、「校正」とは、編集作業のひとつだ。ちなみに、「校正」と間違われることも多いけど、さらに踏み込んだ「
「校正」の「校」の字は、「くらべる・調べる」の意味がある(と、教わった)。
「校正」業務では、原稿に記載された文字に誤字脱字などの誤りを正すのが主な仕事だ。その他、「わたし」や「私」が文書中に、統一されずに混じっているような、「表記の揺れ」にも目を光らせる。
「校正」という言葉に対し、漠然と「赤ペンを握って間違い探し」という姿を思い浮かべていたが、実際は校正作業用の記号や、出版業界独特のルールや用語が多数あり、今でもけっこう難しい。
自分の仕事次第で、「間違いを見つけることが仕事の人が間違えた」という、何一つ笑えない事態になってしまうため、けっこう神経を使う。
そういった事態はまだ個人単位で済むけれど、過去には「誤字による刷り直しにより多額の負債が発生」、「差別表現が含まれた書籍が世に出てしまい、責任者が引責辞任」といった事例もあるので、地味には見えるが、本当に気の抜けない仕事だ。
もうひとつの「校閲」のほうは、「文章の内容の正確さを磨く」お仕事だ。
「校閲」の「閲」は、「調査する、調べてみる」といった意味合いを持つ。
わたしは「校正」はともかく、「校閲」に携わったことがないので、教科書の知識なのだけど、「校閲」の作業は、「調査する」色が濃い。
極端な例しか思いつかないけど、例えば「わたしは〇町から少し歩いて、△町までいき、一息ついた。」という文章があったとする。
一見何の疑問もわかないようなシンプルな文章だけれど、物語の中で、〇町と△町が「けして近くない」ことを暗示する箇所があったらどうなるだろうか。
例えば、主人公は〇町に住んでいるのに、△町は「少し歩いた」距離にはどう考えてもないと感じられるような描写があると、「少し歩いて」という表現は、誤りになってしまう。いつのまにか、作者も気づかないままにそうした矛盾が生まれてしまっているのだ。
また、作者が使用している用語や事実が、客観的な資料と矛盾しないかなど、作品に応じた知識とスピード、文字に対する深い
といっても、やっぱりというか、「校正」も「校閲」も、職種としてはマイナーな部類のようだ。縁の下の力持ちなんだけど、本に名前が載ることもない。けれど、とても大事な仕事。
ちなみに、実際の出版物が、作成者の意図したものと同じものに仕上げることに従事する「色校正」担当の方もいる。そうした方は、主に広告やパンフレットの作成業務に携わっているらしい。
ざっと目を通して、静かに席を立つ。
比較的サラッとした、校正関連の本を何冊かと、気になっていた文庫を1冊、借りることにする。
四冊持って、もう一度あたりをうろうろしてから、そろそろ借りる手続きをしようかなと考えていたとき。
また、さっきの男の子だ。「ごめんなさい」を、わたしより先に言ってくれた子。
中学生くらいだろうか。まだ幼い顔立ちをしている。わたしの中学時代を思い出せば、3年生になってもギャーギャーうるさい男子もたくさんいたから、この子を三百回くらい見習ってほしい。
ただ、様子が少し変だ。棚にいるかと思えば、人が近くに来ると別の棚に行って戻ってくる。わたしとすれ違ったときも、同じ棚に戻っていたと思う。
本人には申し訳ないし、そもそも例え方自体ほめられたものではないけれど、男子中学生がアダルトコーナー周辺をうろうろしている感じと言ったら、伝わるかな(
けど、ここは図書館だ。当たり前の話だけど、そもそもそんなコーナーはない。せいぜい保健体育的な本くらいだろう。
それにしても、一度や二度ではたまたまだと思うけど、三度目ってどうなんだろう。何か気になる本があるというのはそうなんだろうけど、だったらゆっくり眺めていたらいいのに。
内心「ごめんね」と言いながら、斜めに離れた棚の一角から、様子をうかがうわたし。不審者。
くだんの彼は、またちがう母子が通り過ぎたあとに、またその棚に戻っていた。
わたしがその時疑っていたのは、万引きだった。
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