4.炭酸
本業が休みの、四月の二十八日。
とくに用事もないのに六時過ぎに目を覚ましてしまった。まだ在庫はあるけど、コンビニまで煙草を買いに行った。
アパート前に飛んでくる弁当の空箱やビール缶が、そういえば少なくなった。
花見の季節も、本格的に終わったということだろう。
それにしても、四月というものは、一年ごとに重くなるものなのか。
いや、誕生日がうれしくないとか、そういうのじゃなくて(そもそも、わたしは四月生まれでもない)。
帰宅して、ふと広げたままになっていた本に付箋を挟む。
机の上の、とっくに炭酸の抜けた元炭酸水を飲む。
自分は将来あまりうまくいかなくなる、という予感がしていたのかもしれない。
もともと漠然と「書く」という行為が好きだった。「書く」といえば作家や記者を思い浮かべたけど、わたしには向いていないのはわかっていた。だから漠然と、「文」に関わる何かをしたいという気持ちがあった。
校正実務講座のことは、大学の夏季休暇中、たまたま知った。
「文部科学省認定の通信講座で資格を取得」という言葉に目が引かれた。
けして安くはない受講料だったけど、文科省認定ということなら変な資格ではないだろうと、お金のあるうちに申し込んだ。
結果、いろいろ悪戦苦闘しながらカリキュラムを終えた。
講座の修了者は任意で「校正士」の資格試験が受けられるということだったので、腕試しにと受験することにした。実際は腕試しどころか想像以上に難しかった。
あとから聞けば、校正業務の経験者も含めて合格率は高くないという話だった。
何回か受験してようやく、という人もいて、今となっては、それも深々と
二度目の派遣時代、あのころ、漠然と、「ここには必要とされていない」と思っていたころ。
わたしは何を思ったか、有名どころのクラウドソーシングサイトに、かたっぱしから「ライター」登録し、文章にかかわる業務を募集した。「事務の経験あり」、「校正実務講座を修了しています」、「記者ハンドブックを使用します」といったアピール文を添えることができたのは、ラッキーだった。
収入としては微々たるものになるのは、わかっていた。収入は大事だ。けれど、それとはちがうものを、じつは少しだけ期待して待っていた。
甘かった。
依頼主から見たわたしは無名の新人、名無しの権兵衛どころか、見ようによってはどこぞの馬の骨くらいの「ライター」だ。
待てど暮らせど来ない依頼に、選んでもらえない応募。
もう永遠に仕事なんてこない気がして、値下げを繰り返す文字単価の提示。
それでも無暗に単価を下げてばかりもいられなくて、半分泣くような思いで何日も上げ下げした。ようやく依頼をもらえた仕事は、会議のテープ起こし。代金は、自分が「最低価格」と思っていた額と、同じ。
期日があることも考えると、本業に締め切りありのきつくて安い仕事を加えてしまい、「副業」どころか、ただ負担が増しただった。
「校正士」の資格を取っておけばよかったのか、今からでも遅くないから何かほかの職に変えた方がいいのか、けど、もうどうやったらいいか、生活でいっぱいでわからない。わたしの文章にかかわる仕事は、そういうスタートの仕方をした。
その後いろいろご縁があって、今わたしは、派遣社員として出版社で仕事をしている。事務の時代よりも時給は少し高くて、そのぶん変に「ライター」を兼務していた時代よりも、心身ともに安定している。
けれど、今の先。将来。
もちろん正社員として転職、という道を見据えるべきなのだけど、将来的にどうしたいのかは、じつはよくわかっていない。
今の仕事は仕事である以上、もちろん全力で頑張っている。
だけど、いつまでもできる仕事ではない。
けど、そこからどうするか。それは正直なところ、よくわからない。
わたしのことなのにね。
実家に顔を出せばそろそろ結婚、結婚を会話のどこかで必ず言われる。
もともと、好き嫌いとかではなくて、家族なのになんとなく一緒にいると気まずいことになってしまうこともあって、最近はさらに足が遠のいている。
そもそも簡単に結婚、結婚というが、わたしには肝心の交際相手もいなければ、その気配もない。
二度目の退職のあとは、すぐにでも派遣会社にまた顔を出そうと思っていた。
けれど、あちらにもわたしの「騒動」は当然伝わっているだろうし、それはたぶんそれなりに「共有」されているかもしれなくて。そう思ってしまったら、ね。
そういうこともあって、しばらくためらっていたのだけど、他の派遣会社に登録してみると、今の仕事を紹介してもらえた。
もしかしたら「共有」されていたのかもしれないけど、中身はともかく、書類上は、単なる「体調不良」の四文字で済んでいたのかもしれない。
できる人間、というわけでもないけど、めちゃくちゃできない人間、というわけでもない。
たぶん、職場内での
時々思い出す、おそろしく早口のプレゼンのテープ起こしの依頼。あれは一番つらかった。
単価が少しだけ高めなのにつられて引き受けたけど、まったく聞き取れず、打ち込む文字数も増えなかったときもあって。
これで納期に間に合わなかったら、ただでさえ少ない評判に、悪評がついてしまったら・・・。
あのときはそう思って、こわくてこわくて、疲れ以上の理由で、指が震えた。
そんな場面も、けっこうあった。あるのに、生活の余裕はぜんぜんなくて、毎日がやっとだった。土曜日日曜日、もっといえば休み時間なんて、遠く存在しない世界。
我ながら、要領が悪かった。でも少なくとも、そんな時代はもう終わった。
PCと手帳を開き、今日のスケジュールを確認する。
本業が休みの日は、クラウドソーシングで、簡単な記事の作成や、動画の文字起こしなどを請け負っている。
これがメインの副業だけど、もちろん派遣元には、これこれこういう内容の仕事を掛け持ちしていいかと、相談したうえで行っている。
たまに隠して副業を行う人もいるらしいが、住民税の額なんかでバレるらしい。「鈴原さんは勤務態度も評判がいいし、隠し事をしないから助かります」と、担当の
スケジュール長とPCの中身を照らすと、とりあえず今日は半日作業すれば、特に急ぐ要件はなさそう。
となると、一日かけてゆっくり作業してもいいのだけれど、わたしはそういうとき、午前中にまとめて片付けるほうを選ぶ。夏休みの宿題を、まず終わらせるタイプ。
ひとつあくびをして、今度は、スマホを開く。
こちらも今日は、依頼が来ている。中途半端な時間だけど、少し食べに行こうか。
食べ終えた食器をシンクにおいて、朝のぶんと一緒に洗う。また帰って洗うとなると、面倒さが倍になる。
ブドウ糖のタブレットを噛む。栄養ドリンクより、無害で安いし、甘いだけで、そんなにぱかぱか食べたくなる味でもない。
そして、デザートに目薬。特に朝食を食べたいという気分でもない。
とりあえず、ぼちぼち作業をしてしまおうか。
ちなみに、午後からはもう一つ予定が入った。さっきの「依頼」だ。
今日は、あの辺りか。そういえば、行ったことがない場所だ。
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