02.
「まーた来たんですかー。その狼」
「三珠さん、ほんとに上がってもらって大丈夫なんですよ?」
「俺はそこまで薄情じゃないんでー」
「……では、消毒液とガーゼ、テープもお願いしていいですか?」
口を尖らせた三珠に対して安心院は仕方なさげに表情を緩める。診察台に促された宵は数秒だけ三珠に視線を向け、腰を落ち着かせた。手袋をつけた安心院は宵の顔に触れる。
「砂などは入っていませんね。手は……少し洗浄しましょう」
「……ん」
淀みなく処置を始めた安心院に対し、宵の瞳は静かに細められる。狼の尾は診察台の上を静かに滑り、手袋越しの体温に力が抜けた。
狼と人間、どちらにもなり切れない彼は半端者である。安心院のように人間の性格と鬼の身体能力をバランスよく有している訳でもなく、三珠のようにどちらの要素も強く表れているわけでもない。
異種混同が広がる昨今、これは一つの社会問題だ。半端な人外は人間側にも人外側にも馴染むことが出来ず、進学や就職の際に弾かれることが多い。望まれて生まれた筈なのに、愛の弊害を受けた彼らの道は暗い。
宵も正しくその一人だ。狼にも人間にもなり切れない彼は父の紹介でボディーガードの仕事に就いているが、荒い役を任せられることが多々ある。しかし他に行き場のない人狼は黙って従事し、怪我をして路地裏で
『怪我されてますね』
『……ども』
二人の出会いは淡白なもので、鬼女は怪我をしている人外がいるというだけで手を差し出した。自分の病院に連れて行き、怪我をしている理由は深く聞かない。無理やり踏み込むことはしない。
だから宵も、安心院の元へやってくる。おおよそ時間内に来られたことはないのだが、この鬼は患者を邪険に出来ないという点に甘えていると言ってもいい。
三珠は「追い返せ」と抗議することが頻繁にあるのだが、苦笑した安心院が患者を拒むはずもない。気づかなければいいものを、気づいてしまえば見過ごせない。見なかったことに出来ないのが彼女だ。
イカ耳状態の三珠は嫌味を込めて同僚を見た。
「せんせーはお人好しが過ぎるんですよー。だーから病院閉めて俺と慰安旅行に行けないんですー」
「三珠さん、そんなに旅行に行きたいんですか?」
「そーじゃねーですね」
「では仕事を休みたい、ということでしょうか? そうですよね。三珠さんには日々お忙しいことを任せている自覚はありますので、」
「あーあー消毒液の追加持って来まーす」
尻尾を勢いよく振り切った三珠が診察室を出て行く。音を立てて閉められた扉に安心院は首を竦め、宵の頬にガーゼを当てた。狼はゆるりと目を細める。
「……旅行、行くんすか」
「え、あぁ、いいえ。私ではなく三珠さんが希望されていまして、お休みを取っていただいて構わないと言ったんですが……」
ガーゼを止めるテープを切り、安心院は眉を八の字に下げる。「難しいですね」と笑った彼女に宵は尻尾を緩く揺らした。夜が更ける路地裏の地下では音という音が存在しない。響くのは安心院の作業音と宵の尻尾の動きくらいだ。
「先生は、行きたいんすか……旅行」
「うーん、私は別に、ですかね」
「……三珠の、あれ。先生に息抜きして欲しい、ってことじゃねぇんすか」
「あー、えぇ、きっと」
安心院は宵の手を取る。擦り切れた手の甲に絆創膏を貼りながら、鬼は仕方なさそうに目を細めた。
「息抜きならしてるって言ったんですけどね」
「……そう、なんすか?」
「はい。休みの日に駅前のカフェに行ったり、買ったけど読めてなかった本を読んだり。街外れの丘に夕陽を見に行くこともありますし」
目元を染めて安心院が笑う。宵は狼の耳をゆるく動かし、手当された拳に視線を向けた。
「いる時は、言ってください」
「うん?」
「ボディーガード……以外でも、荷物持ちでも、なんでもするんで。なんか入用な時、は……」
顔を上げた狼の、金の瞳が照明を受けて微かに光る。安心院はゆっくり瞬きし、宵はぺたりと耳を伏せた。微かにうろついた瞳には影が落ちる。
患者の様子を見つめる医者は、柔らかく頬を緩めるのだ。
「ありがとうございます、宵さん」
宵の耳と尻尾が咄嗟に立つ。微かに丸くなった目は安心院を凝視し、鬼女は手慣れた動きで治療道具を片付け始めた。宵は治療された自分の手を撫でる。
「はい戻りましたー」
「三珠さん、ありがとうございました。でも、消毒液、足りちゃいましたよ?」
「あーそーですか。それならそれでいーんですよ。俺の本題はこっちだったんでー」
三珠が持ち上げたのは買い物袋。消毒液を取りに行くだけにしては時間がかかっていると思っていたが、彼は院外のコンビニまで行っていたらしい。
「俺は焼き魚のサンドイッチが食いたかったんすよねー。せんせーはアルコール練り込まれたパン買ってきましたよー」
「わ、え、ありがとうございます」
「夜食ですよー。腹減ってたんでー。どっかの誰かが診療時間外に来るからー」
三珠はじとりと宵を見て、狼は少しだけ肩を縮める。かと思えば膝の上に肉が挟まったサンドイッチが投げられて目を瞬かせたのだ。
「これ……は、」
「ついでー。お前の分も買っとかないと、このお人好しせんせーが食べないだろうからー」
「あり、がとう」
「ついでだって言ってんでしょー」
三珠は大きな口で夜食に齧りつき、宵も手を合わせてから包みを剥ぐ。そんな二人の様子を微笑ましそうに見ていた安心院に三珠は眉を寄せるのだ。
猫は多くの文句を食べ物と共に嚥下する。鬼女も酒の匂いがするパンを
三珠の尻尾がゆっくり揺れている様を宵は一瞥し、己も与えられた肉を咀嚼した。
「で、旅行先決めましたー?」
「諦めませんね、三珠さん」
「俺、あったかいとこに行きたいとは言いましたけどー、暑いのは嫌なんですよねー。適度な場所がいいでーす」
「そんな良い感じの場所ありますかね?」
安心院はタブレットを出して一応検索をかけてみる。彼女の動きに三珠の猫耳は元気に立ち上がり、キャスター付きの椅子で安心院の隣に移動した。宵は二人の顔を見ながら顎を動かしている。
「俺は海より山派なんすよー。都会はやめましょー。グランピングしたいなー」
「ぐらん……?」
「グランピング。初心者向けのキャンプのことですねー。テント張らなくていいしー、色々準備も整ってるから楽らしいですよー」
「三珠さんはグリーンセラピーをご希望ですか?」
「いや別にー」
三珠は安心院のタブレットを覗き込み、六本の腕それぞれを動かす。一本は提案するように人差し指を立て、一本は夜食を持っている。一本はタブレットの画面を滑り、残り三本は開いたり閉じたり。その忙しなさに慣れている安心院は微笑んで相槌を打っているが、宵は視界の情報が渋滞気味であった。
瞬きした宵は指を舐めてサンドイッチを食べきる。手を拭いてから異者と薬剤師の背後に立った患者は、綺麗な景色の映ったタブレットを見下ろした。
「……盗難対策、寝ずの番、なんでも言ってください」
「いやいや何言ってんだよお前は連れて行かねーが?」
「寝ずの番は健康に悪いのではないでしょうか」
「大丈夫っす……狼は、夜に強いんで」
「マジで連れて行かねーからな?」
「良かったですね三珠さん。宵さんが同行してくださるなんて。お土産楽しみにしてます」
「せんせーは問答無用で連れて行きますんで覚悟しといてくださーい」
「あら?」
「荷物持ちが……いると思う」
「いらねーでーす。俺の腕見ろよ六本もあるんだよバーカ」
「バカはやめましょうよ、一緒にキャンプするお相手なんですから。ぜひ楽しんできてくださいね」
「せんせー働きすぎですねー。なーんでコイツと二人の流れで話進めてんですかー」
「……行くなら、一ヶ月は待って欲しい。俺、明後日から長期で出張だから」
「お前は目だけじゃなくて耳もバカなんかー?」
三珠は得意の同時進行で的確に宵と安心院の言葉を切っていく。二本の腕は軽く宵を殴り、一本の腕は安心院の後ろ襟を掴みながらだ。
強めに尻尾を振る三珠に安心院は肩を揺らして笑い、宵は目を瞬かせる。三珠は肺の奥底から溜息を吐いた。
「ほんとにー、俺この狼嫌いでーす」
「俺は三珠……嫌いじゃねぇけど」
「やめろ鳥肌立ったー」
「仲良しでいいじゃないですか」
「せんせーまで鳥肌増すこと言わないでくださーい」
三珠は「嫌だ嫌だ」と首を振る。狼は力のない尻尾を揺らし、そっと鬼女に伸ばした。
尻尾の先は安心院の白衣を弱く撫でる。気づいた鬼女は宵を見上げ、影の落ちた金の瞳を認識した。
「……先生も、嫌いじゃないっす」
「それは嬉しいです。ありがとうございます」
笑顔の花を咲かせた安心院に宵は耳を伏せる。それからゆっくり視線をタブレットに戻そうとして、目を
三本の腕が宵の腹部に重たく決まる。瞬発的に安心院の平手も三珠の頭部に入り、診察室には腹と頭を押さえた人外が二人、出来上がったのだ。
「三珠さん! 暴力反対です!」
「言動が一致してませんよせんせー」
安心院は自分の手首を掴んで「あ、あッ、すみません……」と顔を青くする。鬼女の表情に猫と狼は息をつき、三珠は椅子を意味なく回転させた。
「はーあ、せんせーにも殴られたしー、今日はもうかいさーん」
「い、痛かったですか、三珠さん、ごめんなさい、ぁの」
「いや全然? せんせーちゃんと手加減してくれるじゃないですかー」
肩を落とした安心院に対し、三珠は八重歯を見せて笑う。大きな手の一本を鬼女の頭に乗せた猫は尻尾を元気に揺らしていた。
安心院は同僚を上から下まで目視して頷く。三珠はそれでも頭を撫で続け、支払いの準備と帰り支度を始めた宵を横目に見た。
「もー診療時間外に来るなよー。喧嘩もほどほどにしろー」
「……喧嘩では、ない。今日は、急に突っ込まれただけだ」
「突っ込まれた、ですか?」
安心院は頭に乗った三珠の手を掴み、宵に視線を向ける。その目は既に異者に戻っていた。宵は首を縦に振って治療された手を摩る。
「ヤマアラシ……みたいな、奴っす。なんか叫んでたんで、薬でもやってんのかと」
そこで宵は気づく。安心院と三珠の空気が変わった事に。安心院は宵の前に立ち、狼は唾を飲んだ。
真剣な鬼の目には意図しない鋭さが乗っている。
「ヤマアラシ、でしたか?」
「……ヤマアラシ、でした。冷たい男で、背中丸めて突進してきたから、殴ったんです」
宵の説明に安心院は微かに息を呑む。三珠の眉間からは皺が消え、薬剤師と異者は視線を交差させた。首を傾けた宵は安心院の質問を拾っていく。
「その方、関節が固くなっていませんでしたか?」
「……言われてみれば。殴ったの、氷かと思ったんで」
「叫ばれていたのは、抱き締めて欲しいとか、そういった内容ではなかったですか?」
「あ、そう、そうっす……抱いてくれって叫んでたんで、耳貸さなかったんです」
「……その彼は、その後?」
「丸まって倒れてたんで……一応救急車呼んで、終わりました」
安心院は「そうですか」と眉を下げ、宵の手を撫でる。狼は鬼女と猫を交互に確認した。三珠は肩が下がるほど深く息を吐いている。
「確定かなー」
「でしょうね」
「……なんか、病気だったんすか。アイツ」
「えぇ、きっと。あ、でも、接触で移るとは言われていないので安心してください」
宵は別に自分が病気になろうとも構わなかったが、安心院の目が心配そうに揺れたので頷いておく。顎を引いた安心院は宵の手を温かく包み、小さく言葉を零すのだ。
「――ヤマアラシ症候群、ですね」
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