ヌース、兎、ズッキーニ。

脱水カルボナーラ

第1話 暇な営業日

 ここは何をしても何をやらかしても何を言ってもいい私だけの空間である。全てに等しく用意された個々人の絶対にして無限で、五感の先に存在し、意思が及ぶ最深部。心とは、粘土か、キャンバスか、砂場のようで、その手を汚しながら形を造り続け、そしていつかこの星よりも重く大きなものとなる。誰に愛されようと、誰を憎もうと、この心は創造主である私唯一人のみが立ち入るべき聖域であり、破壊するのもまた私であるべきなのである。

 今私は脳の中で爽やかな潮風に吹かれ、絹のように柔らかな砂浜を裸足で歩いている。これは幻ではない。まごうことなき本物であり、完全な複製である。神経の反応である五感すら、ここでは私の意思の奴隷に成り下がる。今、甘酸っぱいカクテルを口にした私が言うのだから、間違いない。兎の耳が揺れる。この平穏は私のためだけにある。私が即興かつ今までの人生で味わった記憶の全てを動員して作り上げたこの場所の静けさもまた、私が心地よくあるために私自身が作り上げた意識の寝室、公園、牢獄なのだ。だから奥に見える火山が噴火することも、無限に広がる蒼穹の彼方から隕石の雨が突如降り注ぎ始めることも、大地震が起こって津波がやってくることも、断じてあってはならないし、起こらない。

 心の中に美しい世界を思い描いて、そこに閉じこもるために必要なのは、無限の想像力と、そして冷静さ。今、経営している喫茶店ががらんどうだろうと、動じてはいけない。どうせ今日も暇なのだから。

「あー」

私は、バイトの声を無視した。

「あーー」

また、無視した。

「あーーー」

聞こえない。私はこれからサーフィンを楽しむのだ!

「あああああああああああ、もう、暇っすねぇ!」

サーフボードが転覆した。一番拘った珈琲色の皮のソファのところで、あり得ないほど大きな態度で座り込んで嘆いているのは、この店でただ一人だけ雇っているアルバイト、滝川である。

「忙しいのも最悪だけど、こんな、閑古鳥が密集するようなレベルでガラガラなのも、“人参房”の看板娘、滝川としては非常に由々しき事態っすよ。店全体が辛気臭くなって、新しいお客さんもこれじゃ来づらいっしょ。ってかもう帰っていいすか?」

この滝川——適当に雇ったはいいものの非常に口が悪く、さらにこの店の看板娘まで名乗り出してもう久しい。迷惑だと一言で切り捨てられたらどんなに楽なことか。しかし困ったことに、もう二年半ほどここで働いているこれが居ないと、稀に店が忙しくなった時は全く店が回らないのだ。無論、今は暇でこれを雇っているメリットを全く感じられていないのだが。

「……滝川、窓でも拭いて来て」

雑巾をカウンター越しに差し出すと、滝川は心底嫌そうな目を金縁の丸眼鏡の奥から覗かせた。

「……昨日もやったじゃないっすか」

「働け。給料泥棒」

「シフトガンガン入れて僕以外に他の人雇わないし、しかも給料もずっと据え置きなくせによく言うっすね!」

ソファから起き上がって、滝川は歯軋りした。滝川の黒いワンピースの上では、本人の人格をマイルドに象徴化したような、赤い毒キノコのブローチが輝いている。毒キノコだと本人が言ったわけではないが、私はあれを毒キノコだと確信している。

「はぁ……拭き終わったらレモンケーキ食べていいからさ。どうせ余るし、二個いいよ」

ショーケースを指差して、渋々でも滝川を働かせて少しでも静かにさせようと、私は開発に三年費やし商品化に漕ぎ着けた、自信作のレモンケーキをくれてやることに決めた。

「やったー!」

滝川は非常に単純で、目の前に人参を垂らして、なおかつ人参をやるという確約さえしてやれば何万里も走ることのできる愚かで優秀な馬のそれと全く同じ性質を持っている。滝川はすぐに窓を拭き始めた。

「ふんふふーん お前の家は駅から徒歩三十分——ってアレ」

奇妙な鼻歌を歌いながら窓を拭いていた滝川が、その向こうに何かを見つけたようで、手を止めた。

「何?」

「いやーなんか、お客さんかもっす。しかも、ご新規」

滝川の目線の方を向くと、静まり返った店先に、見慣れない少女が一人突っ立っている。少女の印象を一言で言い表すなら、美人とか、そういうのよりも、奇妙。奇妙だった。

 黒よりも黒く見える藍色の髪の毛は伸び放題で、片目が隠れている。これまで一度も太陽に曝されたことのなさそうな青白い肌、髪の毛から覗かせている片目もまた、生気というものをまるで感じられないプラスチックのような質感で、目元は下手な化粧のようなくまで痛々しい。着ているというより、纏っているものはビニールか何かで出来た布で、真ん中に穴を開けてそこから頭を通して被っているようだった。

「いやーアレは……お客さんじゃないと思うけど……」

誓って私は、客を外見で差別はしない。しかし、呑気に喫茶店でお茶をして行こうとしているようには見えなかった。

「いらっしゃいませー」

こういう時の滝川は大概、厄介である。滝川は我が店人参房に、店主である私の見解を聞くでもなく、あの少女をわざわざカウンター席にまで引っ張って迎え入れて来た。

「あー、もう連れて来ちゃったのね」

代金は払えるのか? などと無粋な質問をするわけにもいかない。彼女がどんな人間であれ、客はもてなすものだ。

「いやーお姉さん、見かけない感じっすけど、風変わりな格好してますねえ。あ、すみません。ご注文伺います」

少女は滝川よりも二十センチほど背が高かった。

「——ず」

「ん?」

「水を——」

少女は乾いた紫色の唇を震わせていたので、私はこの少女が死相が出ているようにさえ見えるほど顔色が悪い原因を、なんとなく悟った。

「もしかしてお姉さん、死にかけっすか?」

滝川が唇をすぼめながら、少女の顔を覗き込んだ。

「聞いてる場合じゃないだろう。全く。水、どうぞ」

少女は何も言わずに、差し出したコップ一杯の水を息継ぎせず飲み干した。

「もう一杯、いります?」

この少女を見ていると、萎れた植物を見ているような気分になる。おそらくどこかの街から逃げてきた娼婦だろう。ここのあたりでは珍しいものではない。少女はもう一杯、縋り付くようにコップを両手で持ち上げて飲んだ。

「っ……」

相変わらず無表情だったが、少女は水を飲んで、少し生き返ったように見えた。

「どっから来たんすか?」

滝川は馴れ馴れしく隣の席に座り、少女に話しかける。

「こら、滝川、プライベートは詮索するもんじゃ——」

私が滝川を咎めるよりも早く、少女は震える声で答えた。

「……下」

私も滝川も、彼女の言っていることが全く理解できなかった。

「え? 下って、川の下流の方ってことですか?」

「違う……下」

彼女は、青白く痛々しく痩せて骨張った人差し指を真下に向けた。

「ま、色々あるっすよね〜」

滝川は気遣ったのか、雑に話を終わらせたのかいまいち分からない。十秒ほど、沈黙が訪れた後、誰かの腹が大きく鳴る音がした。まるで、唸る獣のようだ。顔を赤らめていたのは、少女だった。

「見るからにお腹減ってそうな感じっすもんね。店長! なんか食べるもん出してあげてくださいよ!」

滝川は無邪気に笑った後、食物連鎖の最下層の小動物が、威嚇をしている時のような顔で私に発破をかけた。

「分かってるよ! うちも慈善事業じゃないけど、そんなにひもじそうなら、ね——」

私は湯気の立つ皿をカウンター越しに少女の前に置いた。

「うちのカレー、結構美味しいんすよ。一日二十食限定なんすけど」

「私が研究に改良を重ね、私が一人で到達したカレーだよ。よく味わってね」

何故か滝川が得意げにしていたので、私は自らの功績であることを主張しながら、少女にスプーンを渡した。オニオンスープも出してやろうか。

 しかし、彼女はスプーンを握った後、カレーに手をつけなかった。

「あれ? もしかしてカレー苦手っすか? クリーム入れてマイルドにもできますけど」

少女は俯いたままだ。なんということだ。空腹状態の人間が、私のカレーを前にして我慢できるはずがない。現に私がマスク越しに漂ってくる香りに食欲を我慢できそうにないというのに。少女はスプーンを握りしめたまま、ゆっくりと首を左に向けた。

「——あ、来る……」

「待ち合わせだったんすか?」

滝川と私は、少女と同じように店の入り口の方を見ると、絶句した。

「なんだ、アレは……」

「分かんないっすけど……なんか、ヤバい感じじゃないですか」

ガラス張りの入り口側の壁の向こうに、それは居た。客ではないことだけは確かだ。この少女と違って、あれはおよそ人間ではないことが一眼見て分かった。粘状の、半液体と言うべきか、半固体と言うべきか、とにかく不定型の暗黒物質、コールタール、未知の何か。生き物のように蠢き、ぐちゃぐちゃという擬音がこの世で何よりも似合う。何か、意志のようなものを持っているようにさえ見える。私たちを、狙っているのが本能で分かった。

「わあっ!」

それはいきなり、窓を勢いよく突き破って店内に入ってきた。

「な、なんなんだアレは! 戦争で使ってる新型の兵器か!?」

「分かんないすけど、とにかく入店拒否っすよ!」

滝川は勇敢にもモップを手にとって蠢く黒いそれに立ち向かい、

「帰ってくださ——ギャン」

呆気なく吹き飛ばされた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る