第四話 海の王者だ、リヴァイアサン!

宿命の銛打ち

「リヴァイアサン、リヴァイアサン……」

 その老人は、しきりにそう呟きながらさまよっていた。

 いや、ボロボロにすり切れた衣服とすっかり色を失った頭髪、そして、顔中に刻まれた苦悩のしわ。それが年寄りに見せているだけで、実際には『老人』と言うほどの年齢ではないのかも知れない。

 そう思わせるぐらい、全身を包む筋肉はたくましかった。

 背も高い。

 腕も太い。

 とくに右肩の筋肉は異様なまでに盛りあがっている。まるで、山ひとつをそこにもってきて載せたようだ。ひたすらに、敵目がけて投げ槍を投げ付けることを練習してきた投槍兵のような肩だった。

 左足はない。左のひざから下は人間の足ではなく、単なる木の棒だった。

 右目には眼帯。

 片目片脚のぼろぼろの老人。

 それが、その人物の印象だった。

 もし、老人と言うほどの年齢ではなく、その筋肉にふさわしい壮年の人物だと言うのなら、そんな年代の人物をこれほどの年寄りに見せている苦悩とはどれほどのものなのか。

 そう思わせる人物だった。

 「リヴァイアサン、リヴァイアサン……」

 老人――にしか見えない人物――は、しきりにそう繰り返す。

 「リヴァイアサン。リヴァイアサン。神はなぜ、きさまのような悪魔を海に解き放ったのか。なにゆえに、卵のうちに滅ぼしてしまわなかったのか。いや、神の思惑おもわくなどどうでもいい。神がきさまが生まれ、生きることを認めたというのなら、おれがくつがえす。このおれが必ず、きさまを殺す」

 リヴァイアサン、リヴァイアサン……。

 老人は、まるで詩でも詠むかのように呟きつづける。

 「……おれは忘れていないぞ。忘れてはやらんぞ。例え、一〇〇年、一〇〇〇年たとうとも。きさまの起こしただい海嘯かいしょう。あの悪魔の高波によっておれの生まれ育った港町は壊滅した。おれの家族も、友人も、仲間たちも、はじめてできた恋人でさえ、一夜にして殺された。おれ自身も右目と左足を失った。だが、おれは生き残った。

 リヴァイアサン、リヴァイアサン……。

 おれを殺さなかったことはきさまの最大の過ちだ。あの一瞬がおれの人生をかえた。単なる銛打もりうちの船員であったこのおれが、あのときからきさまを殺すことだけを目的とする復讐者となった。

 リヴァイアサン、リヴァイアサン……。

 殺してやるぞ、必ず、きさまを殺してやるぞ」


 「さあ、よってらっしゃい、見てらっしゃい! チーズは母の愛! チーズを食べればみんな幸せ! 世界一チーズ職人カティの『カティの愛あるチーズ工房』はこちらですよおっ!」

 潮風が吹き、カモメの舞う港町。

 自称・世界一のチーズ職人カティの元気いっぱい、溌剌はつらつとした声が響き渡る。

 この世界のありとあらゆる魔獣神獣のおっぱいからチーズを作り、世界を幸せにする!

 その目的のもと、単なる――象ほどもある――『デッカい犬』と化したフェンリルと、七、八歳に見える人間の幼女の姿となったフェニックスと共に、流れながれてこの港町へとやってきた。カティ固有のチートスキルである携帯農場を背後に広げ、自慢のチーズを食べてもらって幸せになってもらうため、そのついでに海を渡って別の大陸までもチーズを広める旅に出るための路銀を稼ごうと、実演販売をしている最中だった。

 カティは伝統と格式のデイリーメイドの衣装に身を包んでいる。幼女の姿となったフェニックスも同様にメイド服を着こなし、幼女ならではの愛らしさと、危うくも破壊的な魅力を振りまいている。

 フェンリルはと言えば、そんなふたりを守るかのように携帯農場のわきに寝そべっている。その姿はまさに山がひとつ寝そべっているかのようで貫禄充分。全身を包む長い毛は『もふもふの極致!』と言ってもいいほどで、子供たちが見ればたちまちのうちに抱きつくわ、登るわの大騒ぎになることはまちがいない。

 デイリーメイドは別名をミルクメイドと言う。その名の通り、屋敷内で乳をしぼり、チーズやクリームなどの乳製品を生産することを職務とするメイドである。チーズへの愛と煩悩にまみれたカティにとってはまさに天職。デイリーメイドの格好をするのも当然と言えるだろう。

 メイドはしょせん、使用人であり、雇う側である上流階級からすれば見下すべき存在である。しかし、デイリーメイドだけはちがう。デイリーメイドとは『清純さの象徴』として様々な物語に登場する存在であり、上流貴族にも受け入れられる唯一のメイドでもあった。

 デイリーメイドとは『瑞々しさ、清純な田園の美、健康美、無垢、貞節といったものの真髄を体現した、ロマンティックな眺め』であり、『キッチンや酒蔵庫、食糧保管室は貴族の妻にはふさわしくない場所だが、デイリー酪農室だけは認められる』とも言われる。

 それだけ、屋敷内でチーズやクリームを生産するというのは特別な役目であり、『女主人にこそふさわしい仕事』とまで言われる栄えある職務である。

 その意味でも、貴族出身の令嬢であり、チーズ職人であるカティにとって、デイリーメイドの衣装こそは愛と誇りを込めてまとうのにふさわしいものだと言える。

 携帯農場には『カティの愛あるチーズ工房』の製品とその見本が所狭しと並べられている。今朝、作ったばかりの、新鮮そのもののフレッシュチーズ。濃厚な香り漂うブルーチーズ。じっくり熟成させた芳醇な味わいのハードチーズ……。

 雪のように真っ白なチーズ、青みを帯びたチーズ、ふわふわの柔らかいチーズ、石のように固いチーズ。様々なチーズが『これでもか!』とばかりに並べられ、多彩なその姿を見せつけている。

 チーズそのものだけではなく、数々の料理も並べられている。

 薄切りにしたライ麦パンの上に野菜を並べ、その上にたっぷりのチーズをかけたオープンサンド。

 ポテトの上にチーズを乗せ、数種のハーブを振りかけ、こんがりと焼き色がつくまで焼いたオーブン焼き。

 なんとも食欲をそそる香ばしい香りの漂う、大鍋のなかでクツクツと煮えるチーズスープ。

 人の顔ほどもある大きなハンバーグの上にとろ~り蕩けたチーズが載った、見た目にも食欲をそそるチーズハンバーグ。

 どれをとってもなんともおいしそうで、その姿を見、香りを嗅げば、たったいま限界まで胃に食物を詰め込んだ、『もう一歩も動けない』と思っている人間でさえ、たちまち食欲を感じて腹の虫を鳴らし、涎を垂れ流す……そう思わせる。

 それほどのチーズと料理の数々が並び、芳香を放っているのだ。カティが熱心に呼び込みをするまでもなく押すな、押すなと客が詰めかけ……てはいなかった。

 「う~ん、おかしいです」

 カティは両手を腰に付け、仏頂面で言った。

 「こんなにおいしいチーズと料理の数々を並べているのに、お客さんが誰も来ません。せっかく、食べれば幸せになれる魔法の食品があると言うのに、誰も幸せになりたがらないなんて本当におかしな話です」

 「いやいや、おかしいのはカティなのじゃじゃ」

 幼女の姿を特製メイド服に包んだフェニックスが言った。

 「まわりを見るのじゃ。この状況で店を開こうなど、そなたの感性はかわっているにも程があるのじゃ」

 フェニックスにそう言われ――。

 カティは改めて、周囲を見渡した。

 そこにある風景。それはまさに『絶望』と銘打たれた絵画そのもの。目につく誰もが生気を失い、どんよりと重苦しい表情を浮かべ、酒へと逃げている。

 見ているだけで気が滅入り、逃げだしたくなる。

 そんな光景。

 「見ての通り、この町の人間たちはいま、食事を楽しむどころではないのじゃ。こんな場所で店を開いても無駄なのじゃじゃ」

 「この町のみなさんが不幸なのはわかっています!」

 『ふんぬ!』とばかりにカティは胸を張った。

 「だからこそ、お店を開くんです! なぜ、不幸なのかは知りませんが、チーズは母の愛。不幸な人たちにこそ振る舞い、勇気づけてあげなくてはいけません。それができなくて、なにが『幸せの食べ物』ですか!」

 「『幸せの食べ物』とは、そなたが勝手に言っていることなのじゃじゃ」

 「しかし、妙だ」

 それまで、ふたりのやり取りを黙って聞いていたフェンリルが口を開いた。

 「人々の落ち込み振り。陰鬱いんうつな空気。沈んだ表情。これほどの絶望の光景、われでさえそう何度も見たことはない。そう。まるで、前回の戦いのとき、われが太陽を呑み込み、世に闇と絶望をもたらしたときのようだ。これほどまでの絶望、よほどの理由がなければあり得ないぞ」

 「そうですね。たしかに、皆さんの不幸振りはちょっとおかしいです。よし! なんでそんなに不幸なのか、みなさんに聞いてみましょう」

 「なんで、最初にそう思わんのじゃ、そなたは」


参考文献『英国メイドの世界』久我真樹(著)・講談社

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