39、だから、逃げたりはしないのだ


「イゼキウス!」

「おじちゃま!」


 ディリートとティファーヌの声が綺麗に揃う中、護衛が精霊獣から守るように周囲を固める。

 

「……ふーッ!?」

 狂暴な声をあげていたラビットが、何かに怯えるように縮こまったのは、そのときだった。


「あ……」

 周囲の護衛たちが安堵めいた声をこぼす。

 ディリートはそろそろと視線を移動させて、息を呑んだ。 

 

 庭先で暴れていた精霊獣が、揃って座り込み、一頭の精霊獣に服従の姿勢を取っていた。

 

 庭から軽々と窓を越え、室内に姿をみせたその精霊獣は、大きくて、優美で、特別な気配をまとっていた。

 

 その精霊獣は、狼に似ていた。

 プリンスによく似ていて、けれど小さくて可愛いプリンスと違って、大きくて立派な成獣だ。


 ゆらゆらと炎を毛先にまとう毛は、世界をあかね色に染める夕映ゆうばえの色みたいだった。

 ふぁさりと揺れる尻尾は、長い。

 毛もフサフサだが、炎もまたユラユラと揺らめいていて、ディリートの心臓をドキドキと騒がせた。

 

 気付けば、笛の音は止んでいた。

 狂暴な気配をなくして「ふにゃあん」と怯えるラビットを鼻先で労わるようにする精霊獣の仕草は意外なほど優しくて、ふわりと吹き込む風に香るのは花の匂いだった。

 

 ゆっくりと精霊獣が首をめぐらせる――パチリと目が合う。

 

 瞳は、神秘的で理知的な印象だった。

 色が綺麗で、澄んでいて、美しい。

 宝石に似ている。形容するなら、トパーズだろうか、……シトリン・クォーツと呼ぼうか――ディリートは強張った指先をそっと精霊獣に差し出した。


「あなた……」

 

 くるる、と獣が喉を鳴らす音がきこえる。

 小さな獣みたいに喉を鳴らすのがプリンスによく似ている。


 ディリートが一歩近づくと、精霊獣は怯えるように一歩退く。


 精霊獣の瞳は、怖がっていた。


 目の前のディリートを怖がらせてしまうことを危ぶみ、怖れている――そんな感情が伝わる瞳だった。

 

 そこには、優しさがあった。

 それ以上に、ディリートが火に対して抱くような、心の傷があった。

 

 怖いのだ。

 怖がられるのが、怖いのだ。

 そんな繊細な心が伝わって、彼が誰なのかがわかって、ディリートは火に対する恐怖を忘れた。

 


「怖くありません」

 


 聖女が天啓を告げるように、ディリートの声がまっすぐに響いた。

 透き通るような声はやわらかで、偽りなく、愛しさをありありと伝える。そうであれ、と念じながら言葉をつむいだのだ。

 

 大きな精霊獣がパチリパチリと瞬きをして、控えめに距離をはかるようにしながら床に腹をつけ、座り込む。

 

 自分はあなたを傷つけません――そんな意思を全身で表明しようとするように、頭を下げてあごを床につけている。

 


 自分は恐ろしい生き物で、皆が恐れるのだ。

 けれど、けれど、受け入れてほしいのだ。

 優しい生き物になりたいのだ。

 

 

 ――ディリートにはそんな心が伝わった。


「あなたは、優しい人です。ディリートは、そう思うのです……」 

 

 胸が熱くなる。

 声が震える。

 眼の奥が熱くなって、鼻がつんとする。


 綺麗な瞳を伏せて、大人しくあろうとする気配が愛しい。


「アシル様」

 

 ……あなたなのでしょう。

 

 愛情をこめて優しく名を呼べば、彼は嬉しそうに眼を輝かせた。

 シトリン・クォーツの瞳がキラキラしていて、喜びの感情の波がふわふわと感じられて、ディリートは愛しくて仕方なくなりながら炎がゆらめく首に抱き着いた。


 両腕をまわしてギュッと抱きしめると、炎はぜんぜん熱くなかった。

 ふわふわの毛並みの下からは、夫らしさのある控えめな体温と呼吸の気配が感じられて、ディリートはおそるおそるその毛並みを手で撫でた。


 さらり、とした心地よい手触りの毛並みをゆっくり撫でると、アシルは気持ちよさそうに喉を鳴らした。

 何度も何度も撫でるうちに、その輪郭がゆらりとブレる。

 ふわり、ゆらりと、熱のない炎が揺らめくように全身を覆って、その姿が人になる――見慣れたアシルの姿になる。


「……」

 

 青年の姿のアシルは、頬を赤く染めて、気まずそうに視線を逸らして、初々しい気配を見せていた。

 この夫はもしかすると、照れているのかもしれない――ディリートはそんな感想を抱いて、自分がとても優しくてきよらかな生き物になったみたいな気分でもう一度、名前を呼んだのだった。



 と、そのとき。

「おじちゃま……いたい?」


 ティファーヌの声が聞こえて、ディリートはハッと状況を思い出した。


 振り返ると、イゼキウスが座り込んでいた。

 背中に火傷を負っている様子だが、意外と元気そうだ。


「ぜんぜん痛くねえ」

 イゼキウスは強がるように笑った。


「……グレイスフォン公爵殿下。なぜ黒太子と共に逃げなかったのです……?」


 アシルが不思議そうに問いかける。

 

「先程、精霊獣を暴れさせる友笛を吹いていた黒太子を捕縛しましたが、彼は『グレイスフォン公爵殿下が途中で心変わりをなさって、逃亡をやめて皇都に残ると仰った』と告白したのです」


「俺の心のうちをお前に説明する義務はない。理解なんてさせてやらん」

 イゼキウスはそう言って、自分に抱き着いてポロポロと泣くティファーヌの頭を撫でた。


「ティファーヌ、ラビットはさ、俺が尻尾ふんじまったんだ。でも、怒ったら火の玉吐くネコチャンなんて、考えたら子供に贈るもんじゃねえな。ははっ」

 

 アシルは妻を抱き寄せてから、無言で様子を見守る方針を護衛に示した。


「おじちゃま、どこかいくの? ティファーヌ、さびしいのよ」

「ティファーヌ、お前の泣き顔はぶっさいくだなぁ。鼻水すげえぞ。そんなんじゃ、立派なレディにはなれないな」


 白いハンカチが泣き顔にあてられると、ティファーヌはブンブンと頭を振った。


「泣くなよ、ティファーヌ。ママを思い出しちまう……ママもよく泣いていたから。命令するから、三秒で泣き止め」

「おじちゃま、ママをおもいだしたら、泣いちゃう? ティファーヌは、立派なレディになるから……泣かない」

 

 泣きながら話す声は、必死だった。

 

「レディのティファーヌは、泣いてるおじちゃまをいい子いい子してあげる……」

 

 それは、愛らしくて、健気で、そんな中に芯の強さみたいなものを感じさせる、一生懸命な声だった。

 

「そっか」

 イゼキウスはそんなティファーヌの頭をぐしゃぐしゃと乱暴な手付きで撫でて、「でも、俺はティファーヌがでっかくなった姿を見れないんだな」と呟いた。


 

「……――そのほうが、いいかぁ……」


 

 雨上がりの森林めいたイゼキウスの瞳がティファーヌを見つめて、口元がゆるく笑みを浮かべる。


「ティファーヌ、お前はおバカだから、俺のことなんかすぐに忘れてしまうだろうな。そうだといいな……それがいいな」


 イゼキウスはハンカチを懐に仕舞い込んで、よしよしとティファーヌを撫でてから、護衛に押しつけた。

 

 そして、傲慢ごうまんあごをあげて、周囲へと言い放つのだった。

 

「言っとくが、俺は貴い皇帝の甥なのだ。皇族は気高いのだ。誇り高い俺様は、逃げたりはしないのだ。卿ら、敬意を持って連行したまえ。ランヴェールの連中にはあれこれと散々な目に遭わされたが、俺が寛大だから許してやっているのだということを忘れるな。……フン」


 捕縛されて連行される皇帝の甥の背に、おさな子の泣き声がかけられる。大人たちの事情など何もわかっていないはずなのに、小さな娘は特別な空気を敏感に感じ取っているのだ。


「いなくなっちゃ、やだ」


「ティファーヌ……」

  

 悪いことをしたのだ。

 だから連れて行かれるのだ。


 イゼキウスは当たり前のことを、子供にもわかるように口にした。


 悪いことをすると、捕まるのだ。

 捕まったあとは、罰を受けるのだ。

 

 だから世の中は悪人になろうとする奴が少ないのだ。

 悪人が少ないと、みんなが安心して暮らせるのだ。

 

 悪い奴が捕まるのは、良いことなのだ。

 良いことなのだ。


「ティファーヌは、さびしいもん! ティファーヌは、いやだもん……!」


 背中を向けて去ろうとするおじちゃまに、ティファーヌはいつまでもいつまでも叫び続けた。

 おじちゃまを囲んで連れて行く大人たちに、必死に訴えた。


「行かないで、連れて行かないで……!」


「おじちゃまは、悪くないもん!」


 子どもの声は、少しずつ確実に遠くなり、やがて聞こえなくなる。


「で……、殿下……」


 兵士がおろおろと声をこぼしたのは、罪人であるイゼキウスの目が赤く充血して、こらえきれずにはらりと透明な涙をひとすじ流したからだった。


「俺は、悪い奴なんだ。……お前は本当にバカだな、ティファーヌ!」


 イゼキウスはそう吐き捨てて涙をぐいっと拭い、第一皇子派の旗がひるがえる城をにらんだのだった。

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