28、どう思いますか

 その夜のうちに、皇都の至る所に張り紙がされた。ランヴェール家の者が走り回り、主人の文を張り出したのである。


『ゼクセンには「君主が頼りなくてもお支え申し上げるのが臣下の道」という言葉があるようですが、ランヴェールには「君主がイマイチなら臣下は従わなくてもよい」という言葉があるのです』


『皇帝の甥が私を罪人に仕立て上げようとしました』


『無実を証明して家に帰ると、彼は私の妻を誘拐しようとしていました』


『第一皇子は兵士を庭に置き、私の妻を囮にしました』


『ひとしきり人の家の庭で騒いだ後、皇帝は誘拐犯を保護したのです』


『皆さん、この件についてどう思いますか』

 


 * * *

 

 

 イゼキウスが皇帝の元に連れて行かれ、第一皇子派の兵がしょんぼりと帰って行った後、ランヴェール公爵は淡々と邸宅の後始末を命じて、日常感たっぷりに入浴まで済ませた。

 

 ディリートは寝室が静かだと思った。ちょっと前までの外が賑やかすぎて、ギャップが怖いくらいの静けさだ。


 しかし、ランヴェール家の使用人たちは忙しそうでもある。庭の後始末やら、紙に文字を書いて外に持ち出したり。

 

「先に休んでいても構わなかったのですが」

 沈黙を破るのは、夫であるランヴェール公爵だった。

 

 湯上りの髪に白いタオルをあてながら、ランヴェール公爵が視線を彷徨わせる。しっとりと濡れた金髪の毛先からぽたりと透明な雫が垂れるのが珍しい。いつもは、きちんと乾かしてから寝室にあがるのだ。

 ディリートが新鮮な気分でタオルをつまみ、髪を拭くと、夫は軽く頭を垂れるようにしてされるがままになった。

 

「本日は、少し賑やかな一日でしたね」

 ランヴェール公爵の声が無感動にスローペースに言うと、ディリートの胸には不思議な安心感が湧いた。

「ええ。少し」

 風呂上がりの夫からは、良い匂いがする。清潔で、あたたかな香りだ。濡れた金髪からタオルで水分を吸い取る作業は、なんだかとても良いことをしている気分になる。自分がやさしい生き物になったみたいで、ディリートは気持ちが安らぐのを感じた。 

  

「そなたは、火が怖いのですか」

 

 青年の声が小さく呟くのが聞こえて、ディリートはそっと頷いた。


 火だ。火が怖いのだ――自分は火を怖れるのだ。

 

(私が一度火刑で死んだのだと話したら、この方はどう思うかしら。私が一度あなたを裏切ってイゼキウスの皇位簒奪さんだつを助けたのだと話したら)

  

「では、やはり私がそなたを怖がらせたのですね」

 ランヴェール公爵のシトリン・クォーツの瞳が庭の方角を見る。カードが燃えたときにびくりと反応を示したことに、気付いていたのだ。その唇が謝罪をつむぐ気配を察知して、ディリートは口を挟んだ。


「謝ったら負けてしまうのでしょう? 必要ありませんわ」

 以前教えられた言葉を唱えると、ランヴェール公爵は目を瞬かせた。

「負けたいときもあります」

 ぽつりと呟く声は、なんだか可愛らしかった。ディリートはふわふわとした心地になって微笑んだ。視線の先で、夫は無表情をつくっている。


「罪を疑われて、心配をかけました?」

 語尾が疑問形である。ディリートはふるふると首を横にした。

「あまり心配はしませんでしたわ。だって……あまりにも公爵様に似合わない罪状でしたし……」

「似合わない、ですか」

「それに、なんとなくですが、無実を簡単に証明できてしまうイメージがあって……」


 ディリートの中では、このランヴェール公爵は一度目の人生でも今回の人生でも、問題解決能力が高い人物として認識されているのだ。


「そうですか」

 返される平坦な声からは、感情がうかがえない。


「いつも落ち着いていらして、余裕がありますし……」


 首をかしげると、ランヴェール公爵は「それは良いことですか」と確認するように尋ねる。

「それは、良いことではありませんか」

 自分は褒めているのだ。

 ディリートがそう告げると、公爵はディリートの真似をするように同じ方向に首をかしげてみせた。

 

「第一皇子殿下は皇甥派の企みを利用して、私に無断でそなたをおとりにしたようです」

「そのようでしたね」


「その上、時計塔の時間をいじると都民の生活がややこしくなって迷惑だとおしかりを受けまして」

「それは、そうでしょうね……」


 静かな室内に、普段通りのゆったりとした声が響く。

 

 それは、ディリートにとって日常を感じさせるひとときだった。いつの間にか、おっとりとスローペースに話す夫に調子を合わせて頷くのが日常だと感じるようになっている。そんな自分を自覚すると、くすぐったい。

 

「本当は時計塔を別の用途で使い、あの男をはめてやろうと準備していたのですが、先に仕掛けられてしまったせいでもう時計塔も使えません」

「せ……せっかく準備なさったのに、残念ですわね……?」  


 ランヴェール公爵の宝石めいた綺麗な瞳が妻を映して、何かを言いかけて、やめた。

 

 微妙に引きずっていて、気落ちしている――そんな夫の気配を感じ取り、ディリートは少し焦った。

 秀麗な眉が寄せられていて、唇が引き結ばれていて、無言の表情は単に言葉で詫びる以上の感情を伝えてくる。

 

 怖がらせないように。

 そんな気持ちと。

 

 怖がらせてしまった。

 そんな後悔のような念。


 平静を装う内側で密やかに悔しがる、負けん気のような気配。

 妻の過去を気にしつつ、気にすまいと自分を抑えるような気配。

 

「本日は、少し大変な一日でしたわね、公爵様」


 ディリートはゆったりと言葉を選んだ。いつも、おそらく目の前の相手もこうして言葉を慎重に選ぶ生活なのだ――と、そう思いながら。

 

「私は、あのメッセージカードに好奇心をそそられたのですわ。エミュール皇子殿下のイタズラだと思ったのです……」


「バルコニーに出たら、兵士が隠れていて、皇甥殿下がいらしたのです。会話を聞いていらっしゃいました? 私、詳しくお話ししましょうか?」


「以前あなたは私がエミュール皇子殿下のために間諜スパイの真似事をしたのかと仰いましたが、単なる私怨なのですわ……」


 控えめな体温を好ましく思いながら、ディリートは無表情な夫の頬を撫でた。自分はこの綺麗な夫に触れてもいいのだ、夫は嫌がらないのだ――そんな風に思いながら。

 

 すると、今度は自分の頬に手を当てられて、顔が近づけられる。首筋にあたたかな吐息を感じて――ちゅ、とキスをされたので、ディリートはビクッと肩を揺らしてしまった。


「そなた、火は怖いようですが、私のことは? ……怖くありませんか」


 夫である青年は、切なげにささやいてディリートの指に自分の指を絡めた。そして、妙なことを提案するのだった。

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