7、マルクスの夫婦論とヴァイオリン
夫、ランヴェール公爵の執務室には、あまりよい思い出がない。
ディリートには、一度目の人生ではイゼキウスにそそのかされて夜間に忍び入ろうとし、あっさり見つかって苦しい言い訳をした末に許してもらった、という記憶があるのだ。
(帳簿を盗み出せと言われたのよね)
過去の悪事を懐かしみつつ、ディリートは室内の一点に目を留めた。
整然と積まれた書類に囲まれて異彩を放つ薄っぺらい本が、数冊。
執務室に書物があるのはおかしくはないが、ディリートはそのタイトルがとても気になった。
(き、気になるわ。タイトルが……『優しさとはなにか』『序・マルクスの夫婦論』『モテる方法(理論編)』……)
珍しいことにランヴェール公爵の本日の衣装は、黒で統一されている。
一度目の人生では、見かけるたびに白っぽい装いだった印象だが。
(公爵様は、黒もお似合いになるのね)
感心しつつ、ディリートはそっと問いかけた。
「どなたかに不幸でもございまして?」
この時期、誰かが亡くなっただろうか。
ディリートは数年分の記憶を持っているが、数年の間、何日に何が起きたのかを詳細に思い出すのは、なかなか難しいのだ。思い出すたびに紙に書いているが、思い出せないことも多かった。
「いいえ。世の中では常に誰かが不幸に遭っているとは思いますが、身内の不幸の話は現在私の耳に届いておりません」
公爵は特有のスローペースな話し方で喪に服している疑惑を否定しつつ、「急に呼びつけてすみません」と詫びた。
「ご多忙な公爵様とお話できる時間は、私にとって喜び以外の何でもございません。こちらこそ、お待たせして失礼いたしました」
ランヴェール公爵はディリートに椅子を勧めた。
侍女が紅茶とスコーンを運んでくる。ディリートが部屋でいただいていたのと同じものだ。
「このスコーンは美味しいですね」
ランヴェール公爵がそう呟いてスコーンを口にするので、ディリートは意外に思った。ランヴェール公爵は菓子が苦手だと思っていたのだ。スコーンを口にする姿など、見たことがなかった。
「ええ。私も、そう思いますわ」
違和感を胸に秘めつつ微笑めば、ランヴェール公爵は無機質な宝石めいた眼でひたりとディリートを見つめた。
「ロラン卿は、哀れですね。噂を広めるのはやめましょう。劇も中止にいたします」
「はい?」
ディリートが目を丸くしていると、公爵は長いまつげを伏せて視線を逸らした。
そして、「アメシストの瞳が綺麗ですね」と感情のうかがえない声で呟いて、「これから流行る病とやらについておうかがいしたいのです」と続けたのだった。
(この公爵様は、こんな方だったかしら?)
身に纏う衣装の色が変わったせいもあり、なにやら別人を相手にしているような気分だ。
「妙な噂や劇がなくなるなら、よかったですわ。ロラン様はなにも悪くないのですもの」
ディリートはひとまず「ぜひそうなさってください」と言って、ゼクセン公爵からの手紙の一部を見せた。
「公爵様のおかげで、おじいさまからのお手紙も無事に届きましたの。ありがとうございます。おじいさまは、私のことを孫だと仰ってくださり、お手紙を喜んでくださっていますわ」
「そなたはなぜ、ロラン卿を名で呼ぶのです?」
「騎士様は他にもたくさんいらっしゃるので。……おじいさまへのお手紙にもつづりましたが、地方に流行病のきざしがすでにございます。もしよければ、ゼクセン・ランヴェールの両派にて連携して対策を練られては、いかが」
地方に流行病のきざしがこの時期にあったのかどうか実際のところは知らないが、「なぜ知っているのか」という疑問を想定したディリートは「旅人がそんな話をしていた」という言い訳を考えていた。
伯爵家を訪れた旅人が、遠くの話をしてくれた。聞いたことのない病があるようで、もしかしたら帝国に広がるかもしれないと危惧していた。
そんな作り話だ。
「魔力を持たない人間は高熱を発して朦朧とした意識で長く苦しみ、体力を消耗して亡くなり、魔力を有している者はその症状に加えて魔力が暴走し、大変なことになるのだとか。その旅人は、病に有効な薬の材料を教えてくださったのですわ」
「公爵とて、他にもいるではありませんか」
……会話が噛み合っていない気がする。
ディリートは眉をひそめた。すると、ランヴェール公爵は心なしか生真面目な気配をのぼらせて、姿勢を正した。
「公爵様?」
「そなたの望みは理解しました。ゼクセン公爵と協力して、病に備えましょう」
理解はしてくれたらしい。ディリートは安堵した。
「公爵様がそう仰ってくださってよかったですわ。安心できます」
「国難のきざしに対策を練るのは帝国貴族の高貴なる義務であり、淑女に尽くすのは紳士の喜び。妻を安心させるのは、夫の務めです。当然のことですとも」
ランヴェール公爵はそう言って「紅茶とお菓子のお供に演奏はいかがです?」と提案し、侍女に何事かを言いつけた。
「公爵様は風流を愛するのですね。楽器の演奏は、私は好きですわ」
楽師でも連れてくるのかと思った侍女は、ヴァイオリンを運んできた。
「それでは、一曲」
「公爵様が演奏なさるのですか」
なんとランヴェール公爵が演奏するというので、ディリートはとても驚いた。
明るい茶色のヴァイオリンを構える公爵の姿は、なかなか様になっていた。その姿をみてディリートは、いつかイゼキウスが「俺の演奏を聴かせてやろう」とやんちゃな笑みを浮かべて軽快に弾むメロディを奏でた記憶を思い出した。優雅に回るウィンナワルツのリズムは、つい体を揺らしてしまうほど見事で、楽しい気分をもたらしてくれて。イゼキウスは音楽の才能に恵まれている、と思ったものだ。
ぎぃぃ……。
公爵が弓をひき、ヴァイオリンが鳴いた。地の底から響くようなおそろしく不気味な音だった。
「……」
音程を忘れたように、ヴァイオリンは間延びした音を繰り返した。
基本は低く、ときおり高く悲鳴をあげるような音を付け足して。
誰かを呪っているといわれると納得してしまうような、おどろおどろしく不吉な鳴き声を。
ディリートはそっと奏で手の様子をうかがった。
清雅という言葉がぴったりの美男子が奏でる姿は、世界中の女性が見惚れてしまうほど美しい。実に絵になる。しかし、発する音はコメントに苦しむ独特の奇音だ。
これは、曲と呼べるのだろうか。同じ音がひたすら続いているように思える。
壁際の侍女に問いかけの視線を向けると、困ったような表情でサッと視線を逸らされるではないか。その隣にいる侍女は耳を塞ぎかけて「いけない」と拳を握り、耐えている。
「お気に召していただけましたでしょうか?」
しばらくして音は止み、ランヴェール公爵は無表情に感想を求めた。
「公爵様は器用でいらっしゃるのだなと感じ入りましたわ」
あんな音、狙ってもなかなか出せないのではないか。
ディリートは心からそう思いながら拍手して、ハンカチを取り出し、公爵のこめかみに浮いた汗をぬぐってあげた。
(一生懸命、演奏してくださったのね)
公爵の綺麗な瞳がかすかに細くなり、ディリートは「無礼だったかしら」と少しだけ慌てた。
しかし、咎められることはなく、その日以来この公爵家ではティータイムに公爵のヴァイオリンの音が響くようになったのだった。
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