15、卵を割ってもよろしいかしら
厨房に行くと、料理人のリックが待っていました。
リックは、異世界出身のおじさまです。
この世界には時折、異世界人が迷い込んでくるのですが、リックもそんなひとりです。
最初は「リク」と名乗っていたのですが、みんながリック、リックと呼んでいるうちに「もうリックでいいわ」と名前を改めてしまいました。
黒髪に黒目、黄色人種系の肌をしていて、こちらの世界に来たときは「帰りたい、帰りたい」と言っていたのですが、現在はお嫁さんと生まれたての赤ちゃんがいて、こちらの世界が自分の居場所だと言っています。
「ハァイ、お嬢様。楽しいお料理教室の時間ですわよぉ」
リックはあちらの世界でいうところの「オネエ系」だそうで、女性のような話し方をするのです。
たまにきく異世界のお話はとても楽しくて、わたくしは日記にもよく書いていますし、従兄弟のトムソンとも異世界のお話を共有しているのでした。
「まず初めに、安全第一の精神ですわぁ。厨房は危険な場所ですの。怪我をするのはもちろん、火災の原因にもなります。お嬢様はひとりで厨房を利用してはいけませぇん。必ず、料理人と一緒に料理をすること。そして、厨房では身分を振りかざさずに料理人の指示に従うこと……よろしいですわねぇ」
「わかりましたわ、リック」
お嬢様の料理知識レベルがわからないから、アタシは料理器具に名札をつけてみました。包丁、まな板、お鍋、フライパン……」
名札つきの料理道具は使い込まれていて、丁寧に洗われています。リックに教えられて触れると、自分が専門性の高い職人になったみたいでドキドキするのです。
「そして、料理をするときは清潔にしないといけません」
リックはわたくしにエプロンと三角巾を着させてくれました。
「手も洗いましょうね。清潔、第一。安全第一。りぴーとあふたみー」
りぴーとあふたみー、は、リックがたまに口にする「アタシのあとに繰り返して」という意味の異世界言葉です。
「はい。清潔、第一。安全第一」
「よろしいっ」
清潔第一。安全第一。
わたくしは神聖な儀式に挑むつもりで、何度もこころの中で繰り返しました。
「アタシの元いた世界では、学校で料理実習があったし、料理をしたことがない人のほうが珍しかったですわ」
「わたくし、リックの世界ではきっととても珍しいのでしょうね」
「ふふ、そうですわねえ。ちなみに確認しますが、当然お嬢様は卵を割ったこともないのでしょうね?」
「卵ですか? ええ、わたくし卵を割った事がありませんわ」
手のひらにおさまるサイズの卵がたくさん入った籠から、リックはひとつを手に取りました。
ボウルのふちにコン、コンと卵をあてて、ぴしりとヒビが入ったら、そこからパカッとふたつに割って、中身をボウルにあける――その手際があざやかで、わたくしは目を瞠りました。
「すごいですわ、リック! 魔法のよう」
「お嬢様も、割ってみましょう」
「まあ。わたくしが卵を割るなんて……本当によろしいのかしら」
「どうぞ割ってください、卵は割れても爆発しませんから」
わたくしは震える手で卵をつかみました。
つるんとしていて、まるまるとした卵は、頼りなくて、ちからを入れすぎるとすぐにクシャっとなってしまう、割れ物って感じです。
優しく扱って、とわたくしの手のひらに訴えかけてくるようです。
こん、こん。
力が弱すぎると、ヒビが入りません。
ゴンッ、ぐしゃぁっ。
「あう……」
「よくあることですわぁ」
力をいれすぎたようで、卵はぐちゃぐちゃになってしまいました。手も、べちゃっとしてしまっています。
「卵を割るって、大変なんですのね」
「まあ、割り方はともかく、要するに食べられればよいのです」
リックはそう言って、割ったカラの破片を取り出し、ニッコリ笑ってくれました。
「さあお嬢様、今からこの卵を焼きますよ」
「わぁ……!」
やがて、厨房からはリックによる綺麗な黄色い卵焼きと、わたくしによるこんがりめの卵焼きとが運び出されました。
待ちかねていたお父様とお兄様は「メモリアがつくった卵焼きはわかりやすい」と言いながらも完食して、「美味しかった」と言ってくれました。
「次は、クッキーに挑戦しますの。上手に焼けたら、おばあさまにも差し入れしたいですわ」
わたくしは自分がつくった卵焼きを誇らしく見つめて、挑戦意欲を高めたのでした。
「お嬢様、お弁当を持っていってはいかが? アタシの元いた世界では、恋人と手作り弁当を食べるという文化がありましたのよ」
リックが言うので試してみると、オヴリオ様はたいそう喜ばれました。
「まるで小説のキャラクターになったみたいな気分だ。婚約者お手製のお弁当というのは、いいものだな。特にこの、たまにカラが入っている卵焼きの刺激がいい」
「カ、カラも、たまに入っていますわね」
「俺の好物は今日から卵のカラだ」
「本気なのか気を利かせているのかわかりにくいのですわ」
卵のカラが本当にオヴリオ様の好物になったのかどうかはわかりませんが、それ以来、わたくしは毎朝リックと一緒に料理をつくっては、お弁当箱につめて登校するようになったのでした。
「小説に出てくるお弁当みたいだわ」
サロンでくつろいでいると、アミティエ様も興味を示されたようで、ちょうどオヴリオ様が席を外されたタイミングでお声をかけてくださったのです。
「あ……」
「美味しそうな卵焼きだわ」
「もしよろしければ、おひとつお召し上がりになります?」
アミティエ様とは、あまり親しくお話ししたことがありません。……少なくとも記憶にある限りは。
「聖女候補だった……」
「聖女様……」
「あのおふたり……仲が悪い、ですわよね?」
ヒソヒソ声が聞こえて、わたくしはギクリとしました。わたくしとアミティエ様のことだとわかったのです。
「格下の家柄のアミティエ様が後から出てきて聖女の座を奪われたのよね、不仲で当たり前ですわ」
「しーっ、嫌がらせの噂が前にありましたでしょう? あの噂、否定されて、噂を広めた方が退学処分になったのですって」
「やだ、こわぁい」
「どちらのご令嬢も正直、好意が持てませんわ……」
ヒソヒソと噂話をされています。嫌な感じです。
「聞こえておりましてよ」
アミティエ様が冷ややかに仰ると、噂をしていた方々はふっと黙り、コソコソと囁きを交わしながら離れていきました。
「気をつけないと、ほら、聞こえてしまいましたわよ」
「アミティエ様は刺繍より剣術が得意な方ですもの、ご機嫌を損ねてはいけませんわ」
か、感じが悪いですわね……っ。
「ごめんなさいね、嫌な気持ちをさせて」
「あ、いいえ……っ」
アミティエ様は卵焼きをお召し上がりになり、ニコリと綺麗に微笑まれました。
「美味しいわ! ありがとう」
その笑顔は、流行小説に出てくる強い女性主人公みたいで、あったかくて、格好良くて。
眩しい。わたくしもこんな風に笑いたい。
……わたくしは、そう思ったのでした。
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