第15話・許容と拒絶と戸惑いと/お菊の話

 涼しい風吹いて髪をないだ、長い髪を褒められた記憶をまだ持っている。幸せな時期、まだ何も考えずにただ幸せを享受できていた時代の話だ。

 お菊は元は小さな商店の娘だった。親に交じって働くのは苦しくはあったが嫌では無かった。周りの娘たちも何かしら親の手伝いをするものだから手伝うのは当然だと思っていたし、何より時折入ってくる新しい品物を見ていると心が躍った。そんな生活も気付けば破綻していたのは、まだほんの数年前、どこぞの導師とか言うのが江戸に仙術とやらをばらまいたことだ。それが崩壊の合図であったと思う。端的に言って時流についていけなかった。駆け出しの商人は最初からそれを組み込んだ商品を扱う様になり、金のある大店はその力で悠々と乗り切っていく。中堅ならばおこぼれにあずかる。勿論例外はある、流石にすべてがそのように動くなどあり得はしない。

 小店は運だ。個人がやるような小さな店は捏ねでああるとか、横のつながりとかしがらみとか、色々な要因があって決まる。個人で何とかしようとして、乗り切れる人間が後の世にも名を残すような才人なのだろう。誰もがそうであったのならば、どれだけ幸せであっただろうか。この世にそんなうまい話はない。

 お菊の父も母も誠実で、不器用だった。周りの人と密着していたから周りと上手くやれなければどうにもならない。大局を持って動け、などと人は簡単に言うがしがらみから逃れられる人間はどれだけいるだろうか?凡人の両親にそれは無理だったのアだろう、世の潮流を見逃していれば気付けばだんだんと客層を他のところに持っていかれてしまった。自業自得と誰かが言う。努力をしなかったのだから仕方ないのだ、と口々に。ならば同じ目にあってみればいい、生活を頼っている人を、その心を切り捨ててそちらに走れるなら誰だってやるだろう、そして後ろ指さしてこういうのだ、裏切り者の薄情者、俺たちを捨てた血も涙もねぇ奴だ、と。そうなってしまえば打つ手などありはしない。商人とは信頼に重きを置く必要がある。よく世間で言われるようなあくどい大商人たちでさえ、何らかの信頼を置かれるものだ。

 だから結局世間に飲まれて滅んだいくつもある小さな店の末路のうちの一つが自分なのだ、と、諦めながら思う。

 それだけなら、どれだけよかったのだろうか。墓を見る。木でできた粗末な、骨の一つも入っていない、形ばかりの墓。弔っている形だけの墓。そこには父と母と、嘗て将来結ばれるはずだった男の名前がある。

 自分たちが食べる分を確保していただけの店がつぶれた後、当然だが食い扶持に困ってしまったのは自明の理で、生きていくためには何かをしなければならなかったが、遅かった。まず年齢だ。既に他に奉公に出て、と言う訳にも行かないし、仙術を使って商品を作るには年齢がたち、どうにか口入屋でその場しのぎの金策で飢えをしのいでいた。幸いだったのは両親の仲がそこで拗れなかったのはある。喧嘩もせず明日をどうにかしようとするだけの理性があった。才能が無かったから、そのままどうにもならなかった。そもそもそんな生活をしていれば身体を壊すなど目に見えていたことで、まず父親が倒れた。どうにかしようとがむしゃらに動いたのは良かったが、しょせん猪のような勢いだけで出来た動きなどすぐに体力が尽きるのはしょうがないことだ。働きづめから体をダメにして、そのまま帰らぬ人となった。母親もそこから何とかしようとして…お菊を何とか遊郭に売らないようにと必死に働いて後を追った。2人はどこに行っただろう、極楽だといい。

 手で墓とも言えない墓を撫でる。男の名を呟いた。松吉…下級武士のお付という、武士ともいえぬ半端な家柄で、よく自分の店を利用していた客でもあった。出会い方はよく覚えていない。ただ親が引き合わせてきたのだけは覚えている。どこか気障な男ではあったが、人となりを知れば結構芯を持ったイイ男だった。年も近くて冗談交じりに将来は嫁ぐか、などと言われて満更でもなかったことを覚えている。

 そんな松吉ももう死んだ。主人と仲間と三人で仇討とやらに参加して亀の化物に食われて死んだらしい。用心棒を雇ってまでそんな末路なのだから心底救いがない。だから婆沙羅者なんてなるのは止めておけと言ったのに、言わんこっちゃない。そしてこれが自分の為にした事だというから何よりも救えない。松吉はお菊に言った。何回か、何回かだけ危険な事をするけどその分実入りのいい仕事だから、それで金を貯めたらまた店を持とう。一からのやり直しなら今仙術使ってモノ作ってるのと立場は同じなんだ、と。そうすればきっと二人でやっていける、と。お菊は止めて欲しかった。危険何ていいんだ、二人で一緒にどこかで静かにやれれば、何だったら他の御国で小さく農民でも…なんて言ったら笑われた。見ず知らずの二人でやれることなんて水呑百姓(アルバイト)でこき使われて終わりだ、と。そんなのは分かっていた。ただ引き止めたいだけの言葉でそんなの言葉が出ただけだ。松吉は心配するな、と。一回やれば余裕が出来て、三回もすれば家も持てるし店も出来る、今は仙術で心地い家が作れるって言うんだ、またそこで二人で住もう、その時はちゃんとお暇もらって出てくるから、と。

 その言葉を裏切られるなんて思いたくはなかった。でもこの世に絶対はないことをその瞬間だけは忘れて痛かった。だって、子供の頃に思っていた絶対は裏切られたのだから、これから起きて欲しい絶対くらいは裏切らないで欲しいと思うのが人情でああろう。だからしぶしぶ、本当に身を引き裂かれる思いで送り出した。

 あの時もっと引き留めていれば松吉はここにいてくれただろうか。考え直してくれていただろうか…。それを確かめるすべはない。屍になれば言葉を発しはしないのだから。

 一筋、涙が流れてくる。知らずのうちに溜まっていたものが線になって地に落ちた。涙が一度溢れれば、あとはもう止まることはない。声が出る、今自分以外がここにいるとか、そんな事は考えられない。

「畜生…畜生っ…なにが仙術ッていうんだよぉ…あたいの全部…奪っていきやがってぇ」

 嗚咽と共にそんな言葉がこぼれてしまう。

 生活を失った、親を失った、いい人も失った。もう自分しか残っていない。仙術何て糞だ、全部ぶち壊して行きやがって、どれだけの人間を滅茶苦茶にしたと思っている、自分と同じ心持をもった人間をどれだけ生み出したと思っている。何も思っちゃいないのだろう。

 だが、本当に嫌なのはそんなつまらないことを考えている自分自身が一番嫌だった。中にはちゃんとまた歩き出している人間もごまんといる。自分はただ不平不満を言っているだけだ、分かっている。だが、もう新しく歩き出すだけの心の余裕が残ってはいない。世間を憎み、世をさげすみ、ただ口から益体もない言葉を吐き出して無為に時間を消費していくだけだ。生きているだけの死人と同じだ。ならもういっそ身投げの一つもすればいいのに、結局後追いの一つも怖がって出来ずに終わってしまう。

 こうなった自分はどうなってしまうのだろう、とお菊は思う。すぐにかき消した。と、言うよりはまたそれ以上の不健全な憎悪が心を包む。他所に全てを擦り付ける恥知らずな悪意を今日も口にする。己の心を守るために。


     〇


 こんな女は男を含めてごまんといた。ところ変われば品変わり、世が変われば人変わる。ただ一人だけが享受する不幸などあり得ない、人が多数の存在である限りこれからもこんなありふれた不幸をどこにでも生み出して、そして何もなかったかのように時は過ぎていくのだ。


 拒絶する人の話/お菊厭悪語――終

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