第88話 幼い獣クマちゃんと仕事のある大人たち
「じゃあ俺お兄さんて呼ぶ」
リオがかすれた声で人型ゴリラちゃんに宣言する。
彼は『お兄ちゃんで良い』という言葉がクマちゃんだけに向けられたものだと分かっていたが、言わずにはいられなかった。
人型のゴリラちゃんは、どうみてもゴリラではないからだ。
ゴリラが悪いというわけではないが、背の高い、怪しげな美しさを持つ偉そうな男にその名前は似合わない。
非常に呼びにくい。
本人がそれで良くても、なんだか偉そうな、多分本当に偉いであろう彼をそう呼び続けるのは抵抗がある。
南国の鳥のような外見の大雑把すぎる男は、全く気にしていないのだろうが――。
「私はどちらでも構わない。お前たちの好きにするが良い」
人型のゴリラちゃんは呼ばれ方に拘りはないらしい。
「それなら僕もお兄さんと呼ばせてもらうよ。兄弟が出来たみたいで楽しいかもしれないね」
細かいことは気にしない男ウィルが、涼し気な声で人型の彼に言う。
ウィル少し考えてから「それにぬいぐるみの方のゴリラちゃんと同じ名前だと、どちらを呼んだのか分からないだろうしね」と付け加えた。
四人と一匹と、ゴリラちゃん改めお兄さんが、湖畔の花畑に置かれたベッドで寛いでいると、
「あの、ルークさんちょっといいっすか」
冒険者の一人がルークを呼びに来た。
少し離れた場所で、冒険者達が集まり何かを話している。
深刻そうではないが、指で森の奥を差し、視線を向け話し合っているところを見ると、大型モンスターのことで何かあったのかもしれない。
「――ああ」
ふわっふわだが素っ裸だったクマちゃんに、黒、緑、細い銀色のストライプのリボンを結んであげていたルークは、長い指を器用に動かしそれを整え、自分に声を掛けてきた冒険者に答えた。
彼は、完全に身を任せ自分を見上げる愛らしいもこもこの頭を優しく撫で、「待ってろ」と低く色気のある声で言うと、悪党のような格好で座りもこもこを観察していたクライヴにクマちゃんを託す。
残されたクマちゃんはクライヴの腕の中から冒険者達の所へ行くルークを見つめていたが、黒い革の手袋に包まれた指にそっと頬を撫でられそちらを向いた。
腕の中の寂しそうなもこもこに『すぐに戻ってくる』と言ってやりたかったが、無責任なことを言うわけにもいかず、クライヴは、ただ優しく撫でてやることしか出来ない。
「なんだろ。……もしかしてまた大型モンスターが増えたとか?」
リオはルークと冒険者達が話し合っている場所を眺めそう言うと、輝きの強い金髪を雑にかき上げる。
「うーん。でも自分達で倒せないくらい増えたなら話し合うのではなく、全員呼ばれると思うよ」
隣で嫌そうな声を出したリオへチラリと視線を向けたウィルは、すぐに前方で話し合いに参加しているルーク達へと視線を戻した。
深刻そうではないが、微かに『魔法使い』と聞こえた気がする。
クマちゃんを繊細な手つきで優しく撫でているクライヴに視線をやると、こちらを見ていた彼と目が合った。
クライヴにも聞こえたようだ。
シャラ、と鳴る装飾品の音と共に立ち上がったウィルが、クライヴに「僕たちにも関係がありそうだね」と声を掛けルーク達の方へ向かう。
クライヴは名残惜しそうに、腕の中の愛らしいもこもこの頬をひと撫でし「すまない……」と冷たいが苦しみの混じる声でクマちゃんに謝罪したあと、隣に座る〝謎のお兄さん〟に最愛のもこもこを託した。
何故か皆のお兄さんになってしまった妖美な男は、意外なほど慣れた手つきでもこもこを腕の中に収め、あやすようにその頬を擽る。
「…………」
たらい回しにされてしまった可哀相なクマちゃんが、つぶらな瞳で謎のお兄さんを見つめているが、彼は無言でもふりと膨らんだもこもこの口元を撫でるだけだ。
会ったばかりのはずの男の腕の中でも大人しいクマちゃんの湿った鼻を、お兄さんがつつく。
ガラガラと鳴るウサギさんのおもちゃを持ったままその手を掴まえたクマちゃんが、それをあぐあぐと甘嚙みしている。
リオは謎のお兄さんと彼に甘えているクマちゃんの様子をじっと見つめ、考える。
――怪しい。
奴らが仲良しに見える。
ルーク達の様子も気になるが、森の魔王のような彼は自分達全員がクマちゃんから離れることを望んでいないだろう。
ウィルがリオには声を掛けずに行ったのも、お前は残れという合図だ。
どうせ後から聞くことになるであろう話よりも、今気になるのはリオのクッション兼ベッドに座っている怪しいお兄さんと、妙に彼になついているクマちゃんである。
――あやすのが手馴れている気がする。
抱っこの仕方も妙に慣れていて、人外の美しさを持つ彼が愛らしいクマちゃんを抱えているのは似合わないはずなのに、違和感がない。
――怪しい。
やはり彼らは知り合い、いや――知り合い以上の仲ではないだろうか。
リオは前かがみになり少し開いた膝の上で肘を突き、組んだ両手の上に顎をのせる。
目を細めたリオがじっと疑いのまなざしを向けていることに気が付いているはずの怪しいお兄さんは、彼を見ることも無く、腕の中の愛らしいもこもこをあやし続けていた。
「リオ。僕たちは少しマスターの所へ行ってくるよ」
少しして戻って来たウィルが涼やかな声でリオに声を掛け、返事も待たずにそのままルーク達と展望台の方へ向かう。
――特に急いでいる様子はなさそうだ。話が終わればすぐに戻ってくるだろう。
ただ、ルーク、ウィル、クライヴの三人は、多少やばいことが起こってもそれが態度に出ない。
何故なら彼らはそれを、大きな問題だと思わないからだ。
しかし詳細を聞くには彼らがマスターの所から戻ってくるまで待つ必要がある。
急に人が減ってしまって、クマちゃんは大丈夫だろうか。
リオは視線をクマちゃん達へ戻す。
――クマちゃんがウサギさんのおもちゃをお兄さんの頬に突き刺している。
「……いやいやいやクマちゃん駄目だよ! 何やってんの!」
驚いたリオは一瞬反応が遅れたが、慌てて立ち上がり、お兄さんの腕の中にいる悪い子クマちゃんを抱き上げた。
このクマはなんてことを仕出かしているのか。
ほんの一瞬目を離しただけで、クマちゃんが悪い子になってしまった。
あんな偉そうな、何かの頂点に君臨しているであろう彼の顔に、おもちゃを突き刺す生き物など他に居ないだろう。
このもこもこはリオの心臓が止まってしまっても構わないというのか。
「そのクマの行動を気にしすぎると寿命が縮むぞ」
まるでリオの心を読んだかのように、怪しいお兄さんが頭に響く不思議な声で彼に言う。
いつのまに奪ったのか、その手にウサギさんのおもちゃを持ち、ガラガラと音を鳴らしている。
――謎のお兄さんは全く気にしていないようだ。
「えぇ……確かにそうだけど……」
まさか彼が自分の心の中を読んだとは思わないが、なんとなく気持ちの悪さを感じたリオは嫌そうな声で答える。
笑顔でも怒っている顔でもない、美しいが怪しい男は何を考えているのかわからない。
何でもすぐに顔にでるリオとは正反対である。
しかし、この偉そうな、多分実際偉い〝お兄さん〟が何かを我慢するような存在とは思えない。
クマちゃんが多少、悪い子の行動を取っても、腹を立てたりはしないのだろう。
リオが腕の中の悪い子クマちゃんに視線をやると、大人しくしていると思っていたクマちゃんの表情が、全く大人しくない。
目が吊り上がり、小さな黒い湿った鼻の上に皺をよせ、口元のもこもこをもふっと膨らませたクマちゃんは、ストレスが溜まった獣のような顔になっていた。
「え。なにクマちゃんその顔。めっちゃキレてんじゃん」
非常に機嫌が悪そうなクマちゃんを見たリオが、腕の中の、ストレスを溜め込んだ獣のような顔のもこもこに言う。
「こちらへ戻ると思った銀色が、声を掛けずに立ち去ったからだろう」
もこもこに八つ当たりされたらしいお兄さんは、気にした風もなくリオに答えた。
◇
立入禁止区画の奥、マスターの部屋の中。
執務用の机に積み上がった書類の、更に上。天井には様々な可愛い動物が吊り下げられた赤ちゃん用のおもちゃが飾られている。
オルゴールは止められているようだ。
「わかった。後で魔法を使える奴を集めて会議を開く。――それで、白いのはどうする」
ルーク達から話を聞いたマスターが真面目な話の最後に、実は一番気になっている事を尋ねる。
「連れて行くわけねぇだろ」
もこもこが側にいれば絶対に言わないであろうことを、ルークはマスターに視線を向けずに言う。
伏せ気味の瞳は長いまつ毛で隠され、相変わらず表情が読めない。
「……そうだな。あれのことはこちらに任せろ。一晩くらいならどうにかなるだろ」
苦笑したマスターは、ウィルへチラリと視線をやり、渋い声で伝えた。
――お前からも何か言ってくれという意味だ。
ルークの態度に大きな変化は無かったが、付き合いの長い彼らには、森の魔王のような男の機嫌があまりよろしくないことが分かる。
余程もこもこから離れたくないらしい。
「…………」
クライヴは黙ったまま難しそうな顔でマスターの机の上を見つめている。
「今日はお兄さんも居るのだから、そんなに心配しなくても大丈夫なのではない?」
マスターから助けを求められたウィルは、そういうことではないと分かっていたが、一応ルークに声を掛けた。
酒場にはマスターとリオとお兄さん、同一人物ではあるが、クマちゃんのお友達のぬいぐるみのゴリラちゃんも居る。寂しくはない――はずだ。
たった今、『そんなに心配しなくても――』と言ったウィルの心に、不安が募ってゆく。
彼らは知らない。
今日皆からたくさん甘やかされた甘ったれクマちゃんは、いつもよりも更に寂しがり屋になってしまった、ということ。
そして、ほんの少しの間ルークから離れただけで寂しくなった、超寂しがり屋のクマちゃんが、たった三十分も我慢出来ずに、お兄さんにおもちゃで八つ当たりしていた、ということを――。
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