第86話 リオとウィルとゴリラちゃんの話し合い
濡れた被毛のお手入れをするため、湖畔の家の横にあるクッション兼ベッドへ移動することになった四人と一匹とゴリラちゃん。
ルークが着替えている間ふわふわの布の上に、ぬいぐるみのように座っているクマちゃんは、吸水性の高い柔らかな布で軽く水気を吸い取られ、ルークの魔法でふんわりと温かな空気に包まれ、現在生乾きである。
リオが着替えている間、芝生の上に置かれただけのゴリラちゃんは、ビショビショのまま水がしたたり落ちている。
外側から風を当てたところでどうにかなる濡れ方ではない。
今のゴリラちゃんは、まるで水を吸いつくしたスポンジのようだ。
一度ぎゅうぎゅう押して水を絞ったほうが良い。
しかし、ガラガラと音がなるウサギさんのおもちゃを、肉球が付いた手で握っているクマちゃんの視線が、ゴリラちゃんの方へ向いている。
――ゴリラちゃんを押したり踏んだりしているところなど、絶対に見せられない。
そんなところを見られたら、リオがゴリラちゃんに暴行を加えていると誤解されてしまう。
ルークがスッとゴリラちゃんへ視線を流す。
魔法で水を移動させてやろうかと思ったが、ゴリラのぬいぐるみはゴリラちゃんの強い魔力で包まれているようだ。
出来なくはないが、他人の魔力で体の中をかき回されるのは不快かもしれない。
それに、奴はそれぐらい自分で出来るだろう。
ルークは可愛いもこもことゴリラちゃんを引き離すため、先に移動することにした。
ゴリラちゃんが自分でなんとか出来なかった時のことを考え、視線でウィルに指示を出す。
急に人が減ればクマちゃんが寂しがるだろうと思ったクライヴは、自分はルーク達と行動する方が良いと判断する。
――決して、しっとり生乾きの可愛いクマちゃんが、ふわふわもこもこになる奇跡の瞬間を捉えようなどとは思っていない。
ガラガラピピピという音を鳴らすクマちゃんと、それを抱えるルーク、半分だけ回収したおもちゃやその他の荷物を持ったクライヴが露天風呂を後にする。
「……これの水切りってウィルに頼めばいいの?」
リオが一緒に露天風呂の広場に残ったウィルへ視線を向け、かすれた声で尋ねる。
「うーん。出来なくはないけれど、ゴリラちゃんがそのぬいぐるみと感覚を共有しているのなら、体の内側で魔法を使われるのは不快ではない? ――それに、僕たちが手を貸さなくても、君ならどうにか出来ると思うのだけれど」
ルークと同じことを考えていたウィルが、水を滴らせているゴリラちゃんに尋ねる。
「――あのクマが見ていないならこれの外に出ても構わないだろう」
低音で頭に響く、不思議な美声のゴリラちゃんがそう言うと、ぬいぐるみから気配が消えた。
「うわ…………誰?」
リオはぬいぐるみの横に立つ不思議な雰囲気の誰かに尋ねる。
デカいしなんだか偉そうだ。背丈はルークくらいだろうか。
「ゴリラちゃんで良い」
不思議で高貴な雰囲気の、人外な美貌を持つ誰かが、全く似合わない名前を名乗った。
「君がそう言うならそれでいいのかもしれないね。多少驚くかもしれないけれど、クマちゃんにもその姿を見せていいのではない? うーん。そうだね――分裂出来ることにしようか」
南国の青い鳥のような男ウィルは、黒髪で、黒いゆったりとした露出の多い服を纏った妖美な、人ではない何かに向けてそう言った。
大雑把な彼は本人が名乗ったのであればそのまま受け入れる。
訂正したくなったら彼から言ってくるだろう。
「えぇ……友達が分裂とか……」
リオは自分の友達が分裂して、更に、分裂した片方が動くぬいぐるみになってしまうところを想像してみた。
――別に困らない。
楽しいような気もする。
ぬいぐるみの方の体が誘拐されたり、どこかに片付けられたりしないように気を配るだけなら、冒険者達に手伝ってもらえばどうにかなるだろう。
「つーかクマちゃんも人間になりたいとか言い出すと思う?」
もしも、初めてできた、もこもこの自分と同じぬいぐるみのようなお友達が、人間にもなれるとクマちゃんが知ったら。
――寂しくなるのではないだろうか。
リオは、自分がゴリラちゃんとして、クマちゃんと接した時間の事を思い浮かべる。
クマちゃんはとても嬉しそうだった。あれはきっと、人間ではない、もこもこと似た不思議な生き物が、クマちゃん以外にも居ることを知って安心した、という理由もあるのではないか。
「うーん。そうだね……もし、なりたいと言っても、なれないだろうね」
ウィルが珍しく、目を細め難しそうな顔をして答えた。
「あのクマは人の形にはなれない。あれは、魂からああいう形の生き物なのだ」
立っているだけで偉そうな、腕を組み視線を伏せているゴリラちゃんが、低音の頭に響く不思議な声で話す。
「え、魂の形って見えんの? つーか魂の形がクマちゃんの形って……」
ゴリラちゃんには何故そんなことが判るのか、という事よりも、魂もクマちゃんの形ということの方が気になってしまったリオ。
彼の頭の中で、クマちゃんの形をした謎の発光体が、両手を広げ片脚を上げている。
「――お前たちの魂は人の形だ。ぬいぐるみのような生き物にはなれない」
誰もぬいぐるみのような生き物になりたいとは言っていないが、ゴリラちゃんは彼らに無駄な期待をさせないよう気遣った。
「それは残念だね。僕もクマちゃんを喜ばせてあげたかったのだけれど」
ウィルは自分が青いぬいぐるみになり、もこもこのクマちゃんと手を繋いでいるところを想像したが、魔法の力を借りてもそれは難しそうだ。
「いや俺別にぬいぐるみになりたいとか思ってないから。……つーかゴリラちゃんてその恰好でもそっちのゴリラちゃん動かしたり出来んの?」
愛らしいクマちゃんを可愛がりたいとは思うが、自分が可愛くなりたいとは少しも思わないリオは、念のためそれを伝えてから、ゴリラちゃんに質問をした。
迂闊に『面白そうかも』などと言って、不思議な力を使えるゴリラちゃんに何かされても困る。
――リオは少しだけ用心深くなった。
「動かすことも、話すことも容易いが、それではお前がやっていたことと変わらないのではないか。これの中身は入っていた方がいいのだろう」
ゴリラちゃんはリオへ言葉を返しながら、組んでいた腕を解き、スッと右手をゴリラちゃんへ翳す。
すると、水浸しだったぬいぐるみからは水が抜け、フワリと風が起こり、ゴリラのそれが人外の美貌を持つ黒髪の男の掌へのる。
「あー。そっか……」
考えるのが苦手なリオは、クマちゃんに洗われ輝きの増してしまった金髪を雑にかき上げ、一生懸命考える。
中身が抜けて、外側から動かすのであれば、リオがへたくそな演技でゴリラちゃんを操っていたのと変わらないような気が、しなくもない。
しかしそれは、リオが動かし、居ないものをいるように見せかけたから駄目だったのだ。
あの時はただのぬいぐるみをリオが操っていたが、今はゴリラちゃんの中に入れるご本人がいる。
中に入れるのであれば、それはもうゴリラちゃんと言っていいだろう。
本人も自分はゴリラちゃんだと言っている。
ゴリラちゃんは実在する。クマちゃんのお友達のゴリラちゃんが。
そしてゴリラちゃん曰く、人型もゴリラちゃんも、話せるし動く。
両方同じ思考を持ち、同じ声で話す。
同じ生き物が二体。
――分裂である。
間違いない。
ゴリラちゃんは分裂している。
リオはついに答えにたどり着いた。
「やべぇゴリラちゃん分裂してんじゃん!」
リオが叫んだ。
しかし誰も『やべぇのはお前の頭だ』とは言わなかった。
◇
淡く光る白い花が咲き乱れる湖畔の家の横。
辺りにはふれるとふんわり体と心が温まる、透き通った光の蝶がフワリ、フワリと舞っている。
ふわふわのベッドに座るルークの膝の上で仰向けになったクマちゃんは、毛を傷めない適温の、柔らかな風の魔法で優しく乾かされ、ふわふわの布でふわふわとされていた。
堕落したクマちゃんはただ体から力を抜き、全身がふわふわになるのを待っている。
肉球の隙間の毛もホワホワに乾かされ、寝転がるだけのクマちゃんが暇にならないようにと、堕落したクマちゃんを更に堕落させる悪い飼い主ルークが、乾いたもこもこの可愛いお手々にウサギさんのおもちゃを握らせた。
されるがままのもこもこは、自分が赤ちゃんのように甘やかされていることに疑問を抱かず、持たせてもらったウサギさんを、肉球が付いたもこもこのお手々で動かす。
ガラガラ、ピピピという音が聞こえるなか、ルークが引き続きもこもこの足やもこもこの耳を優しく丁寧に乾かしている。
彼らの向かいに置かれたリオのベッドに、軽く開いた両脚に肘をのせた悪党のような恰好で座っているクライヴは飽きもせず、乾かされふわふわになっていくもこもこを、じっと観察し続ける。
――もこもこの輝きが増し、いつもよりも更に愛らしい。
クライヴは険しい表情でもこもこの全身をサッと見た後、もこもこの口元を確認する。
何も食べていない。
では時々、チャチャッ、チャチャッ、と口を動かしているのは、一体何だ。
――まさか――――自分で毛繕いをしているつもりなのだろうか。
寝ているだけで、握って動かしているのはウサギのおもちゃだというのに。
何故か胸が痛む。
酸素が足りない。このような苦しさは、モンスターとの戦闘でも経験したことがない。
――クライヴは今日も、可愛らしいクマちゃんの何かにやられていた。
堕落したクマちゃんとルークとクライヴのもとにリオ達の気配が近付く。
リオと、ウィル。
そしてもう一人、誰かの足音が聞こえる。
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