第9話 将来の職業選択
今日は操が琥珀が一人暮らししている部屋に来ている日だった。普段は琥珀が操の部屋にお邪魔することが多いが、彼女の家に入り浸るだけでは琥珀自身も悪いと思ってのことだった。
「これから昼食作るから操さんはソファで座って待っててよ」
「私も手伝おうか?」
「ううん。大丈夫。俺も実家にいた時から家事は手伝っていたし、姉さんじゃなくても料理ができることは証明しないとね」
琥珀の姉の真鈴の数少ない特技の1つに料理がある。その腕前はプロにも匹敵するほどである。当人は本気で料理人の道を志すつもりはなく、バンド活動の片手間で飲食店で働いている程度である。
賀藤家では、両親が仕事で不在の時が多くて家事は子供たちで回していくことが多かった。そのため、料理は4人の兄弟姉妹は全員できる。掃除洗濯は、3人の兄弟妹ならできる。
琥珀がキッチンに立っている間に操は琥珀の部屋で寛いでいた。5年も付き合っていれば、他人の家だろうとリラックスしながら過ごせるほどの関係性になる。そんな中、操はソファの隙間に挟まっているある小さい冊子を見つけた。
「なんだこれは……」
ソファの隙間に挟まっている冊子。とても気になる。琥珀が普段読んでいる雑誌かなにか。その内容が気になるけれど、家主である琥珀の許可なしで引っ張り出すのも悪い気がして躊躇してしまう。
しかし、好奇心には勝てないというか、彼氏彼女の関係性なら普段読んでいる雑誌の情報くらいは知ってもいいだろうという踏み込みの意思を持って操はソファの隙間に手を入れた。
そこにあったのは……クリエイター向けの求人情報誌だった。日付は先月号。操はそれをパラパラとめくる。いくつか、ページに折り目がついている。
「あ、操さん。それ見ちゃった?」
「す、すまない。つい」
「いいよ。別に見られて困るもんでもないし。あはは」
見られて困るもんでもないと言いながらも琥珀はちょっとバツが悪そうにしている。
「しかし、琥珀君。意外だな。キミは現在フリーで働いているんだろ?」
「うん。まあね」
琥珀は高校生の頃から着実に積み上げてきた実績と人脈を使ってフリーでも仕事をもらえるようになっていた。自分始動の企画も立ち上げたりして、逆に人に仕事を依頼することもある。界隈では名の知れたクリエイターの1人として数えられている。
「それなのに。これは……いくつか正社員登用の可能性もあるものもあるけどな」
クリエイター業界でいきなりの正社員登用というのは案外少ないものである。最初はアルバイトの雇用形態でのスタートやプロジェクト単位での参加でその都度契約を続行するかどうかの査定をされるものがある。この雑誌もいきなりの正社員登用は少ないものの、アルバイトから実績次第で正社員登用の可能性があるものもあった。
「まあね。ほら、操さんもフリーランスで活動しているでしょ?」
「ああ。私はバンド活動もあるし、時間に融通が利く雇用形態の方がいいからな」
操も最初は社員として勤めていたものの、バンド活動との兼ね合いからフリーランスに転向した過去がある。
「その、俺までフリーをしていたら……将来的に家計が不安定になるというか。どっちかは正社員になった方が安定するのかなって思ったんだ」
琥珀は琥珀なりに操との将来のことについて考えていた。確かに現在の収入で琥珀と操が結婚すれば、パワーカップルとして良い暮らしが出来る程度には稼げている。しかし、フリーのクリエイターというものは虚業であり、いつ仕事がなくなったり、クビを切られてもおかしくはない。そのため、簡単にクビを切られずに収入も安定している正社員を目指すのも手だと琥珀は思ったのだ。
「確かに正社員を目指すなら若い方がいいな」
「うん。操さんが今から目指すとギリギリかなって、だから俺が」
「ちょっと待て。誰がギリギリだ。まだ30前だから数年は持つぞ!」
当たり前の話だけれど、正社員というのは長く勤めて欲しいから企業側が募集し優秀な人材を囲うことである。どんな労働者にも衰えはくるし、いずれは定年退職してしまう。そのため、若い方が労働できる最大期間が長くて企業側にもメリットがある。
それにクリエイター業界で正社員になるために必要なものがもう1つある。それは業務経験。目安としては3年間、プロとしての活動実績がなければ、面接にすら漕ぎつけることは難しい。フリーとは言え、高校在学時から金銭が発生するレベルの仕事をしていた琥珀は正に理想的な人材なのだ。
業務経験は欲しい。けれど年齢高すぎるのも嫌だ。若い人材が欲しい。矛盾に近いその存在。お前は何を言っているんだと言いたくなるレベルの滅茶苦茶な要求である。
人材の入れ替わり立ち代わり、転職率、離職率が高いこの業界では1つの会社に長く勤めるケースは他の業界に比べたら多くはない。そこを割り切って人事も採用している節はあるかもしれない。知らんけど。
「それで、このページが折ってあるところに就職先の候補があったのか?」
「まあ、ちょっと気になった程度だよ。会社名を会社情報サイトで調べてみたら、工作と思われるベタ褒めレビューが数件、その他は辞めた社員の
「それは色々と察するものがあるな」
クリエイター系の仕事。それに憧れる人が多い。その供給量に対して仕事の量が余りにも少なすぎる。つまり、完全な買い手市場。頭も腹もブラックな経営陣は、若いクリエイターは雨後のタケノコのように無限に生えてくるものだと思っている。そのため、使い潰す前提で雇うことは珍しくない。
クリエイターを目指す若い世代もホワイト寄りの職場に就職するためにどこかしらで業務経験を積まなければならないので仕方なくそのブラックに入る。穴が開いたバケツに水を入れる余地が無限にあるように、人材が流出しているブラックは無駄に門戸が拾い。
そして、若いクリエイターは数年、酷い時には数ヶ月で潰されて業界から消えていき、残った者だけがクリエイターとしての力を手に入れる
「まあ、なんだ。琥珀君。無理に会社に就職することもないんじゃないか? 条件が合ってその会社に就職したいって言うんだったら別だけど、ただ漠然と義務感でやるんだったら、後悔するかもしれない」
「でも……ねえ。その、八倉先輩も最近結婚したし、結婚できたのはやっぱり定職に就いているのも大きいかなって」
琥珀の周囲で結婚している人はきちんとした定職に就いている人が多い。そのため、操との結婚を視野に入れている琥珀もいつかは就職しないといけないのかもしれないと固定観念にとらわれてしまっているのだった。
「確かにフリーは不安定かもしれない。けれど、私たちは2人いる。どちらかが不安定になったら、どちらかが支えればいい。2人共不安定になったら2人して寄り添えばいいんだ」
操に言葉に琥珀は心を打たれた。同じ業界、同じ業種、そして2人共フリーで活動しているとなると、同じタイミングで仕事が不安定になってもおかしくない。その最悪な未来が琥珀が結婚を躊躇する一因にもなっていた。しかし、操はそれでも2人で支え合おうと言ってくれた。
「そうだね。うん。とりあえず、今は就職のことは考えないようにするよ」
これまでの流れを全く知らないでこの発言だけを切り取ったら完全にヤバい発言をしている琥珀。21歳の琥珀と同年代で就活でひーひー言ってる人が聞いたら、数発殴りたくなるような発言と環境であった。
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