第3話 ヒアリングデビューの時
所長さんが請け負っているのは楽クラ難クラ合わせても件数が少なく、代わりにものが大きく金額も大きい。それは今の紗奈にはさすがに負えない。なので
既クライアントは担当デザイナーと直接やり取りをしているのだが、初めての場合、依頼メールは
時間を決めて全員がそれを確認し、手持ちの仕事量と照らし合わせながら割り振って行くのである。事務所としてよほどのキャパオーバーが無い限り、ご依頼を断ることはしていない。その調整も牧田さんの仕事である。
「私んとこにはがきサイズのフライヤーのご依頼がありますよ。初めてのクライアントで、楽クラか難クラかはまだ分かりませんけど、ご依頼内容を見る限りそうややこしい案件では無いかと。ヒアリングは明日のお約束です」
畑中さんのこの一言で、紗奈は畑中さんに同行することになった。約束の時間は11時。翌日になり、それに合わせて事務所を出た。
畑中さんはお料理部に参加せず、お昼は外食しているので、紗奈と関わる時間があまり無かった。なので一緒にいてもどういう話をしたら良いのか分からない。
大阪メトロ
畑中さんはあまり笑う人では無く、事務所にいても平静なことが多かった。仕事中は基本私語が禁じられているし、皆モニタに向かって真剣に作業をしている。なので話をするとしたら昼休憩になるのだが、その時には畑中さんは事務所にいない。なので紗奈はまだ畑中さんの人となりを良く知らなかった。
こうした時の時間潰しと言えばスマートフォンが定番だ。だが話す内容に困ったからと言って先輩の前で出すわけにはいかない。どうしたものかとまんじりしていると、横から「
「私ね、メトロの暗い景色を見るんが好きなんよ。せやから私のことは気にせんと、スマホとか見てくれて全然構わへんから」
畑中さんに淡々と言われ、紗奈はほっと心が軽くなる。だがここで「はいそうですか」とスマートフォンを出すのもはばかられた。紗奈が戸惑っていると、畑中さんは苦笑しつつ「ああ、ごめん」と言う。
「ほんまの話やねん。私、この黒いのが流れて行くんが好きなんよ。気ぃ使わんでええ、と言うか使って欲しく無いんやわ。天野さんは後輩やし緊張しとるかも知れへんけど、私はほんまに気にせぇへんから」
畑中さんの言葉におろおろしながらも、膝の上に置いたトートバッグからそっとスマートフォンを出すと、畑中さんは「うん」と満足げに大きく頷いた。そしてまた正面に向き直った。
じっと前を見つめる畑中さんは、確かにうっとりしている様に見えた。目尻が緩やかに下り、口角がほのかに上がっている。
ああ、畑中さんは本当のことを言っていたのだと紗奈は安心する。変わった趣味だなと思いながらも、それは人それぞれだ。なら心置き無くスマートフォンを使おう。紗奈はSNSのチェックを始めた。
今日の紗奈は黒のカットソーに、カーキのミモレ丈のフレアスカートを合わせていた。クライアントに会うのだからと、おとなしめな格好を選んだ。
畑中さんはネイビー地に細かな紫色の花柄模様のワンピースだった。色合いによって華やかだったり控えめだったりはあるのだが、こうしたパターンの洋服を畑中さんは好んでいる様で、すらりとした畑中さんに良く似合っている。
所長さんもクライアントに会うときは、スーツとまでは行かないまでも、カットソーにラフなジャケットを羽織っていた。岡薗さんは毎日スーツだからそのままである。
私服での勤務が認められているのだが、クライアントと会う時には地味めな格好を自然と心掛けているのだ。
紗奈と畑中さんが降り立ったのは、終点のなかもず駅。御堂筋線の他に
なかもず駅は大阪市の隣、堺市になる。あびこ駅が大阪市の端、そこから1駅南の
クライアントの元を訪れるのは、主にヒアリングや制作途中の打ち合わせである。昨今はオンライン会議システムを利用することもあるが、直接会うことが多い。その場合は電車1本で行けるところだととても助かるのだ。
今日会うクライアントは、なかもずに近々オープンするビストロのオーナーである。今回受ける予定のはがきサイズのフライヤーは、新規開店のお知らせをするもので、近隣の住宅へのポスティングや、関係者へのDMなどで使われる予定らしい。
ビストロの予定地はまだ内部が改装中とのことで、指定された場所はなかもず駅から歩いて数分のカフェだった。ガラス製の自動ドアに大きな窓があり、開けた明るい雰囲気のお店である。
到着し店内に入ると、店員さんがすぐに気付いて近付いて来る。畑中さんが待ち合わせであることを言うと、店員さんは「かしこまりました。こちらへどうぞ」と、まだ誰もいない4人掛けの席に案内してくれた。まだ相手は来ていないと言うことなのだろう。紗奈はほっと息を吐いた。
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