第6話 お料理部への誘い

「なぁ天野あまのさん、良かったらお料理部に入らへん? 外食より安うで、できたてのご飯食えるで」


 岡薗おかぞのさんがそう言って紗奈さなを誘ってくれた。それは確かに魅力的だ。だが。紗奈は恥じ入る様に苦笑するしか無かった。


「私、全然お料理ができひんのです。なんで難しいかなぁって」


 すると、岡薗さんと牧田まきたさんがきょとんとした顔を見合す。ああ、呆れられてしまっただろうかと、紗奈は消え入りそうに身を縮めた。


「それやったら、良かったら俺か牧田さんで教えよか?」


「え?」


 今度は紗奈がきょとんとする番だった。


「天野さん、お母さんにお弁当作ってもろてるってことは実家暮らしやんな。せやから料理する機会があんまり無いんやろうけど、料理はできて損は無いで。将来独立した時とか、結婚した時とか、やっぱり必要になってくるやろうからな」


「そうやねぇ。今は夫婦共働きで家事育児も分担ってご家庭も多いやろうけど、両方料理ができたら臨機応変にできるし、専業主婦になるんやったらなおさら料理はせなあかんしねぇ」


 あまりにもその通りで、紗奈は言葉にきゅうする。まだ社会人になったばかりで、恋人がいるとは言え結婚は考えていない。家もこの事務所に近いので独立も考えていない。


 だが将来結婚するとなれば、旦那さまに、そして産まれるかも知れない子どもに美味しいご飯を作ってあげたいと思う。共働きになって旦那さまと分担するにしても、できることは多い方がよいだろう。


 紗奈はその時になったらどうにでもなると呑気なものだったが、掃除機などに頼れる掃除や、洗濯機が脱水、望めば乾燥までしてくれる洗濯とは違い、お料理は食材を切ったり火を通したり調味をしたりと、人力の部分が多い。普段家で何もしない紗奈だが、家庭科の授業は受けて来たのだからそれぐらいは知っている。


 それを思うと、その段になっていきなり巧くできるものでは無いのだろう。大さじ一杯が15ミリリットルなのは習ったので知っているが、何をどれだけ入れたらどんな味になるのかなんて見当も付かない。お塩とお醤油はしょっぱく、お砂糖やみりんが甘いことも知っているが、どんな掛け合わせがどんな味を生み出すかなんてろくに知りもしないのだ。


 家庭科の授業で調理実習もあったはずなのだが、紗奈にとってはもうかなり前のことなので、ろくに思い出せない。あの時確かに基本の肉じゃがを作って、軽量スプーンでお醤油などを計ったはずなのに。


 いざ必要になれば万里子まりこに教えてもらおうと思っていたが、ここで牧田さんや岡薗さんに教えてもらえて、なおかつできたてのお昼ごはんが食べられるなら、それは素敵なことなのでは無いだろうか。


 雪哉ゆきやさんにも作ってあげられる様になるだろうか。もしかしたら紗奈の手料理を喜んでくれるかも知れない。


「あ、あの」


 紗奈は思い切って声を上げる。


「ご迷惑を掛けてまうかも知れませんけど、教えていただけると嬉しいです。でもほんまにええんですか?」


 掛けてまうかも、なんてどころでは無く、絶対に掛けてしまうだろう。勢い込んだわりにはおどおどとした口調になってしまったが、牧田さんと岡薗さんはにっこりと微笑んで「もちろん」と声を揃えてくれた。紗奈はほっとして頬を緩ませる。


「ありがとうございます!」


 紗奈はがばっと深く頭を下げた。牧田さんも岡薗さんも「うんうん」と穏やかに頷いてくれる。


 それから紗奈は、お料理部の詳しいことを聞いた。当番の日はお買い物と調理を合わせて1時間ほどで行うこと、お買い物はどこでしても良いが、この事務所から一番近い近鉄本店の地下でするのが楽だと言うこと、業務中の1時間をその支度に使うので、18時の終業から1時間多く仕事をすること。もちろんその分の残業代は付かない。


「せやから残業や無いのに、帰りが1時間遅うなるねん。それは申し訳無いんやけど」


「大丈夫ですよ。うち、ここから近いですし」


 なんの問題も無い。社会人になってから門限も無くなったし、夕飯が少し遅くなる程度だ。万里子たちには先に食べてもらえば良いだろう。




 研修と言う名の業務を終え、紗奈は「お疲れさまでした」と退勤する。事務パートの牧田さん以外は残業があるそうで、紗奈はお先に失礼した。家に帰り着いたのは19時ごろ。買い物のために寄り道をしていたのである。


 紗奈の様にデザイン業界に就職した先輩も言っていたのだが、残業はつきものなのだと言う。なので紗奈も先輩たちと同じ様に仕事が始まったら、毎日の様に残業が出て来るのだろう。紗奈はもちろんそれを承知でこの業界を希望したのだが。


 もちろん事務所によってホワイトとブラックの違いはある。紗奈が内定をもらったあと、念のためにといろいろな先輩に聞いて回ったところ、宇垣うがきデザイン事務所は比較的ホワイトだと思われる、と言うことだった。紗奈としてはその予想を信じるしか無い。


 まだたった2日しか出社していないが、どうやら人間関係は良好の様だ。お料理部があることがそれを物語っている様に思える。


 紗奈は家族揃っての夕飯の席で、明日からのお弁当はいらないことを万里子に伝えた。


「あら、そうなん? 外食とかの方がええ?」


「ううん。事務所にお料理部って言うのがあってな。私入れて3人になったんやけど、交代でお昼ごはん作るねん」


「料理って、紗奈ちゃんできるん?」


「ううん、先輩たちが教えてくれるって言うてくれてはるから、これを機会にできる様になりたいなて思って」


 すると万里子はかすかに顔をしかめる。


「大丈夫なん? 先輩方のご迷惑になれへん?」


「なるかも知れへんけど、私もがんばりたいし。今日も作ってはって、それがほんまに美味しそうで。お母さんのお弁当も美味しいけど、できたて食べれるん嬉しいなぁて思って。帰りにな、ロフトでエコバッグとエプロン買って来てん。それ使うんも楽しみやねん」


 紗奈が懸命に言うと、万里子は少しばかり考え込む。そして「うん」と声を上げる。


「頑張りぃ。言うても紗奈ちゃんも家庭科の授業はあったんやから、少しぐらいはできるやろうし」


「うん。ありがとう」


 万里子の前向きな言葉に紗奈は安堵し、ほっと息を漏らした。

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