1章 魔に踏み入る5

 帰路。いつもどおり魔灯が照らす石畳の隅を歩く。月光と魔術の恩恵が生んだ人工灯の下でもつれるような酔漢たちを躱し家路を急ぐ。懐にあるのは金貨一枚。先日の試合報酬ほどではないがそれでも二十日は食事に困ることのない金額。十分に大金だろう。あまり普段から持ち歩くような額ではない。


「む」


 小さく腹が鳴った。


 試合があったので影響を考え夕食は口にしていなかったせいだ。酒場などで軽く食事をと思ったが、酔って理性に靄がかかった客に紛れて食事をするのは大金を抱えてしたいことではなかった。酔漢の二、三人に絡まれたところでどうとでもいなせるし、ましてや財布を奪われるようなへまなどしない。ただ根っこが小市民なのだろう、どうにも無防備な状態に感じられて落ち着かなくなってしまう。加えて、財布は家に置いてきている。支払いは金貨ですることもできるが、銀貨数十枚に及ぶ釣り銭を店はいい顔しないだろう。


 結局、空きっ腹を抱えて帰宅するより他はなかった。帰ればパンぐらいはあったはずだが、時間が経ちすぎて固くなったものだ。眠る前に口にしたいものじゃない。


 今夜はさっさと寝て、朝一番に市場へでも出かけるか。


 ぷらぷらと歩きながら明日の予定を考えていると徐々に景色が変わる。人が減り、立ち並ぶ店は姿を消す。空気に溶け込んだ酒気は失せて、夜に盛んな店の通りから日の当る時間が騒がしい住まいの市民街に踏み入る。


 ほとんどの人間は寝ている時間だ。石畳と魔灯は変わらないが、市民街はただ一人で夜を歩くのは物悲しくなるような静寂がおりている。大陸で最も栄えた都。王都ワンドンとは信じられない静けさは自分以外が死んだのかと錯覚しそうになる。試しに近場の家を除けば荒れた内装に骨が転がっているのではないかとくだらない想像がよぎる。もはや慣れっこだが、この街の静と動の緩急のきつさは気分を固くするものがあった。


 ただなんとなく擦れ違う魔灯の数を数えているとアパートが見えてきた。


 石造りの三階建て。白い巨岩からただ四角く切り出したような妙な見た目。古代文明にあるモチという毒性の食べ物に似ているらしいと入居する際に大家の老婆が長々と語っていた。これがククナの住居。


 そのモチに人が群がっていた。


 黒山の人だかりというほどではないにしろ。数えるのが手間になるような人数が壁に向かい半円状に拡がっている。


「なんだ?」


 現在は夜中も夜中。市民街からここに来るまで誰一人見かけなかったにも関わらず、この人の多さは異常だ。


 自然と眉間に皺が寄る。


 いい予感はしない。


 遠巻きに集団を観察しても半円の中心に何があるかはわからない。ただ、彼らが醸す雰囲気には喜びや楽しさといったものが微塵も感じられない。むしろ嫌悪や不快感が中心に据えられた何かから伝播しているのははっきりとわかる。


 止めていた足を動かし徐々に近づく。自分の住まいだ。何か起きたなら無視とはいかない。


 事件性があるのだろう。それは近づけば近づくほど確信に変わっていった。


 音としてしか認識できなかった空気の振動が近づくにつれて言葉としての輪郭をはっきりさせていく。聞こえてくるのは「誰がこんなこと……」「酷い、最悪」「誰か詰め所に行ってこいよ」「見なきゃ良かった」など。どれも最悪を想像させるには十分な呟き。


 見ようか見まいか。


 もはや集団の中心。アパートの壁際に何があるかは想像がついた。ほぼ確定だろう。あとは当事者意識の問題。自分の住まいで起きたであろう悲劇に自分との関連性があるかを確認するかどうか。いやはや、ありえないと簡単に切り捨てることもできる。出歯亀根性で覗いて脳裏に焼き付くのもごめんだ。


 だが、という気持ちもある。確認を経て、無関係という確信を得ないことは不安の種を残すことになる。単にちょっと見てみたいという下卑た気持ちがないでもない。


 アパートの入り口はここの裏手だ。この状況を無視して部屋に帰ることも出来たが、結局、怖いもの見たさという魔物が手を引き確認することにした。


 人込みを割り、ゆっくりと中心へ。かき分けられた人は迷惑そうに眉を潜めるも一瞬で惹きつけられるように視線を元に戻していた。


 花に釣られる虫のように、考えなしに、純粋にそうすべきかのように瞳を、


「くそ……」


 首なし死体へと。

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