第19話 繭の中の龍斗

「僕は龍斗です」


 そこが戻るべき場所だと感じていたが、自分の家でないことも明らかだ。自分の家は、奈良の京終きょうばて。狭い路地が走る雑然とした街にある。


「おかえりなさい。よくぞご無事で」


 龍斗を迎えたしのぶ姫が妖しく微笑んだ。


 美しい女性だ!……龍斗は、恥ずかしくて視線を逸らした。記憶の中に彼女と似た女性はいた。紫乃、……自分を生んだ母親だ。幼いころに母親と別れ離れになった。彼女が死んだと教えられたのは、祖父の家に越してからのことだ。


 母は死んだ。目の前にいる女性は、似てはいても別人に間違いない。それにしても、、とはおかしな言い回しだ。


「さあ、こちらへ」


 龍斗が案内されたのは縁側えんがわのある十畳ほどの和室で、高い舟形天井に建物の格式の高さが感じられた。幼いころ、そこに誰かが寝ていたばくたる記憶があるのだが、それが誰なのか思い出せなかった。間違いなくこの家だという自信もない。


「ここは、あなたの家です。ゆっくりしてください」


「エッ?」


 しのぶ姫は、正座をすると畳に両手をついた。言葉づかいも態度も、龍斗の知るどんな女性とも違っていた。


 彼女を見れば見るほど母、紫乃に似ている。


 もしや、母の生まれ変わりではないのか?……行きついたのは、そういう疑問だった。しかし、記憶の中の紫乃は強い母親できびきびしていたが、しのぶ姫はたおやかな貴婦人だ。その違いは歴然としていた。


「あのう、……あなたは?」


「私はしのぶと申します」


 しのぶ姫は挨拶をしながら、茶を勧めた。


「よ、よい名前ですね。僕は蓮見龍斗です。僕の母はあなたによく似ていました」


「はい。存じております」


「エッ……」


 彼女の視線が壁際に置かれた大きな屏風に向かう。それを龍斗は追った。そこに描かれた愛染明王は、龍斗をのみこむような形相をしていた。脳髄がジンジン痺れた。


 幼いころの記憶がじわりと溢れ出す。それは部屋に入ったときの感覚より濃かった。


「昔、ここに男性が寝ていませんでしたか?」


「ここに人が来ることはありませんが……」


「それは、僕がここにいることもありえない、ということですよね?」


「いいえ。あなたは来る人ではなく、居る人なのです」


「居る人?」


 しのぶ姫の言葉の意味が理解できなかった。龍斗は、どうして自分がここにいるのか考えた。


 頭の中でひどい雑音がした。――ゴトゴト、ゴトゴト……。


 僕は、まだ近鉄電車の中で夢を見ているのだ。ここは夢の中だ。目の前の女性は、母の面影だ。全てを知っているのは当然なのだ。……魂が、身体に語りかけた。


「ここはどこですか?」


 すでに建物に上がり込みながら、そう訊くことが面白かった。困惑があるとすれば、電車の連結部分の狭い空間に押し込められた経験と、今見ている夢の世界の不連続性だ。――夢の中です――そういった返事を期待していた。


「ここは繭の中です。私の世界……」


 彼女の唇からこぼれた言葉は、期待していたものとは違っていた。


「しのぶさんの世界。……それは、僕の世界とは別物でしょうか?」


「さあ……」


 しのぶ姫は小首をかしげ、言葉を続ける。


「……聞いたことがあります。あなたは、とても速く動く世界で生きていると。そして私は、永遠にマユの中に留まるのだと。今こうして向かい合っているのは、二人の世界が、たとえ一瞬でも繋がった奇跡なのかもしれません」


 しのぶ姫は微笑み、龍斗は眉間に皺を寄せた。


 怪しげな宗教団体に拉致された気分だ。電車の中で催眠術を掛けられ、或いは、薬で眠らせられて、丘の下に置き去りにされたのに違いない。……龍斗は推理した。


 スマホを探す。それはポケットにあったが、電車の中でバッテリーが切れたことを思い出した。


「充電器があれば……」


 見渡すと、充電器どころかコンセントがない。


「……この家に、電気は無いのですか?」


「はい。昔ながらの生活をしておりますので」


 龍斗は、文明を探すために視線を外に向けた。


 陽が陰って庭の樹木は輪郭しか分からなかった。知るべき何かを見つけようと視線を泳がせているうちに太陽は沈み、見るべきものがなくなった。


 しのぶ姫がすっと立ち上がる。まるで重力を感じさせない動きだ。彼女は背筋の伸びた美しい姿勢で歩くと、三つの灯明とうみょうにてきぱきと火を入れた。その立ち居振る舞いの見事さに、龍斗は神々しいものを感じた。


 自分が夢の中にいるのか、現実世界にいるのか、龍斗は再び迷う。


「僕は、何故ここにいるのでしょう?」


「さあ?」


 彼女は小首を傾げた。


 龍斗は目の前の茶碗を手に取った。それはすっかり冷めていた。


「この家には、しのぶさん一人なのですか?」


「はい……」


 彼女は小さくうなずいた。ほのかに揺れる灯明に照らされた表情は悲しげだ。そして言う。


「……人は、誰しも一人です」


「これから僕はどうなるのでしょう?」


「ここでお暮しください」


「はあ……」


 龍斗は唖然とした。


夕餉ゆうげの準備をいたします」


 しのぶ姫が奥に消えたので、龍斗は縁側に立った。遠くに眼をやって、ここはどこだろうと考える。立ちあがったことで視界は変わり、座っていた時には見えないものが見えた。


 群青色の空の遠くに地平線があった。それは真っ黒な山々のシルエットそのものだ。そのシルエットにも、懐かしいものを感じた。


 山並みの手前は深い闇に包まれている。その闇の中にチラチラと瞬く灯りを見つけた。ホタルなどの生き物の灯りではない。ずっと、ずっと遠くにある町の灯に違いない。


 ここに長く暮らすなら、あの灯りのある町へ行く機会もあるだろう。……そこで違和感を覚えた。何故、自分はここで暮らすことに納得しているのだろう?

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