第17話 熱
真惟の足は女郎寺のある丘の東側の斜面に向かった。あの焼け跡のある場所だ。そこで父親も母親を追って自殺したという。
焼け跡に近づくと、大きな3本の欅の木が断頭台のように見えた。
枯れススキの原に足を踏み入れ、真中の欅のざらついた幹に手を触れる。ゾゾゾと、何かが背中を這い上がるような気配を感じた。
「ここだ……」ここで首を吊ったのだ。
真惟は見上げた。大小の枝が東西南北に向かって伸びている。まだ葉の生い茂らないそれが、
その中で、1本の枝に目が留まった。
きっとあの枝だ。……椅子でも置けば届きそうな高さのところに、西側に向かって伸びた立派な枝があった。
そこにぶら下がる父親の姿が見えるようだった。全体がぼんやりとした影で、顔は全く分からない。
「お父さんね?」
返事はなかった。
それから古い焼け跡に向きを変えた。
「玄武は、ストーカーだったのね。可哀そうなお母さん」
口にしたのは、無意識のうちに不倫の可能性を否定したいからだった。無理心中というからには、すでに結婚していた柴乃に、玄武に対する愛情はなかったと信じたい。
玄武に殺された柴乃の無念を思いながら手を合わせる。それだけで気持ちが、ずいぶんさっぱりした。もう、涙はこぼれなかった。
女郎寺に帰った真惟は友世に、あの場所であった火災と母の死の真相を調べてきたことを話した。
「全部わかったのですね」
そう応じた友世は、詳細を尋ねようとはしなかった。
彼女は多くのことを知っていて、真惟には話さなかったようだ。隠し事がなくなったからだろう、晴れ晴れとした顔を見せた。
「全部じゃないわ。母は、どんな禁を犯したのか、父がなぜ自殺したのかは分からないの」
「禁なら……」
そこで、友世は言葉を止めた。
「どんなことでもいいの。教えてちょうだい」
「きっと、嫌な気分になりますよ」
友世の顔は青ざめ、口は重い。
「教えて。私なら、大丈夫」
友世はしばらく考えてから、華のような唇を開いた。
「肉食のことだと思います。きっと……」
そこで彼女は言葉をのんだ。
「やっぱり、……人の肉を食べたのよね?」
「え、……ハイ」
想像していたことではあった。では、誰の肉を食べたのか? その答えも薄々気づいてはいるが、確信はない。好きな人の肉を食べるはずがないではないか!
理性が受け止めるには、真惟の覚悟が不十分だった。小さな頭に詰まった脳が、古いコンピューターのようにフリーズした。
息を止めた真惟を、友世は蒼い顔で見つめている。
「真惟姉様!」
突然、奈美世の声がして、凍り付いていた脳が融けた。そんな熱を感じた。
「奈美世ちゃん。何か用事?」
「遊びましょう」
「奈美世……」
甘える奈美世を友世は止めようとしたが、それを真惟は制止した。
「いいの。私の方が、遊びたい気分だから。外に行きましょう」
奈美世の手を引いて自然以外に何もない表に散策に出た。そこで深呼吸をしてやっと、窒息しそうな状況から救われた。
女郎塚の前を通り南の坂をぶらぶらと下る。握った手で奈美世の体温を感じる。
彼女もまた、上臈家の女性なのだ。大人になれば人の肉を食べたくなるのかもしれない。
「まさか、そんなはずはないわよね」
聞いたばかりの友世の話を信じまいと思ったが、天使のような笑顔の奈美世を見ると、虎雄の言った言葉が頭の中で大きく
――亭主はいないが三人の娘がいる。何故か、考えて見ろ――
「真惟姉様、どこに行くの?」
奈美世が見上げている。その無垢な笑顔の裏側には、脈々と引き継がれてきた上臈の家の血が流れている。
お母さんの中に流れていた濃い血は、自分にも流れている。……得体の知れない何かが、胃袋から込み上げてくる。真惟はその場でしゃがみこむ。
そして吐いた。苦く酸っぱいものが唇を濡らした。
「真惟姉様、帰りましょう」
奈美世の肩を借りて……そんな感じで立ち上がる。ふらふらと庫裏に戻り、布団にもぐりこんだ。
「熱がありますね。風邪でしょうか?……」枕元で、友世が濡れ手拭いを絞る。「……帰った方が良いのではありませんか?」
彼女は時代劇に出てくる女性のような、敵意を含んだ言い方をした。
友世の言うとおりだと思った。女郎寺には、自分が生きてきた世界と異なることが多すぎて、受けとめきれない。
「そうですね。明日、帰ろうかな……」
答えると、それまで心配げだった友世の顔に僅かな安堵の表情が浮かんだ。
年齢の近い従妹に追い飛ばされるなんて、正直悲しい。客がいなくなった方が、彼女が楽になるのは分かるけれど……。
友世が枕元を離れた後、奈美世がしばらく真惟の様子を見ていた。
「奈美世ちゃん。ありがとう」
そう言葉にすると心が穏やかになり、眠ることができた。
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