その妹、たぶん、お兄さんが大好きなんだ ――鬼女の血を継ぐ者たち――
明日乃たまご
プロローグ
西暦784年、都が
都が長岡京に移ると、大和の庶民の仕事が減り、暮らしは貧しくなった。平城京の周辺のあばら家の数も減り、人の住まなくなった家が
そのあばら家には床板や家具などはなく、柱と壁の間にいくつもの隙間があった。その隙間から東にある
そのあばら家に一組の夫婦がいる。彼らは貧しかった。生駒山や飛鳥から時折やって来る盗賊さえよく知っているから、壁の隙間から中を覗き見ることもなかった。
夫はコマという名の日雇い人夫で、土木作業から農作業まで何でもやるが、仕事がないときは妻と子供を見て過ごす。それがその男の幸福だった。
妻の名はシノブと言って、大安寺近くの店で商いの手伝いをし、小金をもらうことが多かった。彼女は
その店に左腕のない僧が度々やって来た。店で食事をしていくこともあるが、ただ声をかけるだけで終わることが多かった。
その日もシノブは、「変わりはないか?」と訊かれた。
何も買わない僧は客ではない。とはいえ、ぞんざいに扱うわけにはいかなかった。僧に恨まれてはあの世に行ってからどんな目に合うかわからない。それで丁寧に答える。
「息子が腹を空かせて泣いてこまっとります」
「泣くのは子供の仕事よ」
僧の返事はありきたりの役に立たないものだった。
「何か腹がふくれるようなええまじないでも、ないやろか?」
「空腹を知らぬ子は、また、満腹も理解できぬ」
なるほどとは思うが、やはり役に立たない言葉だと思った。
――ホギャー――
その日の夕方も1歳になる息子のリュウは泣いた。
「坊やや、坊や。あまり泣き叫ぶもんやぁない。泣きおったら、
困り果てたシノブは、息子を大声で脅した。室内を吹き抜ける風の音に負けまいと思ってのことだ。
リュウは母親の言うことが分ったのか、分からなかったのか、……取りあえずは泣きやんで母親の顔を見上げた。
「遠い
リュウはぽかんとした表情で、恐ろしい物語を語る母親の口元を見ている。
「それは
部屋の奥、といっても手を伸ばせば届きそうな距離ではあったが、シノブの話を聞いたコマが言った。
「何でも旅人を襲い金品を奪うようやが、鬼女の娘が、己の命を懸けて
コマは壁の落ちた穴から見える五重塔に向かって両手を合わせる。塔は、茜色の空を背景にくっきりと黒い姿を浮き上がらせていた。
「その話は、遠い
コマの声音は優しげだったが、
「ほう。鬼女は度々生まれおるのか。お前は何でもよく知っているのう。やはり、あの片腕の坊様に教えてもらうのか? 今度の鬼女も仏様に救われると良いが。……しかし、ありがたい朝廷様も、我々の暮らしは楽にしてくれんかったなぁ。やはり、出家して仏様にすがるしかないのかのう」
コマは妻の顔を見るのに目を細めた。自分の貧しさは朝廷のせいだ、と言う夫が憎らしく、彼女はにらんだ。
長岡京は
コマは祟りなど夢にも思っていない。ただ、あらゆる時代が夢幻のように自分の中を過ぎ去っていくのは知っていた。
愛しいリュウに向かう。
「泣くなら、おかんが、食ってしまうでぇ」
――ホギャー――
リュウが声をあげた。
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