第2話 蓮見龍斗

 龍斗の乗った急行電車は、若草山の山焼きを見るために奈良に向かう見物客で混んでいた。


 窓の外にはライトアップされた平城旧跡の朱雀門が見える。それは見慣れた風景だ。


 スマホが鳴った。8両編成の4号車の最後部にいた龍は、3号車に移るドアを開けて連結部分に移動した。


 眼の上のところにジョロウグモの巣が張っていたので払うと、黄色と紫の縞模様の蜘蛛は、そそくさとゴム製のカバーの陰に隠れた。


 電話を受信するとスマホを左耳に当て、右の耳を手でふさぐ。電車が揺れるのでドアに背をもたれ、足元に視線を落として踏ん張った。


『リュウニイ、遅いやん』


「真惟か……」


 連結部分は音がうるさくて妹の声はよく聞き取れなかったが、要件は推測できる。


「……まだ近鉄電車内や。朱雀門が見える。もうすぐ奈良駅やから、先に焼肉屋に行っといてくれ」


『分かった』


 妹の声は、かろうじて聞き取れた。


 奈良の平城京を南北に走る通りは、朱雀大路すざくおおじを中心に左右へ一坊大路いちぼうおおじ、二坊大路と続き、四坊大路が最後になる。朱雀大路に復元されたのが朱雀門だ。


 平城京の東側に突き出た部分は外京げきょうと呼ばれ、そこだけ五坊、六坊と道が続き、奈良駅があるのは六坊の地下になる。


 龍斗は電話を切ってから4号車に戻ろうとしたが、そこには既に人が立っていたので諦めた。


 新大宮駅のホームを通過するのが見える。次が奈良駅、3分程度で着くはずだ。


 連結器の上はうるさいが、慣れれば、その狭い空間は個室のようで居心地がいい。しばらく、騒音に耐えようと思った。


 やがて電車は地下に入り、減速しながらカーブを曲がって奈良駅に入る。


 乗客たちはぞろぞろと列を作ってホームに降りた。


 龍斗も降りるために客室に通じるドアのレバーを引いた。が、ドアは動かなかった。


「チッ」


 舌打ちをして、反対側のドアレバーに手を掛けた。


 そのレバーも、びくともしなかった。


「なんやねん」


 疑問と憤りを口にしながら、ドンドンドンとドアをたたいた。


「すんません。誰か、開けてください」


 龍斗が叫んでも、乗客たちは気づかず、どんどん降りていく。


 やがて車両は空になった。


 近鉄奈良駅は終着駅で、電車はそこから折り返しになる。ところが車両の照明が消えた。不思議なことに、ホームから差し込む光もない。


 龍斗は完璧な闇にのまれた。


「車庫に入るにしても、普通、電気は消さんのに……」


 考えあぐねた末にスマホを取り出し、助けを呼ぼうと思った。


 スマホのディスプレーは、ほんのりと暖かな光を生む。ところが、そこに映し出された表示は圏外を示していた。


 薄明りの中をジョロウグモが突然横切り叫びそうになる。


「……ふぅ……故障か?」


 何度か再起動を繰り返してみたが、アンテナは立たない。


 やがてバッテリーが切れた。ディスプレーの明かりも消え、スマホはただの電子部品の板に変わった。


 闇が世界を覆う。


「誰かいないのか、助けてくれ!」


 声だけが龍斗の存在証明だった。


 暗闇の中、背中をジョロウグモが這ったような気がした。気持ちが悪く、背を丸める。


「誰か……」


 その時、激痛に襲われた。頭の上から、何か強い力によって押しつぶされるような痛みだった。


 龍斗は、膝からずるずると倒れ込んだ。


 頬に、冷たい床が当たる。


 圧迫感や冷たさといった感覚は、ほんの一時で消えた。


 龍斗は、全てを失っていた。視覚はもちろん、聴覚も臭覚も触角も。……

五感の全てが凍りついたように働かなかった。


 外部と関わる感覚は無くなったが、思考と記憶だけは、自分を見失うまいとするように、置かれた状況を分析していた。


 俺は、死ぬのか……、いや、もう死んでいるのか?


 床におしつけられ、小さな暗闇の中に押し込められた状況は、蜘蛛の餌食になる前の虫を連想させた。蜘蛛の巣にかかった虫は、やがてやってきた蜘蛛にぐるぐる巻きにされて食われるか、卵を植え付けられる。


 考えられる時も長いものではなかった。


 物理的空間が無に帰すると、何故か五感とは異なる新たな感覚が生まれた。生きているという感覚だ。その感覚に合わせて、胸がつぶされるような圧迫感があった。酸素を失う死の感覚だった。


 龍斗をきつく包んだ壁は、激しく、大きく波打つ。内部は噴火口のように熱かった。ぬめぬめする液体が身体の隅々に流れ込んできて、鼻と口をふさいだ。


 このまま溶けてしまうのだ。……自分が縮小し、溶けて消えてしまうような絶望に落ちた。


 その時だ。尻を蹴られたような衝撃を感じた。


 暗闇に一縷の明かりがさしているのが分かった。


 それは道標のようだ。


「そこに向かって進め」と、本能が言う。


 光は遠かった。


 硬直した身体での移動は、困難を極める。


 全身の筋肉を使って、這いずるように進む。


 まるで蛇のように……。


 進むと、光の指す場所が出口だと分かる。


 希望が生まれた。


 が、その途中にあるのは、とても狭く硬い空間で、こじ開けるのには体力が要った。


 それでも、死力を尽くして狭い出口を通ると、今度は一転、ぬるりと押し出された。


 そこは、眩い光にあふれた世界だった。


 一気に全身が解放され、喜びに喉が震える。


「アァー……」


 しばらくぶりに使った声帯が同じ音しか発しないのが、とてももどかしい。


 身体を、生暖かいものが流れるのを感じた。


 ここはどこだ……?


 見ようとしても、暗闇に慣れた目には、世界は眩すぎた。


「……名を授けよう」男の声がする。「……龍だ」


「龍?」


 疑問を投げるのは女の声だった。


「伝説の強い生き物だ。伝説ゆえ、これから食い物に困ることもなかろう」


 そこで、龍斗の意識は途絶えた。


§   §   §


 急行電車は乗客を降ろすと回送電車になる。車掌は客の忘れ物などがないかと車両を見て回った。


 そうして3号車後部のドアを開けた時、連結部に青年が倒れているのを見つけた。


「お客さん。どうしました。大丈夫ですか?」


 車掌は屈んで青年の耳元で声をかけた。


 返事はない。事務所に連絡をいれて救急車を呼んでもらう。


 救急車は、駅の真上にあるロータリーに入る。そこは、山焼きを見に行く観光客と、花火を見上げる通行人でごった返していた。


 平城京の外京は、駅のある六坊の隣、七坊大路で終わり、その東側に東大寺がある。


 東大寺の更に東北側に広がるのが、その日、山焼きが行われている若草山で、日本固有種の芝でおおわれており、普段は春日大社の神の使いと言われる鹿が草を食んでいる場所だ。


 南北の通りを坊というのに対し、東西に走る通りは条と呼ぶ。


 平城の都は、平城宮のある一条大路に始まり、南へ向かって九条大路まで続くが、外京は五条大路までである。その五条大路の途切れた先、四坊大路の東外れに、真惟の住む京終きょうばてという地名が残った。

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