第684話 『注射器の開発と北条・イスパニア・ポルトガル』(1580/11/29)

 天正九年十月二十三日(1580/11/29)


 工房の中は工具の音と共に、試行錯誤が続く中での緊張感が漂っていた。加工職人は金属の短冊状の板を慎重に扱いながら、曲げて筒状に成形する作業に取り組んでいる。


「この金属板をしかと丸めることができれば、注射針が出来上がる。されどまっすぐ、曲げずに作らねばならない」


 職人は助手と共に金属板を極細の芯金に巻き付け、叩きながら形を整えていった。叩く音が工房に響き渡り、二人の集中力が一層高まる。


「しっかりと巻き付けたか? 端をしっかり固定する必要がある」


 助手は細心の注意を払って作業を続けたが、針の精度は完璧には程遠かった。それでも、二人は断面を滑らかに研磨し、何とか形を整えた。


「やっと形になったな。されど、まだまだ改良が必要だ。このままでは玄甫殿に届ける事はできぬ。次は如何いかにすればより細く仕上げられるかを考えよう」


 助手は疲れた中にも意欲が感じられた。


「はい師匠。次も頑張りましょう」


 工房には、新たな挑戦に向けた決意と期待が満ちていた。





 ■小田原城


「殿、これから如何いかが致しましょうか?」


 板部岡江雪斎は、年の暮れも押し迫った昼下がりに、氏政に尋ねた。


「さて、事の様(状況)は殊の外悪いようだ。イスパニアが負けたというのも、小笠原からの報せで間違いないようであるし、交易もままならんのがその証じゃ。佐竹に宇都宮も小佐々に屈したというのは誠であるか?」


「誠にございます」


「海軍の再建はすすんでおるのか?」


「は……それが、銭が足りぬのはもとより、船大工もイスパニアの大工から学ぶ時間が足りなかったようで、一力(独力)では満足には造れぬと申しております」


「なんじゃと?」


 しかめっ面をした氏政は江雪斎をどなるが、すぐに『すまぬ』といって冷静になる。


「そうか、ならば我らが一力で船大工を育てるしかあるまい。まずは、民の中から腕の立つ者を選び出し、絵図面は残っておるであろうから急ぎ造らせるのだ……大砲の鋳造は如何じゃ?」


「はい、鋳造に関しては、幸いにして鋳物師は絵図面とあわせ、つぶさな術まで残していきました。それ故既にいくつかの試作は成っており、すぐさま用いる事能います。されど大量にこしらえるには、さらに銭と人手が要りまする」


 氏政は深く考え込むように眉をひそめ、目の前に広げられた地図をじっと見つめた。


「されどこれ以上、年貢を増やすわけにもいくまい。開祖宗雲公以来、四公六民は我が北条の祖法であるからな。なんとかして捻出するのだ。小佐々と戦をしておる訳ではないのだから、もっと商いを盛んにし、利をあげるのだ」


「はは」


 さて、さて、この状況をどう考えるか? 純正からなんの音沙汰もないのが気になる。一時は上洛せよと、矢のような催促だったのに、ピタリとやんでいる。なぜじゃ?


 氏政の思案は続く。





 ■イスパニア マドリード王宮


「そんな馬鹿な事があるはずがない! あっては成らぬ事なのだ!」


 フェリペ2世は報告書を机に叩きつけ、怒鳴り散らした。


 窓の外には冬の冷たい風が吹き荒れ、木々の枝が揺れている。ヌエバ・エスパーニャ副王からの報告に、フィリピーナ諸島の件が触れられていないのを不審に思いつつも、楽観視していたのだ。


 帝国の艦隊50隻が得体の知れぬ東洋の蛮国に負けるなど、考えられない。


 しかし、隣国ポルトガルからの情報と、メキシコからの定期連絡が途絶えている現実が、フェリペ2世の胸中に不安の種をいていた。


「宰相よ、ポルトガルからの情報を詳らかにし、ヌエバ・エスパーニャ副王と再度連絡を試みよ。何が起こっているのかを即刻明らかにするのだ」


「はい、陛下。ただちに手配いたします」


「そしてもし……」


「もし?」


「もし事実ならば、一度ならず二度までも……残念だが、解任するより他あるまい」


「はは」


 宰相は深々と頭を下げ、急ぎその場を後にした。

 

 フェリペ二世は窓の外に目をやりながら、心の中で次なる策を練り始めた。心には怒りと焦燥が入り交じり、帝国の威信を守るための決断が迫られていた。


「我がイスパニアの栄光を、この手で守り抜かねばならぬ。どのような手段を使おうとも、必ずやこの敗北を雪ぐのだ」


 しかし、50隻もの艦隊を破った敵とどう戦えというのだ? ここ欧州では新教どもが我が物顔ではないか。ネーデルランドの勢いも止まず、独立などとうそぶいておる。


 一気に鎮圧を図った戦でも劣勢で、司令官を更迭してやっと戦線を維持して居るが、南部が協調的なのが救いだ。こんな状態でどうやって戦費を捻出するというのだ?





 ■ポルトガル リスボン王宮


「そろそろ、頃合いであるかな」


 セバスティアン一世は宮殿の大広間で廷臣たちの前に立ち、厳しい表情で話を続けていた。


「余は8歳で婚約をさせられ、しかも相手の都合で何度も結婚を延期させられた。これは婚約を破棄するに十分な名分である」


 家臣たちはざわめき立ったが、セバスティアンの決意に揺るぎはなかった。


「我々の改革により国庫は富み、民もまた安定した生活を享受している。今こそ、自らの道を切り開く時が来たのだ」


 彼は振り返り、宰相に目を向けた。


「宰相よ、伯父上、いや、フェリペ2世陛下に対して正式に婚約破棄を伝えよ。しかし、慎重に対応せよ。イスパニアとの関係が悪化しないよう、冷静に進めるのだ」


 宰相は深々と頭を下げた。大叔父である枢機卿ドン・エンリケはすでに亡く、新しい宰相である。幼かったセバスティアン1世も、26歳となっていた。


「はい、陛下。直ちに手配いたします」


「それから宰相よ、肥前国より輸入した『Rasenju』の生産はどうだ?」


「はい陛下。『Rasenju』の生産は順調に進んでおります。既にいくつかの試作品が完成し、実戦投入の準備が整っております。また、鍛冶職人たちはその技術を習得し、さらなる量産体制の強化を図っております」


 宰相は自信を持って答えた。


「それは良い知らせだ。イスパニアとの関係が不安定になる事を考慮すると、我々の防衛力を強化することが急務だ。引き続き、肥前国との技術交流を深めるよう努めてくれ」


 セバスティアン1世は重々しく言った。


「承知いたしました、陛下。肥前国との協力関係をさらに強化し、技術移転を進めて参ります。また、『Rasenju』の生産だけでなく、その運用方法についても軍に徹底的に教育を施すことを考えております」


 宰相は再び深々と頭を下げ、王の指示を心に刻んだ。


「それでよい、宰相。国の未来は我々の手にかかっている。万全の準備を整え、どんな状況にも対応できるようにしよう」





 ポルトガルはスペインと一定の距離を保ちつつ、新たな婚姻を求め、プロテスタント国家と宥和ゆうわ政策をとっていく事になる。





 次回 第685話 (仮)『大日本政府、初年度予算(負担金)と電池』

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