北条と東北。明とスペイン、欧州情勢。

第604話 ガレオン船によるセブ-小笠原-アカプルコ貿易

 天正三年七月十八日(1574/8/4)


 そのころ、北関東の下野と常陸においては、北条が攻勢を強めていた。


 結城氏はすでに降伏して北条の軍門に降っており、常陸の佐竹と下野の宇都宮は同盟を組んでいたものの、北の那須家と組んだ北条に圧倒されていたのだ。


 氏政は那須家とあわせて蘆名・岩城家と結び、北と南から佐竹と宇都宮を包囲する戦略をとったのだが、武田と不可侵を結んでいる北条は全力を北に向けることができたのである。


 かくして北条は、常陸では鹿島・行方なめがた新治にいはり信太しだ・筑波・河内・真壁郡の七郡、下野では安蘇郡と都賀郡を獲得するに至った。


 ■小田原城


「ふふふふふ。やはり正しき選択であったのう。これだけの鉄砲に玉、それに玉薬があれば宇都宮も佐竹も敵ではない。このまま常陸と下野を我が物にしてくれよう」


 氏政は小田原城にいながらにして全軍に指示をおくり、領内で盛んに鉄砲を作っては軍の装備に組み込んでいた。


 ここで目を海外に向けてみると、氏政はスペインと交易するにあたっては純正の情報を売り、金・銀・銅や硫黄、漆器や刀剣、海産物を輸出した。


 氏政がどの程度小佐々について調査をし、情報を得ていたかは不明である。西日本を統べ、中央の織田と東国の北条と拮抗きっこうする三大勢力の一つとでも教えていたのかもしれない。


 客観的にみればこの時点で小佐々の優位は揺るぎないが、スペインと共に氏政が純正の事を過小評価していたのは確かである。


 北条の輸入品目としてはなんといっても硝石であったが、ヌエバ・エスパーニャ領内(メキシコ)では硝石が原野や洞窟に豊富にあったのだ。


 メキシコで作られた火薬はもとより、自作するための硝石を大量に輸入していたのだが、ここで重要なのは明の対外政策と、マニラとセブの位置づけである。


 当時の明は海禁政策を緩和し、朝貢貿易以外でも民間の貿易を黙認していた。


 さらに張居正の改革によって海禁策は廃止された。


 もちろん朝貢貿易は継続されたが、民間人の貿易と海外渡航を認め、さらにアルタン・ハンとも和睦して対モンゴル交易も開始されたのだ。


 しかし日本だけは違った。


 倭寇の過去があり、勘合貿易の実質は足利幕府から西国の諸大名に移っていたが、西国の諸大名=小佐々である。


 その小佐々とは台湾の領有に関する主張の対立で険悪であり、交易は成立していない。


 史実では日本は朝貢をしなかったが、琉球やポルトガル(南蛮)との貿易で、明の産物や東南アジア、そしてヨーロッパの品物を手に入れていた。


 生糸・絹織物・陶磁器・鉄砲・火薬・毛織物、東南アジア産の香料・革製品を輸入して、日本銀・銅・刀剣・工芸品を輸出していたのだ。


 ここで史実との重大な相違点がある。


 小佐々領内ではすでに生糸の国産と量産化に成功しており、絹織物や陶磁器にしても、明国産のそれと比べて遜色ない品質のものが流通していたのだ。


 純正は明国のように海禁はしていない。貿易は官営のものもあるが、民間でも自由に行われていた。


 つまり明と交易しなくても、ポルトガルや東南アジアの諸国は小佐々と交易することで十分な利を得る事ができたのだ。


 その流れの中で、ポルトガルは明との中継貿易から、完全に小佐々との直接貿易に舵をきった。


 ポルトガルは新大陸やアフリカ、インドで産する物を輸出し、東南アジア諸国は特産品として、日本国内や琉球・台湾・マニラでは産する事が難しい産物を輸出したのである。 


 将来的に未開拓の土地での生産が始まれば状況は変わるであろうが、現時点ではそうであった。


「これはこれは……。やりようによっては……ふふふ。明国と小佐々が南方の地を巡って争っているとは、イスパニアにとっては良い知らせとなろう」


 マニラは周辺地域における貿易の中心地であったが、ここで仕入れた商品を商人がセブ島に持っていき、各地に流通するのが史実であった。


 それがために、貿易の中心であるマニラはスペインから狙われたのだ。


 しかし朝貢貿易はともかく、民間の貿易に関しては小佐々産の方が高品質で量も多い事から、明の商人にとっては販売量が激減した。


 死活問題であり、そこでセブ島を根拠とするスペインに目をつけたのだ。


 明の商人はマニラを介さずにセブ島に赴き、スペイン人に売る。スペイン人は北上して小笠原にて北条に売り、日本の産品を得る。そしてアカプルコに向かう。


 明の絹製品や陶磁器などはアカプルコで倍の値段で売れたが、北条が提供する日本製品も高額で売れたのだ。


 明国政府としても、ポルトガルやその他の朝貢国との民間貿易額の減少は由々しき事態であり、新しい貿易相手としてのスペインは魅力的であった。


 純正としては明とスペインの親密化や同盟は避けるべき事態であったが、マニラに派遣している海軍を使って妨害すれば、明とスペイン両方を同時に敵にまわす可能性があった。


 派遣艦隊の再建は完了しているものの、新型艦の完全就役はまだである。


 不安をかかえたままの開戦、しかも二ヶ国を同時に敵に回すことは避けたかったのだ。


 ■日ノ本大同盟合議所 


「さすが(平九郎)、これでことごとく畿内に静謐せいひつをもたらした」


 前回の合議で織田からの発議を譲り受けた本願寺の対処について、純正の行動に義のりは感嘆して言った。朝廷への参内と京都の視察に来ていたのだ。


「されどよろしいのですか? これで権中納言様の権勢はいや増すばかりとまりましょう」


 傍らの大塚孫兵のじょうつら家がそう言うと、義慶は答える。


「何を申すか。権中納言様の権勢は今に始まった事ではないではないか。わしはあの方の器量にほれ込んで盟を結び、そのおかげで能登も栄えておる。なんの不満があろうか」


「はは。仰せの通りにございます」





「やはり、成るべくして成ったか」


「うむ。兵部きょう様におかれては如何いかんともしがたい事ではあろうが、それでも紀伊は実入りが多くなったであろう」


 曽根虎盛の発言に武藤喜兵衛が答えた。


「そうだな。紀伊守護の畠山左衛門督さえもんのかみ(秋高)殿は亡くなったが嫡子・庶子ともになく、甥の左衛門佐さえもんのすけ(貞政)殿がついだ。されど未だ齢十八にして、家中に不安がないとは言い切れぬ。守護代は兵部卿様推薦と紀伊の国人から出すそうだ。今の越中の修理大夫様(畠山義慶)と権中納言様との間柄に似た形となると聞いた」


 純正は越中守護の義慶を旗頭に謙信と戦い、守護は義慶、守護代は菊池武秋としながらも、自らの領土を拡げていた。

 

 純正と義慶は個人的にも親密で、小佐々と畠山は大同盟以前からの同盟関係にある。


 対して紀伊畠山は織田家に服属しており、叔父である秋高の跡を継いだ貞政と信長の面識は、家督相続の際の一度しかない。


 守護との力関係では織田家が上だが、紀伊の宗教勢力の寺領や権益を織田家が吸収したとしても、畠山の直轄地以外の支配体制として言えば、若干の弱さは否めない。


 そもそも純正は越中において自領以外を支配しようとは思っていないのだ。しかしそれでも、現状よりは紀伊における織田家の影響力は格段に高まった。


 加賀は傀儡かいらいの守護である富樫泰俊が老衰のためなくなり、嫡男の富樫加賀介種春が38歳にて家督を継いでいた。純正はこれを正式に朝廷に上奏し、加賀守ならびに加賀守護としたのだ。


 大同盟に参加している大名の家中でも、~守という官職を自称している者も多かったが、すでに称しているものはいちいち詮索はしなかった。


 ただし、今後の自称は禁じなくても自粛する傾向がある。





「日向守殿、こたびの権中納言様の差配、いかが思われるか?」


 秀吉が光秀に質問した。


「……是非もなしにござろう。多少の失は双方にあったものの、ここまでまるく収められては、なにも言えぬ。加賀においては合議の末に守護代と役人を選び、紀伊はほぼ我らが選任である」


「殿は、いかがされるであろうか」


「わからぬ。されど一任されると仰せになった以上、これを覆す事などできないのではなかろうか」


 改めて小佐々の影響力の強さと交渉力の高さに驚きを隠せず、まるでおこぼれをもたったような結末には、はがゆい思いもあった。しかし、どうする事もできなかった。


 加賀は合議で治めるとして、紀伊においては、ほぼ越中と似た形の統治形態となったので、織田家としては文句のつけようがないのである。





 ■数日後 合議所


「皆様、よろしいでしょうか?」


 発言したのは里見家家老、正木左近大夫頼忠である。


 次回 第605話 対北条戦略と対明経済戦略

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