第517話 遊佐続光の苦悩 親上杉派の危機と上杉謙信の脅威

 天正元年(1572年) 三月十三日 能登国 所口湊


「一体何なのだ、この米の量は尋常ではないぞ」


 遊佐続光つぐみつ(親上杉)は大量の兵糧が運び込まれているのを聞いて、慌てて所口湊へ向かい様子を見に来ていたのだ。


 交易船もさることながら、能登国所口湊にはおびただしい数の兵糧を積んだ輸送船の姿がある。


 後世の弁才べざい船と呼ばれる商船の原型だ。


 当時の主力の商船の大きさが二百五十石前後(諸説あり)であることを考えると、この日の所口湊の様相は異様とも言える有り様であった。


 そのほとんどが千石積みの規模である。二百五十石が約37.5トンであるから、千石だと約150トンとなる。当時の主力と比べると4倍ほどの大きさだ。


 その千石船から次々に米俵が運び出され、荷馬や荷車に乗せられては消えていく。その様子を見ながら細々と指示を出しているのは原田孫七郎だ。


 純正が義慶の警護のために残してきた孫七郎であるが、他の数名とあわせて別命があったのだ。


 上杉との対戦が避けられなくなった場合に備え、兵糧を備蓄しておくようにである。


 二月初めの会議の段階では、純正は外交によって上杉を牽制しようと考えていたが、最悪の場合一戦もあると考えていた。


 門司の第二師団と阿波の第三師団、そして呉の海軍第四艦隊にも出動準備をかけていたのだ。


 純正は能登畠山との交渉が成功裏に終わることを確信していた。


 そのため、日高このむが能登に出発してすぐに輸送船の手配をしていたのだが、その輸送船が到着し、てんやわんやの騒ぎとなっている。


 そして予想通り、謙信の返事は玉虫色(どのようにでも解釈できるもの)であった。


 上杉と開戦となれば、家中での自分の立場はない。そう親上杉派の続光は考えていたのだ。


 信長包囲網の崩壊と越前平定による長続連つぐつらの台頭により、徐々に影響力に陰りを見せ始めていた遊佐家であるが、まだまだ家中での存在感は大きい。


 長続連が五割、残りの遊佐と温井で半々、これでようやく家中のバランスがとれていた、と考えるとわかりやすいかもしれない。


 その均衡が徐々に崩れてきているのだ。


 親上杉派の自分が、謙信の越中一向宗攻めによって親一向宗派の温井家と争うようになると、ますます発言力を失い、結果的に親織田の長続連の力を増やす事になる。


 それだけは絶対に避けねばならない。


 権力基盤が定まらず、織田に上杉、そして一向宗とフラフラしている状態だと思われれば、謙信の能登介入を招きかねないからだ。


 それはつまり、軍事侵攻の可能性を秘めていた。


「孫七郎殿(小佐々純正の家臣、原田孫七郎)、ずいぶんと米の量が多いようですが、これは……」


「無論、兵糧にござる」


「兵糧! ? 一体いずこといくさをするのですか? それがし、何も聞いておりませぬぞ!」


 先日の純正との会談では続連つぐつらに隠れて印象が薄かったが、遊佐続光つぐみつは前述のように、七人衆の一人にして親上杉派の重鎮である。


 その続光には知らされていないのだ。


「否、美作守みまさかのかみ殿(遊佐続光)、思い鎮めて(落ち着いて)くだされ。いずこかといくさをいたす訳ではございませぬ。そも(そもそも)、このいくさの世にて事に備えるのは、何も悪しき事にはございますまい」


 孫七郎のこの言葉は、もちろん方便である。


「然れど……」


「美作守殿、能登は山も多く、高も少ない。されど北海の交易の間の地にて、帆別銭(入港税)やいさり、物の流れに伴う商いにて、朝夕事あさゆうごと(生活)には困っておらぬのではありませぬか?」


「左様にござる」


かえりて(反対に)、城の兵糧小にして、いくさのたびに商人に命じて手配しておったのではありませぬか? 備えあれば憂いなしと申します。なに、いくさがなければそれでよし、飢饉のみぎり(際)の助米として使えばよろしい」


「……孫七郎殿、中納言様がこれほどまでにわれらに気を遣うていただけるのは、ありがたい。然りながら、その心根(本心)が計りかねる」


「美作守殿、そは(それは)邪なる推し当て(邪推)にござろう。また(それに)、誠に謙信公が越中を平らげたら、いかがされるのですか?」


「いかが、とは? 言うておる事の趣(意味・内容)が解せぬのだが」


「謙信公は永禄十一年のみぎり(頃)、先代ご当主様(畠山義綱)の能登入りに合力されております。そはすなわち、当代の修理大夫様をお認めになっておらぬと言う事に他なりませぬ」


「……」


「美作守殿がいかに上杉と親しとはいえ、このうつつ(現実)は変わりませぬぞ。能登畠山は頼むに足りず、と討ち入らるるやもしれませぬ」


「謙信公が、はたして、この、能登にまで討ち入りましょうや?」


「そは心得難し(予想し難い)と存じます。然りながら、大義だ名分だと掲げながら、挙句(結局)は椎名も神保も、上杉の軍兵(軍勢、ここでいう陣営)となっておるではありませぬか」


「……」





 遊佐続光は、自らの出処進退と能登の将来を考えれば、黙って兵糧が運搬されるのを見ているしかなかった。


 越中の瑞泉寺や勝興寺の一向宗徒が謙信に攻められても、能登畠山には直接の影響はない。


 ただ、そのまま加賀へ進もうとするなら、後背の能登においては信頼がおけなければならない。


 信頼に足らぬ、と思われれば、加賀に入る前に能登に入るだろう。


 残念ながら、謙信にしてみれば、現状としては信が足りないと言わざるを得なかった。





 ■加賀 金沢御坊


法橋ほっきょう様、日高甲斐守と仰せの方がお見えになっています」


「(日高、甲斐守? 聞かぬ名だ)いずこの御家中か?」


 本願寺より対上杉戦の指揮を命じられて加賀に滞在していた杉浦玄任のもとに、小坊主から報せがはいった。


「はい、小佐々の御家中と名乗られております」


「あいわかった。通すがよい」





「はじめてお目に掛かります、小佐々権中納言様が家臣、日高甲斐守にございます」


「これはこれは、玄任にござる。西国からの御使者にござれば、遠路くれぐれ(はるばる)とご苦労様にござった。して、こたびはいかがされましたかな? 拙僧は口下手ゆえ、さっそく本題に入りたいと思うが、いかに?」


「然れば有り体(率直に)に申し上げまする。われらは玄任様とよしみを通わしたく存じます」


「そは、われらの本山、石山本願寺と、という事にございますか?」


「無論にございます。そもわれらは石山の本願寺とも、門主様とも争う気はござりませぬ」


「はて、そは信長と……失礼、兵部卿殿との盟約は失せけり(なくなった)にござろうか?」


「然にあらず、兵部卿様はあづからず(関与せず)、わが小佐々との誼にござる」


「ははは……」


 玄任は静かに笑う。


「これは異な事を仰せになる。和睦しけりとて、われらと織田家とは相容れぬ仲にござります。今は良くとも、いつまたいくさを仕掛けてくるかわかりませぬ」


「なるほど」


「それゆえ、織田家のお味方の権中納言様と誼を通じるは難しと存じます」


「そは、いささか事寄りし意趣(偏った考え)にござらぬか? なにも攻守の盟を結ばんとするもの(結ぼうと言う事)に非ず、ただ盛んに商いを行い、それがためによしみを通わん(親交を結び深めよう)としておるのです」


「されど、拙僧の一存では決められませぬ」


「構いませぬ。どうぞ石山の門主様のご意向をお聞きになってお決めください。それでは」





 純正は、これで本願寺に対する布石は打った事になる。


 越中の一向宗徒はどちらかというと厭戦であるし、信長が脅威であれば、越前を平定した今、なおさら加賀の一向宗としては純正とつながっていた方がいい。


 純正は石山本願寺の賠償金減額交渉には力を貸さなかったが、それ以外で和睦がなるよう手を回していたのだ。


 織田に対しても上杉に対しても、一向宗としては小佐々と誼を通じていた方がなにかと都合がいいはずなのは間違いない。





 ■越後 春日山城


「して、いつごろ打っ立つ能う(出発できる)であろうか?」


 謙信は家老の須田満親に尋ねる。


「は、急がせれば三月末か、四月の頭には能うかと存じます」


「ふむ、左様か。まさし(予想通り)かな。越中の椎名と神保を入れれば三万二千ほどにはなろう。彼の者らのみでは一向宗には抗う事能わぬゆえ、慎んで動くべからず、と伝えておきなさい」


「はは」





 謙信の越中侵攻は着々と進んでいた。

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