第64話 アギド

「な、何てことを………。あ、アギド………。お、お前にそんなの誰も望んじゃ……いない……」

「ヴァ、ヴァイ……」


「そ、そんなことは………お、お前が……。一番良く知っている筈だぞ………。これでは、あの悪夢よりもむごたらしい結果じゃないか………」


 まるで目前にて繰り広げられた観たくもない演劇を見せつけられ、力なくひざから崩れ落ちてゆく暗黒神ヴァイロ


 アズは大いに落涙らくるいしているが、ヴァイロの方は、そんな身体の反応すら欠落けつらくしたかのようだ。


 ◇


 アギド………。その品の良さは、真っ直ぐに生きた父と、誠実せいじつな母から受け継いだもである。


 カノンに生まれたというだけでその家庭が世辞せじにも裕福とは言えなかったことは今さら説明不要だが、両親の寵愛ちょうあいを一心に受けて生きていた彼の幼少期は、充分に幸福であった。


 幼き頃の彼は、正義感にあふれ、父親に良く似た熱血漢ねっけつかんであった。

 今でこそからめ手を得意とするが、当時はいじめなどを見つけたら、直情ちょくじょうで突進するタイプだった。


 彼が真実の弟のように思っているアズールに良く似ている。


 ただ身体が大きくはなかったので、その正義感を上手に使えず、負けて泣きべそをかくことが多々あった。


 正義は我にあり。それを果たせないことに苛立いらだつ日々。


 特に武術などをならっている訳でもないのでただただ自己流で身体をきたえることに固執こしつしていた。


(相手の動きがもし読めるなら、誰にだって負けやしない……)


 幼きアギドは負けて生傷なまきずを増やす度にそう思った。


 6歳の頃、それは突然現実になる。ここいらで一番強い悪ガキ相手に争っている中途ちゅうとの出来事だ。


(あ……、右手でなぐられる)


 理屈りくつじゃなくただ何となくそう判断出来た。かといってそれをいきなり実戦に生かせるほど甘くはない。


 しばらくは判っているのに殴打おうだされる………。その理不尽りふじんさの方が、殴られる痛みよりも辛い時間が続いた。


 これは単に殴られている内に、相手の初動しょどうくせを知れただけのことかと思いこんだ。


(せ、せめてもう1秒……。いや、そんなに要らない。コイツが動く前に見せてくれっ!)


 したたかに殴られ続けながらコンマ何秒という未来視みらいしを望むアギド少年。遂に彼の中で覚醒かくせいが始まる。


 ―これで終わりだっ!

(………っ!)


 それはアギドの望む以上の形で聞こえてきた。感覚でもない、未来視ビジョンでもない。


 相手の心中の声が突如とつじょ、アギド少年の中に響いて来たのだ。

 それをまるで目に虫が入るの防ぐ反応のごとく、脳をかいせず両腕が勝手に上がってガードする。


 しかしこれは一見なんの不思議でもないことに相手には思えた。むしろ今までただ顔を殴られ続けていた方が異常であり、次も顔狙いだから防がれただけ。


 ―じゃあコイツ右脚でどうだっ!


 右脚で腹を狙った蹴り。狙い所も動作もこれまでと異なるのでこれで終わりだと確信する相手。


 だが蹴りは自然と動きが大きくなる。判っていながら黙ってやられる道理どうりはない。遂にアギド少年は、後ろに飛んで完全にけることに成功した。


 ―はっ!? ま、まぐれだ。そうに決まってる。そこの石を拾って投げつけ………。


 少し距離を開けられたと思った相手は、間を潰す武器を地面の石ころに求めたのだが、拾おうとした所をアギドの踏み込んだ右脚に思い切り踏み潰され、その目論見もくろみは泡と消える。


「い、いてぇッ! テメエッ!」


 指の骨が折れたのではないか思う程の痛みにひるむ相手。起き上がれずに自分の足元で動きを止めた相手に対し、アギド少年に慈悲じひの気持ちなぞ皆無。


 彼に限らず優勢ゆうせいに立った時の子供は実に残酷ざんこくだ。容赦ようしゃなく蹴りを幾度いくども浴びせてゆく。


 形勢大逆転、こんな痛快つうかいなことはない。初体験の気分に酔いしれて、助けられた少女がドン引きしているのをお構いなしに血だるまにしてやった。


 以来アギド少年は、喧嘩けんかで負け知らずとなり、最早喧嘩する相手どころか彼の前で悪さをする連中すら消えたので、近所は平和になった。


 それは良かった。だが聞きたくもない様々な周囲の心すら勝手に届くようになってしまった。


 ―アイツは、何かやべぇから近寄るな。

 ―助けて貰ったけどなんだか怖いよ………。


 少し距離が近づいただけでそんな心無い声が飛び込んで来るのだ。6歳の少年にとってこれは地獄に思えた。


 そしてアギド少年の心をへし折るのに充分過ぎる程のインパクトが訪れる。


 ―嗚呼………。また今すぐにでもあの御方の元へ行きたい。


 ―もう夫も息子も要らない。だってあの人に抱かれている時だけが、今の私の幸せなのだから………。


 それは誠実だった筈の母親から漏れた本音であった。


 大好きだった母が、不倫ふりんをしていたことを事実より先に、心の中から知ってしまった。


 しかも対する父親の心中はこうであった。


 ―近頃昼間に化粧をして出掛けることが増えたな………。アレは間違いなく男だ。


 ―でも仕方がない。俺の稼ぎが少なくて家に居られることが少ないし。しかも妻は頂戴ちょうだいしているらしい。


 ―これでは責める要素が見当たらない。せめて別れないように努力しよう。


 あろうことか父は、妻の情事を判っていながら黙認もくにんしていたのだ。二人共、息子の前では良い両親を演じていたことに気がついたアギド少年。


 正直今すぐにでも出て行きたいと考えたが、先ずは勝手に飛び込んくる周囲の心中を意識して断絶シャットアウトするすべを見出そうと躍起やっきになった。


 やがて心を読みたいとする相手の声だけが、聞こえるよう制御出来るに至る。


 此処まで出来るようになった彼は、家を捨てて同時に姓もがしてただのアギドと呼称こしょうされる存在になることを望んだ。


 まだ10歳であったが、彼の強さに金を用立ようだてしてくれる大人の世話を受けて生きてゆく。


 そんな特異とくいな存在が、人の少ないカノンにおいてうわさが広がり、暗黒神ヴァイロが知り得ることになるのに、さほど時はようさなかった。


 ◇


 アギドの唇を奪った直後、二人は一瞬スイッチが切れたかのように活動を停止する。

 未だ宙に浮いていたので、落ちるのではないかと思われたが、両方同時に再開した。


「あ……。こ、これは……っ!」


 マーダの意識が抜け落ちてトリルとなった女性は、キスの直後だけうつろな顔をしていたが、自らが解放され縛る存在がアギドに移ったことを知覚する。


 ただマーダの保有していた力によって浮いていたので、落ちながら後ろ髪を引かれる格好でアギドでなくなった者の存在だけをひたすらに見つめ続ける。


「大丈夫でございますか?」

「あ、ありがとう………。ち、違います、そうじゃない。か、彼は………」


「…………っ!」


 地面スレスレの所をミリアが抱えて大事には至らなかった。けれどもトリルにとっての大事は自分よりもあの青い髪の青年なのだ。


 詰め寄ってくるトリルに対するミリアからの応答は無言。曇った顔を向けるだけである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る