雛祭さんは逃げ出したい 7
オリオン座流星群は、ハレーすい星を母体としている流星群らしい。一時間あたりに、五個から十個の流星が見られ、その流れるスピードも速い。夜空のあちこちで流れる流れ星に混じって、火球や流星痕が見られることもあるらしい。
ふだん、夜空なんて見あげないおれにとっては、火球や流星痕というのが、どれほどにめずらしいもので、オリオン座流星群がどれほどありがたいものなのか、ぴんときていない。
ただ、これは雛祭さんがもとの世界にもどるために必要なもので、今、雛祭さんは期待に満ちた表情で、ホテルのバルコニーから夜空を見あげているということだけは、わかる。
「雛祭さん、あの数字……覚えてる?」
「はい、もちろんです。三回、唱えるんですよね」
「ああ」
「あの、鯉幟くん……」
「な、何?」
改まったようすで名前を呼ばれ、おれの心臓は跳ねあがった。
部屋のなかでは、みくりと山際さんがテレビをつけ、オリオン座流星群のニュースを見ている。同時に、インスタなどのSNSで情報も集めてくれているみたいだ。
なぜかおれは、ふたりに会話の内容を聞かれませんようにと願った。まだ、流星群は流れていないというのに。
「わたしって、記憶喪失……なんですよね」
「ああ、うん。そう……みたいだ」
「でも、わたしにはエーデルリリィの記憶があるんです。これが、ずっと不思議でした……」
「うん……」
「鯉幟くんに、ずっと聞きたいことがあったんです」
「何……?」
「記憶を失くす前のわたしって、どんな感じでしたか?」
雛祭さんが、以前の自分のことをはっきりと聞いてくるのは、初めてだ。ずっと、エーデルリリィにいた自分の話ばかりで、記憶を失くす前の自分のことなんて、興味ないんだと思っていた。
「今と、変わらないよ。いや、今の雛祭さんよりも、もっとまじめだったかな」
「そうですか……」
「だけどさ、まじめだろーと、そうじゃなかろーと、どっちも雛祭さんなのは変わらないよ」
「でも……」
「うん」
「わたしは、エーデルリリィに戻っていいんでしょうか」
雛祭さんの手首には、ピスプル―――シーグラスのブレスレットが着けられていた。銀のプレートには『49114』と掘られている。
ほしるべ洞窟と書かれた封筒に入っていた、例の数字だ。
雛祭さんの「エーデルリリィに帰りたい」という気持ちがこめられている。
「不安なんです。わたし、自分のことがわからないから……。でも、エーデルリリィという国で過ごした記憶だけはある。だから、そこがわたしの故郷で間違いないって……」
もしかすると、雛祭さんの異世界転生に関した記憶は、具体的なものではなく、断片的なものだったのではないか。
本人のなかでなんとなくそうなんじゃないか、という情報しかなかったら、そりゃ不安になるよな。だから、「自分はエーデルリリィの人間に違いない」と思いこむことにしたんじゃないか。
人間の本能からくる、自己防衛機能みたいなものが、働いたんだろう。
「記憶があやふやで……一度、わたしの故郷はエーデルリリィではないのかもしれないって思ったら、やっぱりそうなんじゃないかって」
「いや、きみはエーデルリリィから来たんだよ!」
がしっと彼女の肩をつかみ、いい切る。
その時、雛祭さんの頭上の夜空に、きらりと一筋、光が流れた。
「わたしは……鯉幟くんが知ってるころのわたしのほうが、いいでしょうか……」
「雛祭さん……?」
「『わたしの異世界転生記録』は、知らないわたしが書いた、知らないわたしの言葉で書かれていました。知っているはずことなのに、なんだかよそよそしい……。書いた記憶がないのに、なんだか知っている……。おそろしいんです。わたしは今、どうしてこんなところにいるんだろうと、こわくて……孤独で……」
「うん、うん……」
「すみません。鯉幟くんには、いつも弱音を吐いてしまいますね」
おれは、いおうかいうまいか、迷った。
でも、なりふりかまっているときじゃない。雛祭さんには、おれの気持ちを知ってほしい。
そう思うと、いわずにはいられなかった。
「おれは、どんな雛祭さんだって、すきだよ」
「え……」
とたん夜空に、幾筋もの星の筋が、シャワーのように流れていく。
ひとつ、ふたつ、みっつ……。
オリオン座流星群が、雛祭さんの頭上に、光をこぼしていく。
それでも、今はじっくり観察しているときではない。
おれは目の前の雛祭さんに、気持ちを伝えることに必死だった。
「今とか、昔とか、関係ない。おれは雛祭さんが、雛祭さんだから、こうして今も、ここにいるんだ。だから、そんなこと、いわないでほしい。雛祭さんには、その……あの時の芋ようかんみたいに、気になったことにまっすぐでいてほしい……というか」
「今回は、逆ですね」
「え?」
「わたしが、鯉幟くんに、怒られちゃってます。デイキャンプのときと、逆です」
くすくす笑う雛祭さんに、つられておれも笑ってしまう。
次々に流れる星たちは、きらきらとまたたき、雛祭さんのつややかな髪を、ちかちかと照らした。
「え! オリオン座流星群です! いつのまにか、あんなに降ってます!」
「大丈夫、まだ間に合うよ。数字を三回、唱えるんだ」
「はい!」
雛祭さんは両手を胸の前で組んだ。
そして……ゆっくりと、唱える。
「49114……49114……49114……! どうですかね、何か異変はありますか? 異世界への扉とか、開いてませんか?」
「いや、まだだよ。でも、大丈夫。雛祭さんが、あんなに心をこめて祈ったんだからさ」
「そう……ですよね。大丈夫ですよね!」
オリオン座流星群は、しばらく振り続けた。
人々の多くの願いを背負って、きらきらといずこへと、流れていく。
雛祭さんの願いを背負った星は、いったいどれだろう。
夜空にひときわ輝く星を見つけ、おれも祈ってみる。
願わくば、雛祭さんが、雛祭にさんになれますように―――と。
しっとりと夜空を見上げていると、部屋からにやにや顔のみくりと山際さんが、ひょっこりと現れた。
「大知ー。そろそろ先生たちの巡回の時間じゃない?」
「やべ!」
「んふふ、泊まってくー?」
「あほか!」
ここから部屋に戻らなくちゃいけないのか、至難の業だぞ。
オリオン座流星群に、ついで気配を消す特殊能力がほしいです、と祈ることも考えるべきだったかもしれない……。
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