「わたしの異世界転生先はここ?」と記憶喪失になったクラスの美少女がいってるんだが、いったいどうした!?
中靍 水雲
1日目 水曜日
雛祭さんには記憶がない 1
おれの目の前で足を滑らせ記憶を失い、自分のことを『異世界転生者』だと思いこむようになるまでは……。
高校三年生の、十月。クラスの連中は、いよいよせまってきた修学旅行のことで頭がいっぱいのようだった。勉強そっちのけなのは、いうまでもない。
もしかしたら、女子といい思い出が作れるかもしれないのだから、当然だろう。もちろん、おれだって同じ気持ちだ。
だが、生まれながらの陰キャのおれに、女子との思い出づくりなんてのは、夢のまた夢。容姿も性格も、モブ中のモブのおれが、修学旅行の思い出作りをもんもんと考えるなど、おこがましいにもほどがある。
おれみたいな男は、休み時間に『異世界転生もの』のラノベを読む人生がお似合いだ。今日もおれはみずから敷いた人生のレールに乗っかり、男子連中が「女子とどう修学旅行を楽しむか」計画を考えている横で、異世界転生ラノベを粛々と読むのだった。
おれは部活なんてものには入っていない。りっぱな帰宅部員である。余計な用事は作らず、まっすぐ家に帰り、ラノベを読み、オンラインゲームをし、YouTubeにて推しのチャンネルを視聴する。そんな有益な人生の積み重ねができる男が、おれである。
さて、あと数ページで、今読んでいるラノベ『異世界転生したら、マシュマロみたいなオバケになっていたんだが、なぜか深窓の令嬢に可愛がられているのでよしとします』――通称『マシュかわ』も読み終わるな。さっき、まっすぐ帰るといったばかりだが、帰りに本屋にでもよって、次に読む本を見つくろうのもありか。
———なんだ? さっきから、なにやら視線を感じる。
陰キャ特有の、考えすぎ芸人かと思ったが、そうではない。この教室のどこかから、不躾な視線を感じる。いったい、誰だ。女子……なわけはないだろうから、おれに入用の男子か。だが、男子たちは、さっきから修学旅行の話ばかりだ。他の男子も、眠っていたり、おれのように本を読んだりしている。おれに視線を送っているやつはどこにもいない。
いったい、なんだったんだ。やっぱり、気のせいか。
そう思い、なんとなく後ろを向いたときだった。
雛祭ちかな。彼女が、じっとおれを見下ろしている。視線の犯人は、こいつか。
まじめそうな、腰まで伸びた黒髪。芯のある、まっすぐな瞳。色白の整った顔立ちは、都会を歩けばすぐに芸能事務所から声がかかりそうなほどに、可愛い。
どうして、雛祭さんがおれのことを見ているのかはわからないが、女子に見られることに耐性のないおれは、恥ずかしいほどに顔が真っ赤になってしまう。最悪だ。読んでいた『マシュかわ』を、圧縮されて消えてなくなれと思うほどの勢いで閉じると、投げるように通学リュックのなかに放りこんだ。
「
「あえっ」
雛祭さんに話しかけられた!?
い、いったい何をやらかしてしまったんだ、おれは。女子に話しかけられる機会に恵まれたいないので反射的に、びくびくしてしまう。
「ずいぶんと集中して読んでいたようですね」
「はあ……」
「そんなに夢中になってしまうような物語なのですか」
「は、はい」
「若者の本離れが進むなか、読書が趣味とはすばらしいですね」
「い、いえ……」
「できれば……あなたに……」
それだけいうと雛祭さんは、あっというまにおれのそばから離れていってしまう。最後のほうは、声が小さすぎてなんといっているのかわからなかったが、おおかたオタクの生態を野次馬でもしていたのだろう。教室で堂々とラノベを読むヤツはどんなものを読んでいるんだろう、とな。
それにしても、あいかわらずまじめなことをいう人だなあ。
雛祭さんは、学年一位の成績の秀才だ。眉目秀麗、才色兼備とはアニメやマンガでよく聞く文字の並びだが、まさに雛祭さんにぴったりの言葉だった。
ただのクラスメイトのおれと雛祭さんだが、これまでに会話したのは事務的な内容だけだった。なぜ、今彼女はおれに話しかけてきたんだ?
まあ、まともに返事することすらできなかったし、これで、ますます縁が遠のいただろうが、仕方がない。どうせ彼女はおれなんかとは一生、縁のないような人だった。
修学旅行の沖縄では、小学生のようにおとなしく魚を見て、模範生徒よろしく家族にちんすこうでも買って帰ろう。
高校生活でも、おれは花のない月日を送って、終わるんだろうな。
次の日。
雛祭ちかなが、おれの目の前で足を滑らせ、転んだ。何が起きたのかわからない。
ただ、おれは掃除の時間に掃除をしていただけだったのに。
そう校舎裏で、おれはひとりで落ち葉をはいていたんだ。
イチョウの葉がこれでもかと地面をおおいつくしていて、竹ぼうきで、せっせと黄色の山を作っていた。
そんなとき雛祭ちかなは、ふいにあらわれた。
「鯉幟くん」
「え」
「あの、ちょっと時間あ……」
瞬間、雛祭さんはイチョウの葉っぱで足を滑らせた。まさにスローモーションのようだった。黄色が太陽の光に反射して、ちかちかと輝いて、雛祭さんの黒髪を彩った。ブレザーの制服に、イチョウが降りそそぐ。おれは、雛祭さんに手を伸ばしたが、間に合わなかった。
バラエティ番組の芸人のように、雛祭さんは見事に転んだ。真っ黄色のじゅうたんの上で、雛祭さんは仰向けになっている。黒髪が放射線状にひろがって、きれいだった。
「ひ、雛祭さん。大丈夫?」
「……うう」
「頭、うってないか」
「……ううーん」
「待ってな。今、先生つれてくるから」
「……あのう」
なんだか、違和感があった。
今まで、教室で見て、聞いてきた雛祭さんのしゃべり方と違うと思ってしまったのだ。走りかけていた、おれの足がぴた、と止まる。
雛祭さんはゆっくりと起きあがると、おれを見あげ、不安そうな顔をした。
「どっか、痛いの? 雛祭さん」
「いえ、ここって……いったい?」
「ど、どした」
ようすがおかしい。スマホで救急車を呼んだほうが早いかと、ブレザーのポケットから、スマホを取りだしたときだった。
「あのう、わたしの転生先は、ここですか」
空気が、時間が、止まったのかと思った。自分の呼吸音が、やけに鮮明に聞こえた。
雛祭ちかなは、まじめな生徒だ。こんな冗談をいうやつじゃないってことは、この半年でいやというほど感じていた。
掃除の時間にふざけた男子がいたら、まっさきに注意するのが雛祭さんだった。
先生に理不尽に叱られている生徒を見たら、正義に乗っ取って、かんぺきに論破するのが雛祭さんだった。
制服の着方も、髪の長さも、廊下の歩き方もきっちりと校則通りに。
自らのいでたちも、立ち振る舞いも、通知表も、ただひたすらまじめに。
そんな雛祭ちかなが、今おれの前でいった言葉は、なんだった?
……いや、聞き間違いだ。そうに違いない。
「えっと。今、なんていったのかな」
「転生先ですよ。わたし、異世界転生してしまったみたいなんですよね。さっきまでいた世界と、まるで景色が違うんです。あなたは、この世界の人ですよね。ここは、なんという名前の世界なんですか?」
「……あー、冗談だよな。雛祭さん」
「雛祭ちかな、はたしかにわたしの名前ですけど。どうして、あなたはわたしの名前を知ってるんですか?」
「ううーん、まじでどうした。ケガは? どこか痛いところは?」
「痛いところなんかないですよ。わたし、健康そのものです」
きょとんとする雛祭さん。だが、おれにはどうしても雛祭さんがウソをついているように見えなかった。
これまで、いっしょのクラスで過ごしてきて、雛祭さんがウソをつくような性格の人間ではないということはわかっていた。なにより、こんな陳腐な冗談をいって、どうなるんだ。女子たちでおれをからかっているにしては、ばかばかしすぎる。もっといいドッキリ方法があるだろ、と思ってしまう。
だとすると、雛祭さんはなんでこんなおかしなことをいっているんだ?
「雛祭さん、まさかとは思うが、本気でいってるのか。それ」
「……ごめんなさい。あなたが何をいっているのか、よくわからないんです」
「謝るなよ。そんな顔しなくていいよ。そうじゃなくてさ、あんたは……」
雛祭さんが座りこんでいるイチョウのじゅうたん。その上に、一冊の本が落ちていた。見慣れた表紙だ。いや、これは昨日までおれが読んでいた本だ。
昨日、雛祭さんが、おれを見下ろしていたときに、読んでいた異世界転生の本『マシュかわ』だ。
「その本……」
「ああ、これですか」
雛祭さんが、うれしそうに本を手に取った。
「わたしの故郷のことが、詳細に記されている本ですね」
「……は? え?」
「わたし、この本の世界にいたんですよ。今は、異世界転生して、このよく知らない世界にきてしまったみたいです」
「雛祭さんの、故郷の世界の名前、なんていうんだ……?」
声がちぎれそうになりながら、おれはなんとかそれをたずねた。すると、雛祭さんは『マシュかわ』をおれに見せつけるようにかかげ、すらすらと答えた。
「エーデルリリィという、ところです!」
「はあー……」
間違いなく、『マシュかわ』の舞台の名前だ。あのまじめな雛祭さんの口から、ラノベ世界の単語が飛び出してこようとは。
おれは頭を抱え、救急車を召喚するためのナンバーをようやくプッシュした。
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