第2話 ザルリス商会とサーカス船
「鹿の皮です。おじい様のお眼鏡に叶うかどうかわかりませんが」
ザルリス商会会長室の開け放たれた窓からは青い空と河港に停泊するサーカス船が見えていた。
祖父は壺の蓋を開けて中をのぞき込み、「黄色か」と口の片端をあげる。鹿角の査定はすでに終わり、わたしがこれまで持ち込んだ中で最高値がついた。
「それで、マリーが手に持っている包みは何だ?」
「孫からの差し入れです。おじい様が耄碌したのではないかと心配になったので、鹿肉の特製煮込みで若返っていただければと思って」
フオッ、と祖父は上機嫌なときの笑い方をする。美人秘書のラーニャに包みを渡すと部屋から追い出し、わたしとソファに向かい合って「嫌か?」と前置きもなく聞いてきた。
「できないことをしろと言われるおじい様の意図がわかりません。もしかして子爵家に脅されているのですか?」
子爵家に秘密が漏れたとなると、二人三脚でやってきたトッツィ家とザルリス商会の関係にも変化が生じる。わたしがいなければ
「マリー、そう案ずるな。とりあえず会ってみるだけ会ってやってくれ」
会って……
「子爵令息はお前より三つ年上で、皇太子直属の紫蘭騎士団員だ。皇太子殿下は去年オーラを発現したばかりだがオーラ量は歴代最高ではないかと噂されているし、お前の縁談相手はその騎士団で副官になることが内定しているらしいぞ。結婚したら帝都住まいだ」
なにが面白いのかフォッフォ、と祖父は笑う。
「おじい様、肝心なことを教えていただいておりません。シュレーゼマン子爵様はわたしの正体を知っているのですか?」
「子爵は知らん」
「ならどうしてわたしなど」
「おや、マリーは自分の価値をわかっておらんらしい。ザルリス商会会長の秘蔵の孫でトッツィ男爵が溺愛する娘だぞ。町を歩けばお前の美しさに男どもはみな振り返り、狩りの腕も優れ、しかも賢いときてる。お前が男爵家から籍を抜いたら我先にと商会の男どもが求婚するわ」
「大げさです。わたしの姿を見て振り返るのは商会の方々だけですし、それはわたしが会長の孫だからです」
「商会に好いた男でもいるのか?」
青い髪の少年が頭を過り、わたしは打ち消すように首を振る。
「同じ年頃の方とは接する機会がありませんし、親しくさせていただいてる方はみな結婚されていますので」
「わしがそうしてるからな」
フォッ、と祖父は満足げな顔。商会で色めいた出会いがなかったのはそういうことらしい。
「おじい様はシュレーゼマン様とわたしの結婚を望んでいるのですか?」
「それも一興」
「孫の結婚をそのように」
「マリーが嫌なら断ればいい。だが、運命の出会いはどこに落ちてるかわからんぞ」
祖父はニヤッと嫌らしい笑みを浮かべて窓外を見た。船首で靡く垂れ幕に『リンカ・サーカス満員御礼』とある。羞恥心がむくむくと膨らみ、頬が熱くなった。
「運命の出会いなどどこにも落ちておりません」
「一度は見つけたではないか、運命の相手を」
「あれは子どもの戯言です。十年近くも前の話を持ち出さないで下さい」
わたしがサーカス団の少年にプロポーズしたのは八才の時。サーカス船は今と同じようにザルリス商会の目の前の河港に一か月に渡って停泊し、甲板上では毎夜ショーが開催されていた。
帝国最高峰のサーカス団〈リンカ・サーカス〉。
皇室から特別な許可を受け、帝国内持ち込み禁止とされている五本尾の魔獣もサーカス船だけは例外。他にも普段目にすることのできない魔獣を多く保有している。船全体に貼られた結界、そこかしこに設置された魔法具。会長室まで漂ってくる魔力だけで気分が高揚する。
今思い返せば、あれは恋なんかじゃなく慣れない魔力に興奮しただけだ。
「そうそう、シュレーゼマン卿がマリーと一緒にサーカスを観に行きたいと言っていた」
「サーカスですか?」
「シュレーゼマン卿は一週間ほど前からトッツィ領にいるのだ。騎士団の仕事で来ていたのが一段落したらしくてな、休暇も兼ねて数日滞在するからマリーに会いたいと」
男爵邸への正式な訪問もなく(訪問されても困るけど)、まるでバカンスのついでに思い立って求婚したような。
もしかしたら向こうも結婚に乗り気でないのかもしれない。だとしたら、無礼には無礼で返すのが礼儀というもの。
「でしたらおじい様、今夜の公演でお会いするというのはどうでしょう。わたしもこうして町に下りて来たことですし」
ついでに求婚されたのなら、ついでにお会いするまで。すでに日は傾きかかっている。渋るかと思いきや、祖父は膝を打って立ちあがった。
「早々に遣いをやろう。マリーの母さんにはわしから言っておく。今夜はうちに泊るといい。そうだ、今日入って来た荷に上物のサリーがあった。あれをお前にプレゼントしてやろう。ちょっとここで待ってなさい」
呆気にとられるわたしを置いて、祖父は慌ただしく部屋から出て行った。しばらくして秘書のラーニャがサリーと化粧箱を手にやってきて、わたしは別室に連れて行かれると着ていたサリーを脱がされた。
祖父が用意したサリーは鮮やかなターコイズブルーに、さざ波のような白の刺繍が入ったもの。下に着ていたチョリとペチコートもサリーに合わせて着替え、二、三年前に本邸に行ったとき以来久しぶりに化粧をすることになった。
すべてラーニャにされるがまま。彼女は鼻歌をうたいながらわたしの唇に紅をのせる。
「ネックレスとイヤリングは防御魔法が付与がされていますので、魔獣が襲ってきても大丈夫ですよ」
ラーニャの赤い唇がクスッと笑みを漏らす。言い返したいけど、喋ったら口紅がはみ出してしまうからできない。
「あの頃のマリーにはまだ可愛げがありました。あのマリーが商会専属ハンター顔負けの狩りをするようになるなんて、誰も想像してませんでしたよ。鹿を狩って自ら皮を剥がしてくるなんて、
ラーニャに掴まれていた顎が解放され、ようやくわたしは喋る権利を与えられる。
「どうして今日に限っておじい様もラーニャさんも昔話でわたしをからかうんですか?」
「さあ、サーカス船のせいでしょうか」
八才のわたしを襲ったのはフクロウの魔獣だった。
正確に言うと襲われたわけではなく、フクロウはゲスト出演したわたしの頭の上のリンゴを獲ろうとしただけだ。サーカス団員の腕から低空飛行で目の前に迫るフクロウは思っていたより何倍も大きく、わたしは舞台上で泣き出してしまった。
そのとき現れたのが青い髪の少年、ルース。
次のプログラムのため舞台袖に控えていた彼は、わたしの元に駆け寄って涙を拭いてくれた。その後わたしを最前列のVIP席に送り届けると、舞台に戻って観衆の前で堂々と笑顔でお辞儀をする。
マナ石ランプで煌々と照らされた甲板上のステージ。道化師がパチンと指を鳴らすと光の鳥カゴのようなドーム状結界がルースのいる舞台全体を覆い、そこに七、八匹ほど蛇が放たれた。
毒々しい色の蛇は山で見たことのある蛇に比べて異常に動きが速かった。一匹、また一匹とルース目がけて襲いかかり、そのたびに観客席からは悲鳴があがる。ルースは青い髪をなびかせて軽やかに蛇をかわし、正確なナイフさばきで毒蛇を仕留めていった。蛇の色と刺さったナイフの柄の色は全部同じ。彼に笑顔を向けられた瞬間、わたしのハートも仕留められてしまった。
VIP席から駆け出したわたしを、ルースは元々そういう演出だったような顔で迎える。
「あなたは運命の王子様です。結婚して下さい」
叫んだわたしにルースは一瞬だけ驚いた顔をしたけれど、すぐ笑顔に戻った。
「小さなレディー。あなたが大人になったら迎えにあがりましょう」
観客席は拍手喝采。わたしはルースと手を繋いで舞台から降りた。
あの時のルースは今思い出してもやっぱり素敵。でも、甘酸っぱい思い出はここまでだ。そのあとの記憶は頭から抹消して運河の底に沈めてしまいたいくらいわたしを羞恥の渦に落とし込む。
「あの青い髪の男の子、大人になったら迎えに来ると言っていたでしょう? もし本当に迎えに来たらマリーはどうするんですか?」
ネックレスの長さを調整しながら、ラーニャは鏡越しにわたしと視線を合わせた。
「来るはずありません。来られても困るし、あんなのは舞台上のリップサービスです。きっと覚えてもいないわ」
「わたしは覚えてますよ」
「それは、ラーニャさんがわたしを何度もからかうからでしょう?」
あのサーカスの夜、すべての公演プログラムが終わってからわたしは祖父に連れられ楽屋を訪ねた。サーカス団員たちはわたしのことを「未来の奥さん」と呼び、ルースはわたしを見つけると嬉しそうに手を振った。
「マリーのおかげですごく観客ウケが良かった。ありがとう」
ルースが放った言葉で、わたしは光り輝く舞台上から真っ暗な運河の底に突き落とされた。フクロウに襲われたときよりよっぽど泣き出したかった。でも、わたしはザルリス商会会長の孫であり、トッツィ男爵家の娘。幼いながらプライドがそれを許さなかった。
「ルース様のお役に立てて良かったです」
サッとお辞儀をして踵を返した。
リンカ・サーカスはその後一週間ほど河港に停泊していたけれど、わたしが再び船上に足を踏み入れることはなかった。翌年やって来たサーカス船にルースの姿はなく、バンラード王国に向かったという噂を耳にした。
今頃どこで誰と何をしているのか。三つ年上だと言っていたから今年で二十歳。どこかに腰を落ち着けて家庭を持っているのかもしれない。
そういえば、シュレーゼマン卿もわたしより三つ年上だ。
「ラーニャさん、ウィッグ貸してもらえませんか?」
「ウィッグですか? 髪はそのままでいいと思いますよ」
「おじい様は子爵様に秘密は知られていないと言ったけど、息子のシュレーゼマン卿は知っているのかもしれないでしょう? 仕事で来たっていうのもなんだか怪しいし、髪色だけでも変えておこうと思って」
獣人の髪色は獣の時の体毛と同じ色だ。商会のリスザル獣人の中には正体がバレないよう髪を染めたりウィッグをつけている人が多い。ラーニャはその日の気分でウィッグを選ぶから、予備のウィッグがいくらかあるはずだった。
「わかりました。この服に合わせるならプラチナブロンドのロングヘアかネイビーブルーのショートボブ、ライトブラウンのウェービーヘア、それから……」
「一番地味なのにして」
ラーニャは部屋を出て数分で戻ると、手早く地毛をまとめて茶色のウィッグをわたしの頭にかぶせた。腰あたりまである長い髪はゆるやかなウェーブを描いている。たしかに町でもよく見かける髪色だけど、
「地味ではないですよね」
「マリーが美しいせいです」
「それならラーニャさんの化粧のせいですね」
「腕がいいですから」
一度閉じた化粧箱を開き、ラーニャは髪色に合わせて化粧を修正する。黄色い髪の時よりも少し落ち着いた雰囲気。
「子爵家の令息は青い髪らしいですよ」
ラーニャが含みのある笑みをわたしに向ける。
「だから二人ともわたしをからかったんですね」
サーカス団で働いていた少年が貴族のわけがない。それなのに、妙に気持ちが落ち着かないのは停泊するサーカス船から漂ってくる魔力のせい。
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