第7 先代社長

 先ずは桜木は山尾の経歴を述べて彼を持ち上げた。この世界に入ってきたのは俺の方が早いが彼は絵を描く事に関心があり、その点でモナリザのような不可解な女性の表情の写真を撮ったらおそらくピカイチだろう。まああいにくと内で撮るのは主に結婚式の記念写真だから本来は彼の撮りたい写真じゃないが、それでも上手く撮れるのは矢張り恵まれたスタッフのお陰だと次に坂上と麻生を持ち上げた。

「内の室長は隣の式場からお嫁さんが入って来た瞬間から別人のようになってゆくのを何度も見てました。普段からあれだけ研ぎ澄まされたら女の人は放って置かないのにそれとシャッターを握るとまた眼差しが変わるから凄い人だと思うけれど普段とのギャップに思わず身が引けてしまうから人生かなり損をしているけど気付いてますか山尾さん」

 と麻生に話し掛けられた。隣で坂上も頷いていた。

「それは俺も会長も認めているよだから会長は三カ所しかないスタジオの一つを彼にまかせたんだぜそれだけに仕事の出来る人間を孫の現社長が無視するのか」

 と桜木も現社長から何とか真面に見てもらえるように今日は皆を集めたようなもんだと言ってくれた。

 確かに山尾の撮った写真は好評でも、どう良いのか判断しにくい。それを押しの利く桜木が認めるとスタッフの二人も感心したようだ。

「だから会長が一番婚礼の多いあのホテルを山尾に任せて俺は二番煎じで駅前のホテルなんだ」

 と言うと山尾も苦笑いをしていた。

「じゃあどうして会長が一番売り上げのあるホテルを山尾さんに任しているのにその孫の現社長は山尾さんをあんな風に忌み嫌うのですかそれとも一緒に行った登山でなんかあったんですか室長は何も言ってくれないから益々気になるんですけれど」

「山尾も言いたくないんだろう」

「あそこまで決めつけられればあの社長に何を言っても火に油を注ぎかねないからなあ」

「それじゃあいつまで経っても良くならないわよ」

「じゃあ俺から説明してやる」

 先ず前社長は毎年穂高に行っていて、我々三人の中では山への憧れは一番強かったが、胃腸が弱くて胃潰瘍に悩まされていた。しかし入院は一度もなくいずれも一週間の通院で快復して登山には支障がなかった。それがあの年は丁度夏山シーズンに体調を壊したが秋にはもう問題がなかった。しかし新雪の便りが届き出すと前社長は居ても立っても居られずに登山計画を立てた。だから山尾が率先して誘ったのではなく、もう今年は山登りは諦めて来年まで英気を養うのが常道と説得しても聞き入れなかった。じゃあ単独で穂高を走破してくると迄言われて、同行した山尾の経緯を桜木が説明して山尾に代わった。

 静かに隣で聴いていた山尾は、もうスッカリ生ビールを空にして追加を頼んでいた。

「せっかくその気分にさせて、お前は前置きが長すぎるんだ」

 と講釈を立ててから喋り出したが、みんなはあの威厳のある桜木さんをお前扱いするのには感心したようだ。

 京都を始発新幹線で出て名古屋で特急列車に乗り換えて松本電鉄で新島々から上高地バスターミナルに着く。そして徒歩で涸沢小屋に一泊する。翌日は涸沢小屋から穂高と奥穂高を経て岳沢小屋で一泊して上高地から帰る予定を立てて出発した。

 社長の孝幸たかゆきは通年の穂高登山記録を何とか維持出来たと満足していた。そして胃腸はすこぶる良いと家族に言ったように、行きしなの新幹線から缶ビールを二缶も空けていた。まさに家族の説得から勝ち誇ったように祝杯を挙げていたのだ。坂出写真館をこれから会長に代わって背負って立つという気概より、穂高に惚れ込んだ孝幸の純粋さに山尾も圧倒されていた。勿論今面倒を起こしている息子の孝治だけは、東京の私立大学に居て此の時は全く関与していなかった。

「坂出、いつまで登山を続けるつもりだしかも平日とは謂え婚礼シーズンのかき入れ時に」

 と諫めてみても今回は特例でもう夏の暇なとき以外は行かないと口で言っていても此奴こいつの情熱には無理だろうと半ば諦めて同行した。

 秋晴れの穂高に立って特に今年の登山は危ぶまれていただけに孝幸は感無量だったようだ。帰りに一泊した岳沢小屋では「あの岩場が続く稜線を西穂高へこれなら挑めたのに」と眺めながら随分と残念がって、その無念を流し去るのに相当のビールを必要としたぐらいだ。

「孝幸ッもういい加減にしろまだ下山途中だ。呑むのは電車に乗ってからにしろ」

 と諫めても矢張り穂高から西穂高まで縦走したかったようだ。

 問題の吐血は岳沢小屋から上高地までの二時間四十分のコースで起こった。朝食を終えて上高地へ向けて下山し始めた。此処でも孝幸は軽快な足取りだった。もうスッカリ辺りは樹林帯の山道で大きな木に遮られて、木々から洩れる陽射しを浴びながら、近付く冬の足跡を愛でながら歩いていた。すると急に孝幸が咳き込んでしまった。如何どうしたと振り返ると口を押さえていた手から血が噴き出していた。山尾は慌てて駆け寄ると大丈夫だと言っているが、噴き出した血が止まらず直ぐに近くの大木を背に座らせた。悪いことにそこは今朝、出た小屋と上高地までの中間地点だった。直ぐに携帯で救助を頼んだがあいにくと森林地帯でヘリからつり上げて貰うには、もっと開けた見通しの良い場所まで移動させる必要があった。丁度通り掛かった登山者に助けて貰って移動した頃には、もう孝幸の意識はなかった。松本からやって来たヘリで病院まで運んで貰ったが、もう出血多量で手遅れだった。だから相当量の吐血をしたようだ。



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